4-5.虎と言う存在


 蒼愁(ソウシュウ)は商館の奥の一室に案内された。そこは以前訪れた時に同じく案内された部屋であり、

その分懐かしさも一入(ひとしお)であった。

「蒼愁殿、お久しゅうございます」

 室内には商館の主、桐信(ドウシン)が相変わらず丁重にも丁重に迎え入れてくれた。しかしこれでもま

だ気が楽になった方で。初めは呼び方も蒼愁様と言っており、流石にそれは遠慮した蒼愁が数分をかけてよ

うやく殿付けにしてもらったのである。

 まったく桐信と言う者も、或いは蒼愁よりも生真面目な人物かも知れなかった。

 妻の桐音(ドウイン)も相変わらずで、夫の横に座ると穏やかな笑顔を浮かべ。

「ささ、蒼愁様御座り下さい」

 とこちらも遠来からの客人のように扱ってくれたのだった。

 しかし彼女の方はどうしても様付けを止めてくれなかった。あくまでも蒼愁を持成(もてな)したく、そ

れが言動の端々にまで出ているのであろう。もしかすれば蒼愁の事を自分の息子のように思っているのかも

知れない。桐夫妻には娘が一人きりで息子がいないらしいのだ。

 そしてその娘も王に嫁いでおり、たまに孫である姫君が遊びに来てくれるものの、やはりどこか寂しい所

があるのだろう。

 その為かこの二人は蒼愁に対して初対面から実に甲斐甲斐しく世話をやいてくれた。あの時の感謝は生涯

忘れる事は無いだろう。二つ目の故郷とすら、蒼愁の方も今では思っている。

 だがそれ故に何のお返しを出来ない自分がもどかしく、恥かしいのである。

「蒼愁殿のご活躍は聞き及んでおります。真にご立派で私も妻も店の者達も皆して喜んでおりました。そし

て何よりもご壮健なようで安心致しました」

 桐信はそう言って心から嬉しそうに笑顔を浮かべた。この男の笑顔はとても実直であり、素直であり、見

ている者の心を朗らかにする。生真面目でたまにしか笑わないのだが、彼が店の者に慕われている要因の一

つには、この笑顔が大きく作用しているに違い無い。

「いえ、私は何もしておりません」

 誉められた蒼愁は慌て腐ってその言葉を否定する。本心からなのだろう、珍しく顔全体で慌てていた。

まあ、確かに彼はそれほどの事をやった訳でも無いと言える。

 彼は北昇(ホクショウ)の一件では主に使者として懸命に働いたのだが、しかしどれもこれも彼で無け

れば出来たとは言えず。漢嵩(カンスウ)の時は司譜(シフ)上将に付いて行っただけであるし、明宗家当

主である明泰(ミョウタイ)の説得を思い付いたのは手柄ではあるかも知れないが、しかし参謀府の人間で

あれば誰しもが出来た事であるだろう。

 元々蒼愁の独創では無く、参謀府の情報力かあったからこそ出来た事であるし、参謀府が以前から色々と

下工作もしていたのである。

 つまりは蒼愁は未だ彼自身としての仕事を為したとは、胸を張って言えないのである。少なくとも彼はそ

う思っている。

「ふむ、やはり蒼愁殿は最近見ない程真面目な方ですな」

 それを聞いて桐信が感心して頷いた。

 しかしこの生真面目な男に真面目と誉められる気持はどのようなものだろうか。終始穏やかに微笑んでい

た桐音は、おそらく心中転げまわる程この二人の会話が可笑しかったに違い無い。

 そして暫しお互いにこの数月の事を報告し合い、一段落付いた所でずっと気になっていた事を桐音が問い

かけた。

「蒼愁様、今回はどのくらい居て下さるのですか」

「はい、明後日には出仕しなければなりませんから。宜しければ今日と明日夕暮れまでは」

「そうですか、やはり黒竜ともなればお忙しいのですね。せめて今日明日だけでもごゆっくり静養されて下

さいませ」

 桐音はそう言ってまるで貴人に対するように深々と礼の姿勢を取ってから、店の様子を見る為にこの部屋

を辞した。桐明館は常に忙しい。

 蒼愁も今は営業時だと言う事もあり、早々とその後桐信も解放して差し上げ。自分は暫くこの桐明館の在

る一画を歩いて回る事にしたのだった。街の気持を知るのも参謀としての大切な勤めである。黒竜とは例え

休暇であっても無為なモノにしてはならないのだ。



 蒼愁は桐明館の前の大通りを当ても無く彷徨ってみた。

 時間も昼前と言う事で、立ち並ぶ店が更に活気付いている。特に食料品店や酒家などはその影響が濃い。

 蒼愁も腹具合も空いて来た事であるし、近くにあった酒家へと足を運ぶ事とした。彼はあまり酒を嗜む方

では無かったが、酒家とは酒のみでは無く料理も出す。つまりは酒家とは簡単に言えば飲食店なのである。

 このような酒家はどの街にも当たり前のようにあり、行商人などだけで無く、衛兵や街の人等も度々訪れ

ている。ひょっとすれば全ての店の中でも一番需要が高いのかも知れない。

「いらっしゃいませ!」

 景気の良い掛け声が飛ぶ。見渡すと客にも荒々しい姿をした者も多く、どうやらそう言う連中に好まれる

店らしかった。こういう店は少々厄介事も多くなるのだが、その分安くて量がありそこそこ美味い物を出す

と相場が決まっている。

 客達は蒼愁の姿が珍しいらしく彼の蒼の衣にちらほらと視線を向けた(今は休暇中であり桐明館来訪の

為、黒竜衣では無く一張羅の蒼い衣を着ている)。その蒼の衣だけでは無く、彼のような見るからに文官、

といった男が来るのも珍しいのだろう。

「何にしますかい!」

「お茶と饅頭を下さい」

「あいよ!」

 店主が景気の良い声で豪快に応える。見た目とその声量の大きさは怖いが、どうやら人の良い男であるら

しい。蒼愁は内心少し緊張していただけに、そうと解って密かに安堵した。まあ彼は感情を実に当たり前

のように顔に出さないので、密かで無くともその機微は誰にも解らなかったろう。

「・・・・・・・・」

 他の客達は静かに飲んでいるらしく、先ほどからあまり話し声は聞こえて来ない。この手の荒くれ者達は

大抵大げさに騒ぐものなのだが、このようにある種整然とした雰囲気を持つ事から察するに、もしかすれば

この男達は虎かも知れない。

 虎とは要するに国雇われの傭兵団であり、平素は近く戦乱の起きそうな街に滞在して募兵を待ち、戦時に

は正規兵団である竜と共に懸命に戦う。現在大陸には数え切れない程の傭兵団が確認されており、その規模

と質も正にピンからキリまで様々である。

 ただ彼等に共通しているのは、決して自ら揉め事に近寄らず、それを起こす事も好まない。つまりは金に

もならない事に労力を使うのは無駄だと言う事であり、傭兵団というのはその程度には合理的で無ければや

っていけない。そしてその結果として、虎は大抵はこのような整然とした雰囲気を持っていた。

「へい、お待ち!」

「ありがとうございます」

 蒼愁は馬鹿丁寧に礼を言ってから、大きな饅頭に貪りついた。王城にある食堂の饅頭には及ばないが、肉

汁が溢れそうで野菜も豊富に包まれており、とても美味い。

 お茶の方も何の変哲も無い有触れた物なのだが、味わい深くすっきりとしてとても良い物であった。

「うーん、美味い」

 そう言うわけで、彼は終始にこにこと微笑みを絶やさずに幸せそうに食べ続けたのである。

「しかしここに虎が居ると言う事は・・・」

 饅頭を平らげ、腹も治まった所でお茶をのんびりと啜りながら改めて考えてみる。

 虎は傭兵団と言う属性からかその手の戦乱の話にはひどく機敏で、恐ろしいほど正確で新しい情報を持っ

ている。それがこの衛塞(エイサイ)に居ると言う事は、つまりはこの壬国にまた戦の兆しが見えていると

言う事になるだろう。

 だが蒼愁が知る限り、壬から戦を仕掛けると言う話は無かった。となれば他の国が攻めて来ると言う事か、

そこまで行かなくても他国に不穏な動きがあるのを虎が察したと言う事になる。

「これは少し探ってみなければ」

「またのお越しを!」

 蒼愁は支払いを済ませ、店主の掛け声に見送られながら店を出た。

 虎に関する事は商人に聞くのが一番だろう。武具の売れ行きとその買い手の種類、それを知るだけでもた

くさんの事が解る。

 そして彼は早々と桐明館へと戻る事に決めた。決断の速さは彼の長所の一つかも知れない。

 こうしてどうやら彼の休暇は早々と終ってしまったようだった。まあ、乱世の休暇などそのようなものか

も知れない。在って無きが如しであろう。

 蒼愁は気を引き締める為に大きく深呼吸をした。それは多分に溜息混じりのモノとなってしまっていたの

だが、それは誰も責められまい。




BACKEXITNEXT