5-1.凱に一物ありき


 大陸南東部に凱(ガイ)と言う国がある。

 東海青竜王を守護とし、碧嶺(ヘキレイ)に仕えた上将軍凱聯(ガイレン)を祖とする国家である。

 凱聯は碧嶺の古くからの友人であり、彼と一番多くの時間を共にした。真面目で清廉潔白だったが、それ

故に頑固で潔癖症のきらいもあったようだ。その性格故か碧嶺の跡を継ぐのは自分しかいないと周りに巧く

担がれてしまい、壬牙(ジンガ)、双正(ソウセイ)と三つ巴の争いの発端を開き、結果として碧嶺統一国

家の崩壊を齎してしまった。

 碧嶺や他の将達からの信頼も厚く、悪い男では無かったのだが、歴史ではそうであるが為に滅びを招く者

も時に現れる。潔癖症であったが為に当然賦族を嫌う事甚だしく、碧嶺在世当時からしばしば賦族と揉め事

を起こしても居たようであった。つまりは生来、摩擦の起こしやすい人物であったのだろう。

 凱の北部は穏やかな草原が広がっているが、南部は湿地帯となっており蒸し暑い。元々は草原に造られた

国だったはずなのだが、賦族に追いやられそこまで押し寄せてしまった。当然作物の収穫量も落ち、凱の人

間は賦族を憎む事甚だしい。そんな所だけは国祖凱聯から受け継いでいるようだ。

 凱の首都の名は偉世(イセイ)。以前に国家の中心点として設計されたそれは、今は賦への再接近領に近

くなってしまっており、政治の中心と言うよりもむしろ賦への軍事拠点となっている。

 その防衛力も年々強化され、今ではあの望岱(ボウダイ)にも匹敵すると言われるほどであった。


「賦めが、相変わらず薄汚い手を使いよるわ・・」

 現凱王、凱禅(ガイゼン)は彼の私室にて呟いた。今は彼の周りには誰も居ない。

「双などはどうでも良いが、壬との間に罅が入るのは不味い」

 他国では凱が賦と同ずるのではないかと噂されているが、彼に言わせればそれは笑止以外の何物でも無か

った。

 凱は賦族を憎む事甚だしい。何しろ今の賦の領土の半分近くは元は凱の領土なのである。

「そして壬と敢えて不仲になるなどと考えもしない事だ」

 壬の隣接国である双は壬の建国に反対し、猛撃を繰り返したのだが。凱から言わせてもらえば壬と言う国

が出来、これほど嬉しい事は無かった。

 何しろ凱は壬が出来る以前は四国家一の弱国と言われていたのである。そう、それは今の壬の状態と同じ。

つまりは壬が無い頃は、この凱が賦に一番に狙われていたと言う事でもあるのだ。

 確かに北部に領土を接する国家が増える事は歓迎出来る事では無い。だがそれも賦への盾と考えれば、そ

れは逆に無くてはならない存在へと変わる。

 それに壬の黒竜は確かに強いが、それも領土内に篭っていればこそ。もし凱に遠征しても凱禅はそれを容

易く破る自信はあった。このように壬とは凱にとってどこまでも都合の良い国であったのだ。

 だからこそ今までもそう懇意にして来た訳では無いが、間違っても敵対する事だけは避けてきていた。そ

れが今になって急に両国の関係が悪化してしまったのだ。それも他ならぬ賦族の手によって。

「確かに今賦と組めば壬を落とす事は容易いかも知れん。だが壬が崩れれば次は我が凱、そして玄、最後に

双と賦は簡単に平らげてしまうだろう。その程度も解らぬとは双も腐り果てたものよ」

 凱禅は溜息を吐いた。

 そもそも双国さえしっかりとさえしていれば、このような事態に陥る事は無かったのだ。

 賦の軍事力を常に四分させ、疲弊し果てるのをただ待てば良かった。例え何百年かかろうと、そうしてい

れば賦は滅んだはずであろう。如何に賦族が剽悍で豊かな食糧地帯を持つとしても、あれほど戦続きではい

ずれは絶える。それが人間が造る国と言うものだ。

「過ぎた事を言っても始まらぬ。それよりも、今手を拱いていれば我が国にも危機が訪れよう」

 現在凱は確かに軍備を整えている。しかしそれは噂のように壬へと備えたものでは無く、実は賦への備え

であった。もしここで壬の警戒心を解く為に接近領の軍備を縮小などすれば、それに乗じて賦が攻めて来る

事も容易く想像出来たからである。

 賦にとっては凱がどうこれに反応しても結果としては利す事となり、それだけに凱禅は腸(はらわた)が

煮え繰り返る思いなのであった。

「ならば今を捨て、先へ手を打つとするか」

 壬へは外交にて納得させるしか無いだろう。それは最早決まっている。であるならば目の前の小事は早く

に捨て、先へ先へと思慮を伸ばす事が、結果として賦への対抗手段となるだろう。

 この後世策謀好きとまで言われる男はまた一計を案ずるべく、腹心の部下を一人呼ばせた。



 凱禅の召喚に応じ、一人の参謀官が彼の元へと参上した。

 その名は法鳴(ホウメイ)、女性の参謀官でもあり魅力溢れるしなやかな肢体を持つ。それを利用し、参

謀には珍しく敵地への潜入工作を得意としていた。言ってみればより能動的な参謀と言える。

 その魅力故に色々と好悪の噂も絶えないのだが、彼女の実力は紛れも無く本物であり、凱禅も当然その腕

を買って腹心としている。壬国ほどでは無いが、この凱にも公私混同をせずの規律は厳しく存在するのだ。

「お呼びでございますか、陛下」

 凱禅の前にたおやかに傅き、深く礼の姿勢をとる法鳴。彼女の品の良い仕草はまるで絵画の如く、その場

その場の情景に健やかに合う。凱禅が買っているのは一つにはその生来の品の良さがあるのだろう。

 いくら美しく魅惑的な肉体を持っていたとしても、それに品が無ければ娼婦と同じ。それだけでは人を誑

すのには時間と労力がかかる。品が加わってこそ、初めて人に畏敬の美を思わせる事が出来るのだろう。そ

してそれこそが人の心を捕る。

「うむ、頼みたい事がある」

「何でございましょうか」

 凱禅は手で法鳴を身近へと呼んだ。つまりは内密な話である、と言う事を言っている。それは法鳴も良く

解っており、本来なら非礼に値する事ながら、素直に王の側へと更に近付いた。

「壬との件は心得ておるな」

「はい、参謀府の者は皆その件で緊張しております」

「うむ、賦めがようもやってくれたわ」

 この凱でも参謀府が主に諜報活動の指揮をとっており、その能力は高い。

 凱と言う国は大兵を持っての会戦よりも、むしろこのような諜報能力と外交技術に長があった。それは長

年弱国としてあった歴史が大きく作用していると考えられるのだが。代々の王や高官達に権謀好きのきらい

があった事も、少なからず関係しているに違い無い。

 その諜報と外交においては凱は他国よりも一歩抜きん出ていると言って良い。ただ、双に次いで兵が弱い

と言われているこの国家では、双程の兵数も養えない事もあってそうするしか他に道が無かったと、そんな

悲愴じみた内情もその中には含まれているのだったが。

 当然この事は他国にも広く知れ渡っており、その分どの国家もこの凱にきな臭さを感じている。壬の上層

部達が揃ってこの凱にあれだけ警戒心を持っていたのにもこういう理由があった。外交上手と言う事はそれ

だけ都合良くどの国とも関係を持っていると言う事であり、お互いに利用はすれども信頼せず、と言う構図

が出来てしまっているのかも知れない。

「それでは私は壬へと赴けばよろしいのですか」

 話の流れから推測し、法鳴がそう王に問うた。

「いや、正確に言えば壬では無い。お前には北守へ行ってもらう」

「北守ですか!」

 法鳴は珍しく大きな声を上げた。暫くしてそれに気付き、慌てて非礼を詫びたが。流石に恥かしかったの

か少し頬が赤らんで見えた。

「うむ、漢嵩は難しかろうが、他の者ならば引き込む事も可能であろう」

「しかし地理的に考えると、北守が我が国に降るとは思えませんが・・」

 北守と壬の同盟は信頼関係以上にその地理的関係において成立しているとも言える。双と賦を敵にしてい

る両国とすれば、お互いに同盟を結ぶ事でしかお互いに存続する事が難しくなっているからだ。

 だからその北守と一国離れている凱が北守を引き込む事は難しい。属国となっている北守が勝手に他国と

外交する事は出来ず、例えそれを破って凱と同盟したとしても。壬国との関係に穴があけば、北守は遅から

ず滅んでしまうだろう事は容易に想像出来るからだ。

 凱から同盟軍を派遣するにしても、北守までの距離があり過ぎるのである。

「そうだ。だから今すぐと言う訳では無い。良いか法鳴、策と言うものは常に今よりも後々の事を考え、出

来る時に出来る全ての手を打っておくものだ。そしてそれが本来の参謀と言うものである」

「ハッ、出過ぎた事を申しました、お許し下さい。では早速私は北守へと参ります」

「うむ、あちらでの行動は全てお前に一任する」

「承知致しました」

 再び深く礼の姿勢をとった後、法鳴は俊敏な仕草で辞して行った。おそらく後一時も経たずして彼女は旅

の上の人となっている事だろう。

「さて、差し当って肝心の壬にはどうすべきか」

 そして凱禅はまた次の策を練り始めた。彼は真に多忙な頭脳労働者であるようだ。




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