5-4.漢嵩、困惑す


 北守(ホクシュ)の首都北昇(ホクショウ)。以前は双の東方への防衛拠点であったこの街は、壬の属国

となった今は対双、賦への防衛拠点へと姿を変えている。

 しかし幸い今の所そのどちらの国も攻めてくる様子は見えなかった。双には最早戦端を開く気概が無く、

賦も流石にこの国まで相手にしている暇は無いのだろう。この北守一帯が守り易く攻め難い地形をしている

事もそれを助けていると考えられる。

 この一帯丸ごと壬に寝返ると言う離れ業をした事で、まだ暫く政情は安定していないが、どうやらその隙

を付かれる心配は無いようだ。

 しかしその政情も今では国家として保てる程には回復しており、壬への補給地としてその属国としての役

目を果たしている。

 北守将軍漢嵩(カンスウ)の名声と宰相明節(ミョウセツ)の手腕があれば、後数月もあれば安定し、力

を蓄える事が出来るだろう。兵数も現在三万を越える。これからも双から流れてくる者が増え、それによっ

てこの兵数もまだまだ増大すると考えられる。

 このまま順調に行くとなれば、或いは誰も知らない間に一大勢力となってしまう可能性すらあった。

 何しろ双王への信頼はすでに国民には無く、貴族主義のやり方にもうんざりしている。それは左遷された

地方自治官達にも言える事で、北守が安定すれば、その傘下へと次々と漢嵩を慕って入って行くかも知れな

い。現にそのような証書が連日漢嵩へと送られて来てもいるのである。

 或いは漢嵩が今の双国全土の王となる日も、考えられない事では無かった。

 それだけ漢嵩は双の民から尊敬と崇拝を受けているのである。

「・・・・・・・・」

 しかしその漢嵩が、今は何故か不機嫌そうに明節を前に座していた。場所は彼の私室である。

「真に腹立たしい事だ」

 その不機嫌の原因は凱からの使者にあった。凱王から預けられたと言うその書状には、北守と是非友好を

持ちたい、自分は漢将軍を心から尊崇しているのだと、そう記されている。そしてしっかりと数々の貢物

も添えてあった。

 他国であれば、それは単なる友好の証となっただろう。しかしこの北守は壬の属国なのだ。古来より属国

となった国は、その主国にのみ服従し、他国と勝手に外交するなどとは礼儀に反すると考えられている。主

国との信頼関係のみが属国が生き残る手段である以上、それを犯す事は自滅行為に他ならない。

 更に漢嵩個人としてもこういう事が大に嫌いであった。彼はすでに二度も投降と言う手段を犯している以

上、最早これ以上礼にそぐわない事をするのは堪えられないのである。

 それにまだ双を見限り、賦を見限る事は人も多少は納得してくれるだろうが。しかしこの壬を裏切れば、

最早誰も同してはくれまい。漢嵩はやはり匹夫でしかなかったかと、そう罵倒されるだろう。

 漢嵩はそれだけには堪えられなかった。彼は少し神経質にもなっているのかも知れない。

「漢将軍、凱とも友好を深めるべきです」

「なんと!正気ですか、明節殿」

 しかしそんな漢嵩を前に明節は言う。

「確かに将軍は壬に恩恵があると言えます。しかしそれも小さき事、所詮は壬も自国の為にやっただけの事

であります。そしてこの北守と言う国から見れば、壬に直接の恩すらありません」

 確かに明宗家当主明泰(ミョウタイ)のたっての頼み、と言う事で壬の要請を聞き入れ、壬の傘下に入っ

ただけの事であり。壬に攻め取られた訳でも無ければ、こちらから願った訳でも無く。言ってみれば壬の頼

みを聞いてやった、と言う同等以上の立場であるとも考えられた。

「しかしそのような事は義に反する事ではないか」

 だがそんな理屈だけでは人は納得などしない、そうも漢嵩は思う。

「将軍、貴方は貴方の立場、力量と言うものを解っておられない。確かに今はまだこの国は他国と渡り合う

事など出来様もありません。しかし、この先はどうでありましょうか。将軍、貴方はこの国の王なのです。

この国の民、そして将軍に忠誠を誓う者達の事をまずお考え下さい。それこそが真に仁義にかなう事なので

は無いでしょうか」

「ううむ・・・」

 そう言って深々と礼の姿勢をとる明節に、納得出来ないまでも、漢嵩も流石にそれ以上は何もいう事が出

来なかった。



「明節殿も何を考えておられるのか・・・・」

 明節が政務へと戻った後、一通り雑務を片付け、漢嵩は溜息を吐いた。

 確かに明節の言う事も解らないでは無い、今では漢嵩もこの北守の王である。彼個人の思想だけでこの国

の方針を決めようなどとは思わない。

 しかしそうと言っても、昔から仁義を省みない国は滅びているでは無いか。所詮国は人の集合体であり、

王が国民の信頼を得て、初めてその頭上に冠を掲げる事が出来るのだ。

 それを時によって羽虫のように易々と宿木を変えよう等とは、果たしてそれが本当に信頼を得、ひいては

民の為になるのだろうか。漢嵩はそれが疑問でならない。

「将軍、しかし明節殿の仰る事も一利がございます」

「なんと、お前までそのような事を言うか、央斉」

 央斉(オウサイ)とは漢嵩が双に居た頃からの腹心の部下であり、今は北守の参謀長を務めている。政治

の実務はこの央斉と明節が取り仕切っていると言える。二人の仲も悪くは無く、そういう意味では健やかに

国が運営されていた。

 まあ彼は漢嵩の謀臣と言われているだけに、その心底は計り知れないのではあったが。

「はい、明節殿も何も今直ぐに凱に付け、とこう申している訳ではありませぬ。ただこの先何が起こるのか

誰も占う事が出来ず、現在この壬が賦の第一の標的とされている以上は他の国とも友好を深めておく方がこ

の北守の為になります」

「それは解っている。しかし壬に断りも無く、勝手に他国と外交を睦するなどとは仁義に反するであろう。

お主も壬の諜報能力の高さは常々誉めていたではないか、あの国を出し抜く事などは出来ぬぞ」

 漢嵩も名将と呼ばれる程の男である。その辺はきちんと計算し、その上で不機嫌になっているのだ。まあ

理由の半分以上は個人的美意識からであるのは間違い無いだろうが。しかしもう二度も投降と言う行為を行

っている彼としては、これ以上何かを欺くような事はしたくは無かった。そんな事をすれば彼の名声も儚く

失墜してしまうだろう。

「そこでございます。主国に黙っているから仁義に劣るのであれば、包み隠さず報告すれば良いのです。何

も凱がこちらに付けと、そう申してきた訳でもなく。ただ友好の証を送ってきたに過ぎませぬ。それに仰せ

られる通り、直に壬もこの外交使の事を知るでしょう。その前に率直に報告し、その上で凱からの貢物を壬

へと献上するのです。そこまですれば将軍を称えこそすれ、誹る者などおらぬでありましょう」

「なるほど・・」

 漢嵩は少し考え、首を傾げながら再び口を開いた。

「しかしそれでは凱に非礼ではないか」

 折角の貢物を他国へとそのまま渡すとは、確かに元々献上した側としては気持の良いはずも無い。

「凱には確かに申し訳が無いでしょうな。しかし元はと言えば、属国である我が国に壬の断りも無く外交使

を差し向けたあちら側こそが非礼なのです。そう思えば、こちら側がそれほど凱に気を使う必要もあります

まい。古来より、礼に失する者に礼を返す理無し、と言う言葉もございます。それに凱の友好など見せ掛け

だけのもの、重く考える事も無いでしょう」

「あい解った。それではその旨、明節殿にお伝えする事にしよう」

「そうなされるがよろしいかと」

 丁重な礼をとった央斉の前で、初めて漢嵩は晴れやかな顔を見せた。




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