5-8.淫は陰、策は錯


 明節(ミョウセツ)が案内された宿と言うのは、一介の旅芸人が泊まるにしては豪華過ぎる宿であった。

本来想定された客筋は貴人やそれに順ずる者達なのであろう。内装も凝ったものであり、城内の応接の間、

とまではいかないまでも、貴人相手としても充分礼に適った質の良い物が使われていた。

「・・・・・・」

 その不信そうな顔に気付いたのだろう、副座長の男が近寄り。

「実はこの宿の主人が我々を馴染みにして下さいまして。特別に無料で泊めさせていただいておるのです。

流石にそうでなければ、私などがこのような所には入れませんがね」

 そう言って薄ら笑いにも似たものを浮かべた。どうもこの男は座長に会いに行ってから、明節に接する動

作にきな臭いものが感じられる。敵愾心、そう言っても良いだろうか。

 明節は宿以上にこの男の態度の変化が気になったが、しかし余計な物言いは災いを招くと思い。静かにそ

の言葉に頷くに止めておいた。

 相手は自分の身分を知っている。そうである以上、明節としては軽々しく動く訳にはいかない。特に口で

自らを滅ぼした者は、史上数多い。その愚をわざわざ自分が繰り返す必要は無いのだろう。

 それに旅芸人に後援者がつく事も珍しい事では無い。この一座ほどの芸であれば、いくら後援者がついて

もおかしくは無かろう。しかしそうは言っても、やはり不自然さが残るのは免れない。

「それではこちらへ。座長は先に戻りましたので、すでに準備は整っておるはずです」

 副座長は態度だけは慇懃にそう言うと、流石にそれ以上彼に添う事はしなかった。

「・・・・・良く解らないが。気をつけなければ・・」

 明節は護衛無しの状況を幾分悔いたが、しかし今になっては進むしか無く。軽く目の前の戸を叩いた。

「どうぞ」

 中からは軽やかな声が返ってくる。

 そして室内に入ると、えもいわれぬ香りが鼻腔をくすぐった。料理と花の匂いであろうか、そして今更な

がら腹が減っていた事にも気付く。辛うじて腹を鳴らすと言う愚を起こす事は無かったのだが。

「・・・貴方が座長でしたか・・」

 そして明節を出迎えた者こそ、あの歌舞を演じていた女その人であった。歌舞時ほどの衣装では無いが、

それでも充分に女と言うものを惹き立てる衣装を身に纏っている。

「どうかされまして」

「いえ、何でもありません」

 驚きはしたが、明節としてはこれで話は早くなったと言うものだ。

 そして姿勢を正し。

「本日はお招きいただき、真にありがたく存じます」

 そう言いながら、明節は軽度の礼をとった。如何に豪華な宿で持成されたとは言え、彼女の身分は一介の

旅芸人に過ぎない。それを考えれば、これでも充分に果報と言うものだろう。

「いえ、私こそ分に過ぎるお招きをしまして、真に失礼致しました」

 座長の礼も美しく、真に礼儀に適ったものであった。しかし旅芸人の座長ともなれば、これくらいの作法

は心得ていて珍しくは無く。むしろ舞も姿勢や仕草に最も気を使う術である以上、そうあって然るべきと言

えるのかも知れなかった。

 しかし不審な事に、この座長にだけは凱の、いやどこの礼法の薫りもしなかった。座員の事を考えれば、

しないと言うよりはそれがより巧みである、と見るべきかも知れない。

「いえ、痛み入ります」

 座長の妖艶とも言える笑顔に誘われながら、明節は必死とも言える心で全てから情報を丹念に探り始めた

のであった。



 明節の為に用意された料理は真に美味なるものであった。美味と噂の壬国王城の料理にも匹敵するかも知

れない。これからもこの座長の人脈が驚くべき広さである事が解った。

 この一座の芸は素晴らしく、その分金銭も潤っている事は確かであろうが、それでも旅費などを考えれば

一旅芸人が出来る暮らしでは無かった。と言う事はつまり、後ろ盾となる者達が豊富である、と言う結論も

容易に導き出せるだろう。

 その芸、いやこの座長の美貌にならばどれだけに金銭を援助しても、援助したりない程の価値を誰もが感

じると思え、それには明節も異論は無い。

 古来より旅芸人と言う者には、娼館と言った意味合も少なからず含まれている。つまり色んな意味で身を

売る職業であり、そうまでしなければ生きられない程、彼ら無国籍の者達の暮らしは過酷であると言う意味

でもあった。

 その意味合は現在でも割と濃く残っており、舞い手などを一夜の共に求める事も少なくは無い。ただ、勿

論それは双方合意の上での事であり、例え権力者からの求めでも、当たり前のように断る事は出来た。

 権力を笠にしたなどと民に知られれば、その権力者の名声は一度に地に落ち、即刻解任されるだろうから

である。古来より名声と言うものは何よりも強く、そして何よりも尊ばれるものの一つなのだ。北守が割と

簡単に独立出来たのも、そう言った背景が強く影響している。

 故にその娼館的な意味合もそれほど暗いものでは無くなっており。例えば気の利いた宿などでは若い娘が

身体を洗ってくれたり等、湯船まで世話をしてくれるのだが。これに比較的近いような気持で民衆の中に受

け入れられている。

 そう言う事が縁で婚姻を遂げたりなども少なからずあり、言ってみれば自由恋愛の形の一つとでも認識し

ていただければ良いかも知れない。

「しかしこの座長は一筋縄では行くまい・・・」

 ただ明節が思ったのは、この座長が行っているであろう後援者との関係はそのような明るいものでは無い

だろう事であった。どこか薄暗い感じがする。つまりは利用、そう言った晴々とした感情とはかけ離れた、

それ故に胡散臭いものが強く感じ取れるのである。

 この座長であるならば、男を虜にする事などは造作も無く、また彼女自身もその自信に満ち溢れている。

 だが、だからこそ入り込む隙もあると言うものだ。

「本日は真に馳走になりました。よろしければ是非一度、我が家にも御出で下さい」

 明節は丁寧な礼をした。こう言った場合は上下関係を捨て、素直に感謝を示す方が良い。

「それは私だけに、と言う事であられましょうか」

 座長は細く微笑む。

「そうとっていただいても、こちらとしては一向に構いません」

 再び礼の姿勢を取る明節。

「でしたら是非お願い致します」

「はい、ではいずれこちらから使いの者に案内させます故。それでは私は本日はこれにて。まだ職務が残っ

ておりますので、ご無礼ながら失礼させていただきます」

「それは残念ですわ。では、お楽しみはまたいずれにて・・・」

 艶っぽく笑う座長。明節はそれを振り切れなくなる前に、その部屋を素早く辞した。あまり長居する事も

失礼である、と言う理由も幸いな事に存在している。

「とにかくこれで第一歩と言えよう」

 暗くなりつつある道を王城へと歩きながら、明節は一つ大きな息を吐いた。

 人を蕩かす事に慣れている人間を利用するには、まずその相手の思惑通りに進ませる必要がある。慣れは

油断となり、隙となるからだ。しかし人の心はままならぬもの、知らぬ内にこちらが先に惹き込まれてしま

う可能性も考えられる。

「一歩では無く、これからが肝心ですか」

 明節は両頬を自らの手で張り、気合を入れ直した。話によれば元々この気合法はかの趙深(チョウシン)

や碧嶺(ヘキレイ)の癖であったと言う。この二人の英雄にあやかりたい、その思いが今彼に意図せずそ

れをやらせたのかも知れない。

 彼の理想は未だ遠く高い。




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