7-8.苦労の人、蒼愁


 壬国参謀、蒼愁(ソウシュウ)は日々地道に仕事をこなしている。

 ただ最近の忙しい政情によって姫君の相手をする時間が減り、その点で姫から大いなる不満を受けてお

り、近々厳罰をこうむるのではとの噂もあるとか無いとか。

 つまりは蒼愁に少しは休めと言う周囲の気遣いからの噂と思われるのだが、しかし彼としても今は全霊

を持って職務にあたらなければならず。不本意ながらも忙しい日々を過ごしていた。

 何しろここ一年ほどの間に状況は目まぐるしく変わり、以前のように賦にだけ注意を払っていれば良い

と言う時代は、すでに過ぎ去った過去となり。ともすれば五国家入り乱れての攻防戦ともなる気配も濃厚

に排出されているように思えた。

 今は賦や凱を相手に考えるだけでなく、どの国家間も少なからず問題を抱えており。どの国が明日には

敵に回らないとも限らないと言う、そんな差し迫った緊迫感も生まれつつあるのだ。

 そして壬国内にも、新領土平定と防衛整備等々の無数の課題を抱えている。

 おそらく府の中でも一二を争うほど忙しい参謀府の人間としては、蒼愁も今は人並みに休んでいる時間

などは無いのだ。特に一番新参者である蒼愁としては、諸先輩方の倍は働かねばならぬと、彼の生真面目

な性格から考えれば、それくらいは思うであろう。

 であるからして、姫君の不満はただ募るばかりであった。

 それは王宮内を預かる近衛達が、最近いつも膨れ面ばかりの姫君のお顔を見て、苦笑を隠せない程である。

 まあ将兵問わず人気のある姫君では、例え膨れ面をしても可愛がられるのが落ちであったが。



 それはさておき、壬も今は安定とは程遠い位置にある事は確かである。

 確かに現在緊迫を極めているのは玄と北守の二国ではあるが。この壬も北守と同盟を組んでおり、更に

は壬国民達の心情としてもこれを放って、あくまで他人事であるとは思ってはいられない。

 それを除いても、単純に現実問題としても放って置けない。

 何しろこの大陸には常に賦の脅威がある。その脅威と何とかわたっていけたのも、賦対四国家と言う半

ば同盟にも似た関係を保っていたからでもあった。しかしその均衡もここ一年の内に何度も変化し、そし

てまだまだ変化する可能性も常に溢れかえっているような状況なのである。

 今は寸時も油断は出来ない。国に仕える者だけでなく、壬に住む全員がそう思っている。

 そしていつもその不安と共にある。

 今何かすれば、少しでも乱れが生じれば、必ずそこに賦が付け入って来るのではないかと。

 それなのに、また玄と北守の間で大規模な戦を起こそうとする向きが現れた。そして実際に反乱と言う

形ですでに動き出してもいたのである。

 壬国首脳もこれに頭を悩ませていたが、かといって他国の事に頼まれもしないのに、ずかずかと口を挟

む非礼を犯す事は出来ない。例え非礼を承知で言ったとしても、大義も名分も希薄ではその言葉に説得力

も拘束力も無いだろう。

 余計な事を勝手な理由で行えば、例えそれが親切心から出ていたとしても、結局は煩わしがられるだけ

に終ると決まっていた。

 頭で考えれば、今は賦以外の四国家間で争っている場合では無い事は、どの国も百も承知なのだ。しか

し人を動かすのは所詮は心である、情である。それを他国が横からしゃしゃり出て、したり顔で理を説い

たとして、誰がそれを聞くだろうか。逆に憤慨させ、更なる混乱を招くのが関の山であるだろう。

 特に玄国は邑平(オウヘイ)を筆頭として死傷者も夥しい数に上る。しかも未だに反乱は鎮圧しきれて

いないのである。流安(リュウアン)陥落によって勢いは衰えたものの、流石に再三の玄の申し出を蹴っ

て来ただけあって、反乱兵達は最早執念と言えるまでの気概を見せていた。

 自分達の言い分が聞かれるか、もしくは根絶やしにされるまで彼らの反乱は続くだろう。半ば意地にな

り、引き返せなくなっているのもあるかも知れない。更には反乱軍側も死傷者が一万を越えていると言う

のであれば、その怒りを抑える方が無理と言うものだ。

 しかし運命の流れとは不思議なもので。こうして為すすべなく見守っているしかなかった壬へ、何と他

ならぬ玄から調停役を頼むとの使者がやって来たのである。

 壬王、壬劉(ジンリュウ)は快くこれを受ける事にし。即座に外交団の設立を命じた。

 現在漢嵩(カンスウ)は玄との国境付近まで自ら出陣していると言う。そこまでの移動時間などを考え

れば、早急に出立させる必要があった。人の生は常に時間との戦いである。



 今回の外交団には外交長季笥(キシ)を筆頭とし、何と上将軍である司譜(シフ)とそして蒼愁(ソウ

シュウ)の三名が選ばれた。この三名が主に北守との交渉に当たる事になる訳だが、何故外交府とは関係

ない後者二人が選ばれたかと言えば。以前この二名が漢嵩(カンスウ)に降伏勧告をし、それが受け入れ

られたと言う一件があったからである。

 この二名の他にも大隊長の司穂(シスイ)も降伏の使者として漢嵩の陣へと赴いたのだが、流石に上将

軍と大隊長まで派遣すると軍部が混乱するであろうから、彼女は新領土平定の為に北西部へ残してある。

 司穂も声望厚く、諸事心得ている為に、彼女であれば司譜の留守を預けても問題は無いだろう。そもそ

もそのくらいの器量が無ければ、黒竜の大隊長など務まらない。

 しかしそうとは言っても、上将軍を自ら使者に立たせるとは、壬も思い切った事をするものである。

 外交府にも人材は居るのだが、それでも敢えてこの二名を加えた事が、壬王の意志をより明確に現して

いると言って良い。漢嵩も一度この司譜に降った事で、この将軍には一目置いており、壬国の客将となっ

ていた頃から誰よりも鄭重に扱っていた。そしてそれは彼が北守の王となってからも変わる事は無い。

 漢嵩とはそう言う男である。

 北守自体も元々は壬の属国であり、それ以前は単に大陸北東部にある北昇(ホクショウ)一帯が自治を

認められた小国に過ぎず。現在俄かに大国となってしまったが、その事があるからして壬に対しては敬意

を払う必要があった。

 例え北守の宰相である明節(ミョウセツ)が腹の内で何を考え、そして北守の重臣達が何を考えていよ

うと。他国と北守の民の手前、大恩ある国を無下に扱う訳にはいかないのである。

 何しろこの大陸では仁と義を重んじ、名の誉れも重んじる。もし大恩を仇で返すような事をすれば、一

国の宰相、いや一国の王ですらその国の民に追われる事となるであろう。

 国民の信を得られなければ、一国の王としては認められないのだ。

 個人主義、実力主義の社会とは本来そう言うものであり。この大陸に住む人は、碧嶺(ヘキレイ)以来

のその慣習を頑ななまでに守っていた。大聖真君となった碧嶺への憧敬と畏怖と共に。

 だが政治と言うものもそのように簡単なものでは無い。どんな状況の中であろうと、いくらでも政略も

謀略も考え得る事が可能なのである。人の策謀ほど怖ろしいものは無いとすれば、希望的観測のみに縋っ

て油断している訳にはいかない。

 確かに北守は外交団を鄭重に扱うだろうが、果たして壬の言うがままに従うだろうか。現状況を考えれ

ば、北守は壬と領土の規模では対等であるが。しかしその中にはこの大陸の大穀倉地帯の一つである大河、

悠江(ユウコウ)の恵みを受ける大平野も含まれている。

 それを考えれば北守は国力の点でも最大兵力の点でも壬とは比較にならない程充実しつつあり、近い将

来には或いは賦に次ぐ大国家に変貌する可能性すらあった。

 更にはそれを冠するのは大陸一等の英雄、漢嵩である。

 国の立場とすれば、圧倒的に北守が有利であろうし、どの国家もそう考えるであろう。

 漢嵩は間違い無く壬に好意的だとしても、果たしてこの政情を考えればどれほどこちらに譲渡してくれ

るのか。彼も王の立場があり、そして玄の反乱軍の手前、納得出来る材料を与えねば軽々とは承服出来まい。

 その事で今季笥と司譜は多いに悩んでいる。

「季司殿、如何にわしの言葉でも、いい加減なものでは漢将軍も納得出来まい。軍を収めてもらうには、

それ相応の条件を出す必要があるのだが」

「そうですな、司上将。ただ玄もよほど窮地にあると見え、わが国に外交一切を任せるとの事でありまし

た。まずまず、それだけでもありがたい」

「しかしそうとは言っても領土全てを北守にくれてしまえば、流石に玄も承知すまいよ。さてさてどの辺

で妥協してもらうか、それが問題であるが・・・」

 この件に関して玄国は一切を壬に任せると言ってきた。それは全てを壬だけで決められるから、外交が

やりやすいのには違いなかったが。裏を返せば、その責任の一切も壬が請け負うと言う事でもあった。

 これはよほど両軍にとって満足は出来ないまでも、納得させる条件でなければ、その後の国家間に罅が

入る事になる。下手すれば壬だけが全ての恨みを背負ってしまう事態すら想定された。

 一言に調停役と言っても、なかなか大変な事なのである。

 壬がもし両国を遥かに凌駕する程の大国であれば事は簡単で、ただ一睨みしてやればそれで済むのかも

知れなかったが。しかし三国家共に現段階ではさほどの差は無い。差が無いと言うのもこういう場合には

障害になる。

 まだ漢嵩の陣へ到着するまでは時間があったが、そう言う訳でなかなか思案もまとまらず、珍しく季笥

と司譜は悩んでいたのである。

 この間蒼愁は何をしていたかと言えば、間諜などからの報告をまとめていたりと、彼は彼で雑務に追わ

れていた。そしてその情報を知る事で、彼には朧げながらも一つの道が浮かんでもいたのである。

 ただ、上官二人に対して横からしゃしゃり出るなどは礼を失する事であるし、未だそれが確実な手であ

るとも解らない。しかも下手をすれば季笥と司譜の名声に大きく傷を付けてしまうだけとなる。

 それを考えれば、流石の彼も今は慎重に情報を集めているしか出来なかった。

 一つだけ救いがあるとすれば、先発し急がせた使者によってすでに漢嵩との面会を許可してもらえた事

だろう。それがある限り、少なくとも漢嵩から玄へ攻め入る事は面会が終るまでは無い。最も、それもた

だそれだけの事であったのだが。




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