8-4.玄を滅せよ


 賦軍の動きは速い。大将軍が復帰した事もあり、信じられない事だがその速度は更に倍近くまでも高め

られていた。

 それだけ紫雲緋と言う存在の大きさは途方も無く、大げさに言えば女神に近い。勿論軍神であるだろう。

こういう気高さにおいては、やはり人間においては女性の方が一日の長があるように思える。総合的な美

においてはやはり男は女に劣ると言わざるをえない。それは女性の持つ生命を生み出すと言う偉大なる力

に対しての、生命体として抱く例え用も無い尊敬の念が根底にあるのかも知れない。

 ようするに生命を産むと言う、人の持つ唯一の神の力を女性だけが持つ。そう言う意味で女性は女神と

なる素質があるとも言えないでもないのだ。その辺は理屈では計り知れないが。

 彼女の父である紫雲海と言う無二の英傑ですら娘に大将軍位を譲ったのには(当時他ならぬ彼にならば、

慣例を無視して大将軍に就くに相応しいと言う世論も濃厚にあった。この大陸では何よりも名声と実力が

上回るのである)、娘が可愛い、賦の太宗と呼べる紫雲竜(シウンリュウ)が碧嶺の上将軍であり、それ

を思えば上将軍である事こそが本懐である。と言った、そのような理由もあったにせよ。一番の理由は女

性特有の他者に与える鮮烈な陶酔感にあったと言えるだろう。

 賦国が代々女性を、しかも若く品の良い美貌に長けた女性を大将軍としてきたのにも、やはり訳がある

のである。この大陸でも特に賦族は決して無意味な事はしていない。

 元々数々の伝承、伝統も全て訳があって始めたものである(最も現在もそれをする必要があるかどうか

は疑問であるモノも多いが)。いつの間にかその理由を忘れ、行為だけが残る事も多いが、全ての事には

本来訳がある。

 そして紫雲緋はそう言う掲げる者として、最も必要なモノを全て生まれ持っていた。紫雲海が敢えてそ

う言う風に彼女を育ててきていた結果である。

 生来の気品に、育ちにおいて身に付けた気品、この二つがあってこそ初めて女神の如き魅力を発する事

が出来るのである。であるから、賦族の女に対する躾は特に厳しいのが伝統でもあった。

 そして娘も物心付いた頃から、自分から望んでそうなる事を自然に自らに課す。

 賦族はこれをこの800年近くも自発的に行ってきたのだが、最早それは伝統を超えて義務に等しかっ

たと言える。

 言って見れば大将軍が率いる事で賦軍の勢いが驚異的に増すのも、こう言う理由もあって当然の結果と

言えるのであった。

 だが800年の歴史の中でも群を抜いて優秀な紫雲緋も、すでにその年齢は三十五になる。その美貌は

衰える事を知らなかったが、それでもそろそろ引き潮であると言えるだろう。

 大抵の大将軍は二十後半でその位を辞してきた事を考えれば、彼女の実力と魅力は驚嘆に値し。更には

その年齢で未だ続けていても、皆それを当然の如く思う所を考えれば、賦族から受けている信頼の大きさ

も解ると思う。

 だが他ならぬ彼女自身が、皮肉にもその自分自身の能力の高さから、自分の老いを悟らざるを得なかっ

た。そして思う、最早自分は引くべきであると。

 突然の病でそれも伸ばすしか無かったのだが、彼女は一人、この戦を最後として身を引こうと考えてい

た。もう結婚も考えていないから、後輩の指導などにでも余生を全て捧げようとも考えている。

 幸い後継と考えている者も彼女に劣らず優秀である。もしこの世代に紫雲緋がいなければ、もし彼女が

他の時代に生まれていれば、すでに大将軍になっていたであろう器であった。

 自分の後継を育てる事も大将軍にとっては一大重要事であり、紫雲緋はそれを見ても類の無い程優秀な

存在であった。

 後顧に憂いは無い。後は如何に華々しく去るか、であろう。大将軍に恥じぬ姿を残して去らなければな

らない。

 そう言う理由もあり、紫雲緋は今回の玄への進軍を不退転の覚悟、決死の気概で望もうとし。そしてそ

の心は将兵達にもひしひしと伝わっている。

 大隊長に預けていた兵力を全て戻し、一から訓練し直し。更には紅瀬蔚(コウライウツ)から虎の子の

強弩隊をも借り受けた(最も大将軍の権限を使えば強制的に命じる事も出来たのだが。それをしないのは

彼女の性格からであり、であるからこそ皆に好かれたと言える)。

 そして彼女率いる女兵軍こそが正しく天下で最強の部隊である事も間違いは無い。

 他国から見れば死神以上の存在であるこの紫雲緋が、現在復帰し出陣しようなどとは未だどの国家も知

らない。おそらく動き出せばじきに知れるだろうが、その時はおそらく玄が滅びた後であろう。

 金色の鎧に身を包み、賦の黄竜。その中でも最精鋭の軍団が、今死神に率いられ、出陣する。



 突如として現れた。

 そうとしか玄は思えなかっただろう。

 賦の軍勢はそれほどに速く、しかも知られる事無く動き、あっという間に玄との国境まで進軍してしま

った。これほど見事な進軍は古来類が無いであろう。その疾風の如き速度は、或いはあの碧嶺にすら匹敵

したかも知れない。

 現在最も迅速だと言われる壬の黒竜ですら、それは凌駕していた。

 紫雲緋の指揮と統率力、そして諜報対策等はそれほどに凄まじいものであったのだ。

 それは彼女の父紫雲海、更に遡って紫雲竜が最も得意としたモノであった事を思えば、これは血統の不

思議さと言うしか無い。

 元々は碧嶺が考案し、それに趙深(チョウシン)が手を加え万人に利用できるように体系化した、言わ

ば戦争術であるが。それを最も理解し、そして最も効果的に使えたのは上の両人の他には、この大陸広し

と雖も賦族以外にはいない。

 その能力を紫雲緋は最も濃く引き継いでおり。そう言う意味でも軍事において賦が碧嶺の直系の孫だと

言えるだろう。

 現在この軍勢は玄の最東の防衛拠点である晴安(セイアン)に猛撃し、守備兵が善戦してはいるが最早

風前の灯であるらしい。

 その数、およそ四万。いやもしかすれば五万を越えるかも知れぬ大軍である。これほどの兵力を一国へ

向けて進軍させた事は賦の歴史の中にもあらず、それを思えば今回の賦の意図は明白であった。

 即ち、玄を滅ぼす、と。

 それに対する玄はと言えば、先からの内戦の傷もこの短期間で癒えるはずもなく、全戦力を計算してみ

ても三万が良い所で、どれほど無理をしても四万はいかない。

 食料や武具なども作物の収穫期を過ぎてようやく形だけは揃った程度であり、とてもの事勝てる見込み

は無かった。

 その上賦は一拠点を落とすに止まらず、尚も侵攻を続け、この機会に一気に玄の喉まで貫き通そうと言

う意気込みである。現実的にも玄の滅亡は必至と言えた。

 だが無論、玄としてもむざむざと滅ぼされる訳にはいかない。

「すぐさま全兵力をもって、賦軍を砕く!」

 玄も大将軍、玄宗(ゲンソウ)自ら二万の軍を率い、即座に援軍として向った。老齢には堪える強行軍

となるだろうが、寸刻も惜しんではいられない。何しろ反乱の後難を恐れ、ただでさえ消耗した兵力を

全国土に分散させているままなのである。

 晴安一帯にも一万の軍勢はいるものの、晴安だけを見れば五千程でしか無いだろう。賦軍の強大さを考

えれば、千や二千の援軍などは逆に餌食にされるだけでもあり、玄宗率いる本隊が到着するまでは迂闊に

派軍も出来ない。

 だが五千程度の兵力では賦の大兵力の前に一週も持つはずも無かった。何しろ昨今の賦の攻城兵器の進

歩は目まぐるしい。それによって一時は五国家で最も堅固と言われるあの壬国ですら、砦を落とされそう

になったと言うでは無いか。

 強力な弩の存在も壬国から流れる噂でしばしば耳にしている。

「賦め、まさかこのような時にやって来ようとは・・・」

 しかも今回の賦の侵攻は誰の予想も越えていた。いや、まったくの予想外であったと言った方が良いの

かも知れない。

 この年が終ろうとしているこの時期に、しかも混乱がようやく落ち着きの兆しを見始めたと言うこの時

に、まさかこのような大軍で攻め寄せるなどと誰が予想出来るであろうか。

 特に年も暮れようとするこの時期は総じて皆余裕が無く忙しく、余裕が無いと言う事は周りを見れない

と言う事でもある。

 だからこそ効果的な戦略でもあり、であるからこそ余計に憎らしい。皆一様に忙しい時には余計な戦乱

は起こさないと、そのような不文律があったではないかと。そんな風に訳の解らない、そして無意味な愚

痴を言いたくもなってくる。

 今の玄宗が正にそうで、常ならぬ怒りが心底からこみ上げて来ていた。

 怒りは時に力に変わるのか。玄宗は倒れる事無く、むしろ元気な程に奮っていた。

 それを見る兵の士気も高い。自らの土地を守る生き死にの瀬戸際なのだ。奮わない兵士はいない。

 しかし精神論で片付けるのにも限度があるだろう。今回の賦軍は強大過ぎた。玄兵の奮いもいつ恐怖に

転化するか解らない。




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