1-10.不断の谷間


 賦、漢、壬の軍勢が複雑に絡み合い、さながら乱戦の態を示しているようにも見える。

 漢と壬で賦を前後から挟むような格好になっているが、真ん中には漢軍が居る。それを考えれば、単純

に連合側が優勢とは言い難い。とは言え、真ん中の漢兵は漢左翼右翼が集まった三万近い大軍であり、五

つに分けられた個々の軍勢の中では最大の兵数を誇っている。

 つまりは漢嵩の居る漢本陣から見て、漢(漢嵩)、賦(紫雲緋・紅瀬蔚)、漢、賦(白晴厳)、壬、と

言う構成であった。こんな形は古今類が無い。

 前面と背後から挟撃をしようとした所へ、その背面から敵援軍、更にその背面から味方援軍。こんな形

は滅多に見る事が出来まい。

「紫雲緋率いる敵主力を狙え!!」

 漢嵩は迷った末、そう下命した。

 ここで真ん中の漢軍を二つに分け一方を反転し、敵主力と援軍を同時に挟撃すると言う手もある。どち

らへの兵数も半減するので危険も大きいが、漢軍の兵数を考えれば出来ない事では無かった。

 しかし戦は人は数が全てでは無い。兵力に換算してみれば、おそらく漢兵三万近いと言う軍勢で、よう

やく紫雲緋主力軍と同等にいけるかどうか。白晴厳率いる援軍に対しても、僅かに有利か否かと言った程

度であろう。

 それに紫雲緋軍は背後に構わず猛進し、漢嵩へと確実に迫っている。これをどうにかしなければ、近い

内に漢嵩本軍自体が瓦解してしまいかねない。

 そして最悪漢嵩が戦死でもすれば、おそらくは漢の国政も強大さも一挙に崩れてしまうだろう。

 良くも悪くも漢一国は漢嵩の力で成り立っている。少なくとも今はまだ漢嵩の力が必要であった。その

漢嵩がこの決戦で敗れてしまえば、国の勢いは一挙に衰えよう。つまりはこの一戦は漢にとっても国を賭

けた一戦なのである。

 逆に言えば、賦国を滅ぼすにはそれだけの覚悟をし、これだけ大規模な戦を行う必要があると言う事だ。

 賦は最盛期の数分の一と言う国力にまで衰えたが、それでもこの国を滅ぼす為には膨大な力が必要にな

る。死力を尽す集団の人間と言うのは、それ程に怖ろしいモノなのだ。それが賦族ならば、尚更の事であ

ろう。

「奮え、奮え!! 背後には壬の黒竜が、楓仁竜将が居られる。あの黒き修羅が居るのだ! それに引換

え、見よ、敵兵達を。槍は朽ち、鎧は剥がれ、顔は死相に満ちている。最早賦に光無し! 全軍敵主力に

のみ集中せよ!! 今こそ彼の国を滅ぼすのだ!!」

 漢嵩は声を張り上げ、太鼓を大きく鳴らさせた。

 戦場に風と共に太鼓の音が響き渡り、旗が翻り、漢嵩は進む。

 漢兵もここが正念場だと理解しているのだろう。味方の屍を盾にし、自らも死して味方の盾になる覚悟

で、後先考えずただ只管に突き進んだ。質の良い漢兵用の武具と防具が彼らを大いに助けたに違いない。

 こうして漢軍もいつぞやの玄兵と同じく、死兵と化した。それが賦兵に恐怖を呼び起す。

 同じ死兵となれば、漢も賦も無い。自分と言うモノをまったく考えず、まるで前に進むだけの生き物で

あるかのように、槍を構えて突進する。

「ここで行かねば誰が軍人か! 我らも進め。見よ、敵はすぐそこぞ!!」

 漢嵩率いる軍勢の想いは伝染する。中央に挟まれている漢兵も奮い立ち、彼らの背後を狙う白晴厳の軍

勢を瞬時に忘れさせた。我らの敵は、ただ正面の紫雲緋軍のみ。

「今こそ漢王に恩返しする時だ!!」

「そうだ、我ら漢兵、今こそ生き様を見せん!」

「紫雲緋を討ち取るのは我ぞ!!」

「いや、敵将を討ち取るのは、我だ! 我だ!」

 等と勇み。口々に叫びながら紫雲緋の軍勢へと殺到した。すでに紫雲緋軍の足も止まっているようなも

ので、がっぷりと漢嵩軍と組み合っている。そこへ勢いの増した漢兵が、背後から襲いかかったのだから

堪らない。  

 背後の漢兵に引き摺られるように足は完全に止まり。仕方なく一部の兵が背後を守るべく反転した為、

必然的に漢嵩を狙う兵の勢いが落ちてしまった。

 勢いこそ力である。そして一方の勢いが落ちれば、もう一方の勢いが増して行くのは自然の道理であろ

う。そこへ黒竜が漢兵の後押しをするように、最後尾から猛撃を繰り返した。黒竜の突貫力も凄まじい。

白晴厳の軍勢も見る間に崩れ、浮き足立った。

「最早、ここまでか・・・」

 白晴厳は死を決した。賦族は先行突破型である。初手の猛撃にこそ最大の力を誇り、逆に言えばそれを

凌がれれば一転して窮地に陥る事が多い。

 すでに流れが賦の敗北へと向っている。こうなれば流石の紫雲緋といえども、壊乱までの時間を長引か

せる程度が精一杯であろう。

 彼女だけが無力と言う訳では無い。こう言う流れには、人間皆無力なのである。

「黒き修羅だ。黒き修羅が来たぞぉ!!」

 先頭を駆ける楓仁竜将の愛馬、黒桜(コクオウ)は稀に見る巨馬である。それにまるで仁王のような表

情をした風仁が乗っているのだから、賦族でも恐怖を覚えて然りと言うもの。以前紅瀬蔚が一騎討ちで敗

れている事も手伝って、賦軍の士気が一時に衰えてしまった。

 彼らは楓仁の鬼気迫る突撃に呑まれ、萎縮(いしゅく)してしまったのだろう。

 そしてそれらに呼応するかのように漢嵩軍も盛り返し、反撃に移った。後はこのまま押して圧して、ひ

た押しに圧して行くだけでいい。

 しかしここで使うべき予備兵が手持ちには無かった。漢嵩は仕方なく凱へと伝令を飛ばす。

 すでに大勢決している。今から出ても、さほどの功はあるまい。それならば、多少の功は取らせてやる

方が良いだろう。まったく功が無いと言うのも、それはそれで対応が難しくなる。

 漢としても疲弊した今、返す刀で凱を討つと言う訳にはいかないのだ。

「これが最後ぞ! 皆死力を奮え!!」

 全ての処置を講じた後、漢嵩も精根果てる程に馬を駆けさせたのだった。


 勝敗は決まった。

 大功こそ立てられなかったものの、凱禅はこの結果に満足している。

 確かにこれで戦後の恩賞は大して期待出来まい。しかし漢の被害は大きく、凱の兵力は丸々残っている。

この差は大きい。

 何しろ凱禅が今最も憂慮しているのが、漢との国力差では無く、その最大兵力差であったからだ。兵力

差が少しでも埋まるのなら、凱禅にとってこれ程嬉しい事は無かった。常の通り、どうあっても凱禅に損

は無いのだ。

 だからこそ凱禅は大きな文句も言わず、素直に漢嵩に従っていたのだ、とも言えよう。

 それに領土を得たとして、賦族が大陸人に従う訳が無い。いずこへとも散るか、或いは(大部分はそう

するだろうが)この地で自殺するかのように討ち死にするだろうし。そう言う意味でも、賦の土地を得る

恩恵は少ない。

 それならば漢をより肥大させ、抱える問題を増やし、漢嵩を疲弊させた方が良い。すでに漢は限界以上

に膨張している。何でも大きければ良いと言うものでは無いのだ。過ぎたるは及ばざるが如し、と言うで

はないか。

 すでに漢の内部は、一個人で捌ける分量を大きく逸脱している。大国も治め難い。

「適当に相手しておけ。それで漢が破れようとも、それはそれで良い。いやむしろ望むところよ」

 だから漢嵩の要請に従い、一万程度の兵を差し向けたものの。その行動は緩慢であり、誰が見ても積極

的とは言えないモノであった。

 漢嵩は怒るだろうが、今更一つ二つ機嫌を損じた所でどうと言う事も無い。初めから漢と凱に信頼関係

など微塵も無いのだから。

「壬も張り切ってくれたようだ。真に喜ばしい」

 壬などは防戦しか出来ないような国力であり、無視しても構わないのだが。それでも大陸人一とも言わ

れる武勇の士達が戦死してくれるなら、それはそれでめでたい事である。

 ようするに、凱禅にとっては皆敵なのだ。本音を言えば、凱以外の三国共倒れが一番望ましい。まあ、

そこまで贅沢は言えないし、凱としてもある程度の戦功を立てておく方が良いだろう。そう考えれば、正

に今の状況は望むべくして来た状況と言えなくも無い。

「フハハ、天は我に平伏すのだ」

 凱禅は愉快で堪らなかった。

 大声で笑い飛ばしたい程上機嫌で、油断すると口元が歪みかねず。それを抑えるので随分苦労した。

 流石に戦場で笑い飛ばすのは得策では無い。気にする程の評判がある訳では無いが、政治的にそれは必

要であった。いくら嬉しくとも、今それを顔に出してはいけない。出して良いのは、戦死者に対する追悼

の念だけであろう。

「む・・・」

 不意に頬を濡らすモノが在った。雨だ。雨が降って来たらしい。

 人は空を見て生きる。と言うような哲学的なモノでは無いが、その時敵味方関係無く、ほぼ全員が空を

見上げた。見る間に勢いが増し、走るような細長い雨に変る。

 珍しい事だ。不思議な事に、大規模な戦場程、雨天が少ない。全て偶然であろうが、不思議と戦が終わ

った後、全てを洗い流すかのように雨が降る。

 絶対的な法則では無いが、それにしても珍しい。日が沈んだと思ったら、何故か引き返して再び上って

来たかのような、そんな不思議な気分が兵に満ちた。

 凱禅は珍しい現象と言うのは好きでは無い。自分の立てた計画が僅かでも狂うのが許せないからだ。雨

となれば、正に水を差されるようで不愉快極まり無かったが。しかしこればかりはどうしようも無い。

「そうか、我に平伏す悔し涙か、天よ」

 今更雨が降った所でどうと言う事は無いだろう。凱禅は身勝手に解釈し、雨を捨て置いて視線を転じ、

敵陣へと進む凱兵達を眺めた。まずまず連携のとれた動きをしている、訓練の効果はあったと言うべきだ

ろう。行動が緩慢なのは凱禅がそう命じたからで、彼らの評価に加味する必要は無かった。

 しかし雨による不安が無い訳では無い。

 最早賦の敗北は決定だが、最後の熾烈な抵抗を覚悟せねばならないだろう。その時、この雨が何某か影

響しなければ良いのだが。

 天候は時に戦況をも変える。

 戦場の雨、何故か解らないが、それは人に不安を起すに充分な現象である。特に戦勝側にとっては。




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