1-11.流れ者


 負けた。紅瀬蔚は悟った。

 それでも善戦したと言っていい。元々賭けにもならない勝率であった事を思えば、一度ならず漢嵩を窮

地に落し入れただけでも賞賛に値する。

 誇っていい。少なくとも、賦族としては面目が保てるであろう。

 勝敗よりもむしろ、その過程に重きを置く種族である。紫雲緋も確実に史上に残る指揮をした。或いは

紫雲竜、紫雲海をも越えたのではないだろうか。彼女以外の誰が、今これ程戦う事が出来たと言うのだろ

う。惜しむらくはこの時代に、敗北の将となる運命を背負った事である。

 見よ、天も泣いている。

 紫雲海、紫雲緋と親子二代に渡って類を見ない戦果を上げ、正に女神と言う功績を残した。それでさえ

滅ぶ結果になったのだ。何が悪いと言えば、運が悪かったとしか言う事は無い。

 何にしても、勝敗は決した。最早策は尽き、出来る事は無い。後は死すのみ。嘆きも無駄であろう。

 賦族は負けたのだ。まだ王城は残り、趙戒も居るが、一体それが何になる。この戦いで敗れれば、賦族

はもう終いなのだ。例え趙戒が煽っても、牙深に居る民は決した以上、見苦しい真似はすまい。敗れれば

死ぬか去るか、どちらにしても蜂起する事は無い。

 感情はさておき、負けは負け。それが賦族である。

 漢嵩もその辺は心得ているだろう。そして凱禅のような狂気を起す事もあるまい。

 だからそう言う意味では紅瀬蔚は不安を感じていない。ただ、一つだけ心残りが在るとすれば、他なら

ぬ紫雲緋の事である。

 確かに賦と言う国家は消えても、今日明日に賦族が消える事は無い。今後どうなるかは解らないが、賦

族にはまだまだ紫雲緋が必要なのだ。それを彼女自身が望む望まないに関わらず、賦族には女神と仰ぐ大

将軍が必要なのだ。

 彼女こそが希望。彼女こそが御旗。彼女こそが賦の最後の灯火。

 紅瀬蔚は勝敗が決してから、後事をのみ考えるようになっている。頬を滴る程に降る雨が、戦場の熱気

を冷ましたからかも知れない。

 それに何をやるにせよ、後に何かをもたらせなければやる意味は無い。一時で滅びるような栄光など、

決して子らに良いモノをもたらす事は無い。ならば賦族の未来を少しでも護る為に、彼が今やらなければ

ならない事は何か。

 それが成る成らないは別である。彼はやらなければならない。やらなければ、何も生まれないのだから。

「もしかすれば、大将から一生許してもらえないかも知れぬが」

 それでも良いと彼は思う。

「それに末代まで汚名が残るかも知れん」

 それでも構うまい。少なくとも同時代に生きた賦族ならば、彼の心を解ってくれるだろう。そして同時

代の賦族ならば、必ずそれを皆望むだろう。

 ならば少しでも早くそれをやるしかない。凱の軍勢と共に漢嵩が本格的な殲滅戦に回る前に、最低でも

それ以前に事を済まさなければ。幸い雨である。単騎駆けならば、或いは叶う。白晴厳が隣に居れば、ま

だ良い事を考え付いたかも知れないが、彼しかいない以上、これに賭けるしかない。

 紅瀬蔚はある考えを秘め、紫雲緋を探した。

 彼が前線隊長として指揮していた為、紫雲緋は今少し後方に位置している。矢を落とし、進入して来る

敵兵を蹴散らしながら、懸命に指揮を続けていた。怪我が多いのか、それとも返り血か、黄金に輝く鎧が

赤く染まっている。

 雨でも拭えない血の朱である。

 激戦区であり、難しいかも知れない。だがまだ賦軍は崩れきっていない。例え絶望的でも、彼女が居る

限り、彼女の為ならば、皆死に物狂いで何とかしてくれるだろう。

「皆、良く聞け! この戦は負けだ。しかし紫雲大将だけは死なせてはならぬ! 我が時間を稼ぐ故、皆

で大将を落ち延びさせよ!」

 紅瀬蔚は高らかに叫んだ。

 敵兵にも聴こえるだろうが、構いはしない。

「後は好きにせい! 生きるも死ぬも各々の裁量で決せ!!」

 賦兵は皆頷いた。いや頷いたように思えた。どの兵もわざわざこちらに頷く程の余裕は無い。

 しかし彼が見たように、賦兵達は皆その言葉を理解したのである。そして言葉は伝達され、紫雲緋の意

を無視し、彼女を牙深まで退かせる為に、賦兵全員がただそれだけの為に行動し始めた。

 目の色は変り、暗い羨望から決意の光へと、その表情すら明るく真っさらに変化させる。

「何をしている! 我が命が聴こえぬか!!」

 当然紫雲緋が叱り飛ばすが、一人たりとも従う者は無かった。紫雲緋は狼狽するが、皆心で詫びるだけ

で彼女に従おうとはしない。

 共に死すのは光栄の極み。だが、生かせる事が出来るなら、それは名利を超えた歓喜であった。紅瀬蔚

が言うのであれば、何か考えがあるに違いない。間違いは無い。それならば敵兵などに構っている暇は無

い。紫雲緋を生かすのだ。生かすのだ。

「紫雲大将をお送りするのだ!!」

「おお、我らの手で!」

「オウ、我らの命に賭けて!」

 負けと感じ、士気も衰えていた賦軍であるが。新しい、そして(彼らにとって)素晴らしい目的を与え

られた事で、俄然やる気を取り戻したようだ。

「殺すならば、殺されてやれ! 大将の為よ、命などはくれてしまえい!!」

 紅瀬蔚は駆ける。指揮を手放し単騎自在に動けるのならば、どれ程厚い陣形だろうと突き抜けられない

事は無い。死ねばそれまで、そう思えば躊躇(ためら)いも失せ、自然速度も増す。

 突然の賦兵の変化に、連合兵も面食らっている。今まで烈火の如く突進して来たのが、不意に気を抜か

れてしまった。漢兵側が押していただけに、気合を削がれてしまう感もある。

 今更どういう事だと、勝敗は決まっていたではないかと、連合兵の心を騙されたような、理不尽でそれ

でいてどうしようもない思いが走り抜ける。

 漢嵩でさえ、呆けたように対応が遅れた。

 紅瀬蔚はその中を無人の野を行くが如く、一直線に漢嵩の下へと向って行った。


 賦軍に動きが見える。

 崩れているのか、いやそれにしては乱れが無い。ならば全てを放棄したのだろうか、戦を捨て、名誉の

死を捨て、誇りをかけて最後の一兵まで闘うことを捨て、言わば賦族が賦族足る心を捨ててまで、一体何

を得ようと言うのだろう。

 彼らが臆する訳が無い。崩れれば混乱はするが、それでも味方や戦を捨ててまで逃げる者等はいない。

 だからこそ解らない。一体何があったのか。

「竜将、前面の賦兵にも動きが見られます」

 副官の大隊長、緑犀が告げる。

「うむ、どうやら彼らは決戦を避けるようだ。しかし一体何があったと言うのか」

 楓仁は雨中、憑き物が落ちたように変る戦場の兵士達に、驚くでも無く、不思議がるでも無く。真っさ

らな心で戦況を眺めてみた。顔中を濡らす水のように澄んだ気持で、そこに在るありのままの姿を見る。

 壬軍と直に矛を合わせあっている白晴厳率いる援軍、二軍からどうやら殺意が消えたようだ。

 それまでの決戦策を捨て、何やら本軍と連携を取ろうとしているように思える。敵を倒す事よりも道を

開く事を、道を開く為の援護を考えているのだろうか。

 刃を振わず、身体を叩き付けるようにして連合兵を弾き飛ばす。連合軍も突然の変化に気を抜かれてし

まい、不思議と容易く跳ね飛ばされているようだ。元々の体格差もあって、巨人のような賦族に本気でぶ

つかって来られては、屈強の兵でも堪るまい。

「まさか、大将を逃がす気か!?」

 楓仁は目の前をめまぐるしく変る光景から、信じられない考えを読み取った。

 今まで一列に噛み合っていた特異な形から、不意に賦の本軍の一部が横に飛び出し、それを二軍が後押

ししているのが見える。離れている為に細部まで解らないが、おそらく紫雲緋だろう。

 それから考えられる事は一つしかない。

 勝敗が決し、後は滅びるのみと解った今。負けは負けとして、敬愛する、そして以後も必要であろう紫

雲緋を生かす事を、兵達か将の誰かが自発的に言い出したに違いない。

 どうしようも無いとは言え、敗戦を繰り返し、自分を責め追い込んでいる紫雲緋自身が、どう考えても

自ら逃げようなどと考えるはずが無いからだ。

 彼女はむしろ死にたいのだと思う。だが賦族への責任感と愛情によって、その暗い望みを必死に押しの

けて来たに違いない。

 ならば、やはり彼女以外の誰かが自発的に考えたとしか考えられない。厳格な軍紀に逆らい、賦族とし

ての名利を捨ててまで。

「竜将、どうしますか? あれではやり難く、戦えるものではないですよ」

 緑犀が珍しく自信無さそうな顔をして、そんな事を言った。

 戦で戦える、殺し合えるのは、その場の雰囲気に酔わされてしまうか。又は殺さなければ殺されると思

うからだろう。

 幸か不幸か壬の黒竜も賦の流れを汲むだけに軍紀が厳格であり、また質的にも他国の兵を大きく凌ぐ。

その為戦時でも冷静な部分が多く残り、こうも敵兵から殺気が消えてしまうと、どうにも仕掛け難い。

 第一、賦族が助けようと思っている紫雲緋に、皆悪感情は持っておらず。むしろ壬や漢の兵は尊敬にも

似た気持を持っているのだ。彼女は公正であり、例え敵者であっても、礼儀を欠く事は無かった。その実

力も第一等であり、紛れも無い英傑である。

 今までの歴史を見ても、賦に虐殺をされたり、捕虜を不等に扱われたと言う記録は無い。どの国も不承

不承ながらも、賦族の潔癖さだけは評価していた。

 そんな賦族の理想とも呼べる麗しき大将軍に、例え賦軍全体に対して敵国として恨みを抱いたとしても、

彼女個人に恨みを抱ける訳が無いではないか。

 それがこの時代の美徳でもある。

「暫く時間を置く。軍を退くぞ、今の彼らに刃は無用である。それにすでに決した戦だ、無用に死者を出

す事もあるまい」

「承知致しました」

 漢や凱が何を考えていようが知った事か。参戦以前から楓仁にはそんな気持がある。

 確かに賦と言う国は大陸人にとって害でしか無かった。身から出た錆とは言え、あれだけ攻め続けられ、

領土を獲られ続ければ憎みもするだろう。

 しかし全滅させる事はあるまい。領土を捨てさせ、武力を捨てさせ、二度と蜂起しないと誓わせれば、

それで充分ではないか。

 彼らは誓いを決して裏切らない。それは趙深の子孫を今でも変わらず面倒見ている事からも解るし、壬

牙から受けた恩を忘れなかった事からも解る。

 何処の世界に大昔に受けた恩に義理を感じ、その子孫と自称しているだけの男に、一軍の将、しかも自

軍の中でも選抜きの将とその一党をくれてやる国家があると言うのか。

 そう言う者達なのだ。

「生かしてやれ!」

 生かしてやれ!、と楓仁は強く叫びたかった。

 或いは自分の中に受け継ぐ賦族の血が滾(たぎ)り、今そう思わせたのかも知れない。だが例え賦族の

血を受けていなくとも、彼は同じように思っただろう。

 どの国も、碧嶺配下の血統と法を受け継ぐ国だと称しているでは無いか。それならば何故碧嶺の望んだ

賦族解放を受け継がないのか。碧嶺とその一党が滅びた今、それを受け継ぐ我らこそが、それを成してや

らなければならないのではないか。

 賦族で何が悪いのだ、あれ程気持の良い者達が他に居るものか。

 楓仁は黙して賦軍を見詰めていたが、本当は何処までも強く、強く、叫びたかった。

 或いは泣きたかったかも知れない。この雨のように。




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