1-12.獅子奮迅


 雨なのか涙なのか、滴る水を拭っても拭っても景色は歪む。

 何か雨防ぎになるような物は作れないかと、場違いにも紅瀬蔚は考えていた。

 雨中の馬上程、視界を晴らすに困難な場所は無いと思える。これを解決出来れば、少しは同胞と大将の

為に役立ったかも知れない。

 今考えても詮無き事ではあるが、小さな悔いとなって残る。強弩にしても、まだまだ改良の余地がある

し。本音を言えば、まだまだ時間が欲しかった。

 やれる事はたくさんあったのだろう。後回しにして来ただけで。

「まあ、悔いの一つも残す方が、生のありがたみもあろうと言うもの」

 後悔は全て詮無き事、今までして来た事だけが全て。一人で笑い飛ばしておいた。

 それに賦族が例えどう言う形であっても、生き残れるとすれば。きっといずれは誰かが発明するだろう。

禁止されようとも、こっそりと開発するに違いない。人間の知的好奇心を止める事等、神でさえも出来は

しないだろうから。

「ひッ!?」

 蹴散らした敵兵が声を立てて尻餅をついたようだ。

 どの顔もどの顔も阿呆な面を貼り付けている。命を賭して駆けている紅瀬蔚でさえ、見ていると笑いが

混み上げない事も無い。まったく虚を抜かれた人間と言うのは、何と言う情けない顔をするものか。

「どけ、どけい! 最早敵対する意志は無し。素直に道を開けよ!!」

 駆けに駆け続けると、思ったよりも短時間で目的の顔が見えて来た。

 遠目にも一目で解る。雄々しい出で立ちに険しい顔、雰囲気からして違う。この男は紛れも無く歴史に

残る名将と言われよう。そう呼ばれるに相応しい。

 何しろ我ら賦族に敗北を認めさせ、国まで滅ぼした男なのだ。残って貰わねばこちらが困る。

 敵の中の敵であるに間違い無いのだが、彼を見、それでも尚清々しい気分さえした。

 まるで邪気が無いのだ。前に投降した際見た時よりも、多少俗気が増えたような気がするが。感嘆する

程の清廉(せいれん)さは抜けていない。

 この男の目に映りながら冥府へ行くと言うのも、一興ではないか。

「単騎駆けとは舐められたもの!」

 目前の雄々しい男、漢嵩が発す。その声で解かれたかのように、付近の兵が進路を阻むように囲み、紅

瀬蔚を睨んだ。

「最後の一花と心得よ。それくらいは許されたい」

 その言葉に、漢嵩は不思議そうに敵将を見やる。

「兵を逃し、単身我が首を獲りに参られたのか?」

「違う。兵も退かせられよ。最早勝敗は決まったのだ」

 紅瀬蔚は手にする槍を投げ捨てた。

 槍はからからと音を発して転がる。まだ地面を濡らしきれぬ程人が居るらしい。これは負けるはずだ。

「それはどう言う事か。・・・・・もしや降伏するとでも?」

 漢嵩が眉根を顰(しか)める。

 冗談にもなるまい。賦の将軍がわざわざ敵将の面前に現れ、殊勝めかしく降伏を申し入れるなどとは。

そんな事は馬鹿馬鹿し過ぎて、芝居にも出来ない。

 観客も怒り出す事だろう。

「不本意ながら、その通りである。我らは負けを認め、牙深も明け渡す」

「馬鹿なッ!! そんな事が信じられ・・・・、いや、そうだった。賦族がそんな冗談など、言うはずが

無い・・。ならば、本当なのか・・。信じられぬが、降伏するとなれば、我らも敢えて矛を向ける訳には

ゆかぬ・・・」

 漢嵩はまだ何処か信じ切れないようであったが。それでも伝令に命じ、戦闘を中止するよう全軍へ指令

を放った。太鼓、指令旗などを使えば、雨中でも全軍に渡るまでにそう時間はかかるまい。

「流石は漢王・・・、処理も迅速なもの。改めて感服致した」

「貴方自身が来られたと言うのならば、しかしこれだけでは無いはず。一体何を望まれるか?」

 降伏するにしても交渉と言うものがある。代価無しで全面降伏してくれる程、賦国は安く無い。それは

漢嵩も重々承知していた。

 例え勝利は間違い無くとも、全滅までの被害は甚大であろう。漢の兵数はその国土に比例して考えれば、

充分とは言えない。いやむしろ足りないと言っても良い。それがこれ以上減るとなると、死活問題になる

可能性もある程だ。

 漢程の国土を持つ国ならば、本来は一国だけで賦を滅ぼせてもおかしくは無く。それが出来ない所に、

漢嵩の苦悩の多くがあった。所詮は偶然が重なって膨張したような国である。時間をかけていない分、無

理も出てきて当然と言うものだろう。

 いくら有能でも、万夫不等の英雄でも、人の領域を超えるような事は不可能である。

 だから賦から降伏してくれるとあれば、それはそれでありがたくもあった。後の処理がより面倒になり

そうだが、利点はそれ以上に大きい。

「我らが望むのはただ一つ。紫雲大将を生かす事、それだけよ」

「な、しかしそれだけは・・・」

 予想はしていたが、それは不味いでは無いか。敵総大将を生かしたままなどは。しかもそれが紫雲緋と

なると、賦国を滅ぼした意味が半減してしまう。

「いや、これは入れていただく。だが王も苦労があろう。代わりにはならぬが、せめて我が首を貰い受け

られたい。では御免」

「ま、待たれよ!」

 漢嵩が止める間もなく。紅瀬蔚は一礼したかと思うと、帯びた長刀を抜き払い。自らの首に当て、その

まま気合を目にだけ残して、一息に薙いだ。

 切れ味鋭い名刀の技は、まるで生前のまま紅瀬蔚をその場に残す。

「どこまでも・・・・・どこまでも賦族と言う者達は・・・・」

 漢嵩は潔さに敬服しつつも、またしても予定をあっさりと覆してくれた賦族に対し、怒りとも絶望とも

言えぬ思いを抱いた。

 すでに首を払った以上、拒否出来ぬではないか。

 馬上にて、胴に乗ったままの紅瀬蔚の首が、いつまでも誇り高く漢を睨んでいるように見えた。


 結果、牙深も素直に明け渡された。

 賦族の間に何があったかは解らない。何かしら議論はあったであろうし、紫雲緋自身も黙っていなかっ

ただろう。

 しかし既に紅瀬蔚が全てを終らせてしまったのである。ならばもうそれに従う他無い。そうしなければ、

賦族を賦族足らしめているモノが、おそらく消え失せてしまう事になるだろう。

 紫雲緋、白晴厳を含めほぼ全ての賦族は武装解除し、漢嵩の前に膝をついて深い礼の姿勢を取った。

 後で聞くと、趙戒と言う青年を含め少数の人間は何処となりと、いつの間にやら消えていたそうだが、

漢嵩は一笑し咎める事もしなかった。彼にとっては、どうでも良い相手なのだろう。

 とにかく紫雲緋である。紫雲緋さえ手の内、或いは何処かへ閉じておければ、それで良い。他に誰が何

をしようと、漢にとって脅威にはならないはずであった。

 そして肝心の賦族の処遇であるが。

 取り合えず労働者として全土で使う事に決めたようだ。戦続きで何処も人の手が不足している為、彼ら

の力を得られるのは、例え不満が大きくても皆内心はありがたいはずである。

 とは言え、少数で放り出せばおそらく問題が多発する。ある程度固めておいた方が便も良く、より働き

も大きくなると思える。蜂起したり、戦に加担する事を生涯禁じてあるから、その辺は心配無い。そう言

う点では大陸人側も安心していた。

 賦族は決して約定を裏切らない、と。

 次に彼らを移住させる場所だが。

 大陸最南西部、つまりは玄の南西部辺りに半数程。賦族帰化の経験もあり、最も信頼出来る国として、

壬にも四半数。残り四半数を漢嵩が直接監督する事となった。

 地位としては一国民としたが。彼らに領土を所有する権利は無く、兵役に出る資格も剥奪された。つま

りは小作人とでも言おうか。そう言う地位を与え、少なくとも賦の脅威の記憶が完全に消えるまでは、そ

のままにされる事となった。

 多少差別感はあるが、敗北した以上は仕方ないだろう。

 むしろ当初は殲滅しようと考えていた事を思えば、寛大過ぎる程の処置と言える。これも紅瀬蔚が自ら

の首を差し出し、約定を押し付けた事が働いているに違いない。

 不本意なれども、漢嵩としては精一杯の便宜を図るより他無かった。総大将であった紫雲緋を助けると

言う事は、当然一般の賦族にはそれ以上の好意を与えなければならないからである。

 紅瀬蔚が果たしてそう言う意味を含めて言ったかは解らないが。少なくともそうせざるを得ず、又漢嵩

がそう受け取ったのである。

 では一番の問題である紫雲緋と白晴厳をどこに置くか。

 この二人は当然一つにしておく訳にはいかないので。白晴厳を最南西の言わば小作頭とし、紫雲緋は漢

へと客将として招く事になった。

 客将と言っても、ようするに軟禁なのだが。命が無かった物と思えば、これも破格の待遇と言えよう。

 最後に領土の分配について。

 これは大功を立てた漢が三分の二、大した功は無いが、賦族の輸送等戦後処理の大半を引き受ける事を

前提とした上で、凱に三分の一が与えられた。

 壬は当初の予定通り、領土は辞し。代わりに黒曜鉄の産地を数箇所譲り受ける事になったようだ。おそ

らく探鉱夫として、早速賦族が使われるだろう。

 漢嵩はその点気前が良く、壬の功もそのくらいの価値は確かにあった。

 こうして一通りの処置を講じ、その旨壬と凱へと伝えられたのだが。ここで一つだけ異議が上がった。

それも凱ではなく、壬からである。

 要約すると。

「紫雲緋殿を我が国へ招きたい。その為ならば、黒曜鉄その他全てを諦めても良い」

 と言う事であり。これは少なからず漢政府に衝撃を与えた。

 壬は紫雲緋を使って何か考えているのでは無いか、或いは漢への当て付けではないだろうか、と。どう

やら漢における反壬感情は未だ解決せず、燻(くすぶ)ったままであるらしい。

 しかし漢嵩はそんな意見には耳を貸さず。壬の言い分は尤(もっと)もであると言い。

「ならば紫雲緋殿は壬へお預けしたい。その方が亡き紅瀬蔚殿もお喜びになるだろう」

 として、黒曜鉄を取り上げる事も無く。漢嵩がこれは壬から受けた大恩の恩返しである事を言った上で、

すんなりと受け入れられたのだった。

 実際この方が賦族は安心し、その牙をより容易に抜く事になろうし。この一挙で壬との借り貸し無しと

すれば、以後の漢にとっては対壬関係が大きく楽になる。漢としても悪くは無く。実は漢嵩、明節、央斉

達の間では半ば予想され、予定された事であった。

 大体が、紫雲緋が約定を破ってまで何をするとは考えられない。そんな事をするくらいなら、黙して死

を選ぶだろう。不安は不安として残らないでは無いが。それでもすでに賦は終わった事であった。

 他には無言で従う凱が多少気味悪くもあったが。とにかくこうして戦後処理も片付き、以後賦と言う国

は未来永劫までその存在を絶たれた。

 予想とは大きく違ったが、連合軍の完勝である事に変りは無い。

 しかし安息はまだ遠い。賦が滅んだ事により、これからが本当の始まりとなるのである。

                               

 

                                     第一章 了




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