1-9.天破光芒



 音と言う音が混ざり合い、大流のように吹き抜けていく。

 こうなればもう誰が何を言ってるのか解ったものでは無い。至近距離で激突する漢軍と賦軍の怒声と剣

戟の音は、最早一つの交じり合った音としか聴こえなかった。聞き取れない以上、声でも言葉でも無く、

ただの音であろう。

 その耳障りな程脳髄を揺るがす音は、賦の後背を狙う壬軍の許(もと)へも、当然届いている。

「いよいよ始まったか・・・」

 楓仁は彼方を睨む。

 すでに賦軍まで数キロと言う地点に居た。土煙が邪魔だが、それでも大雑把には把握出来る距離である。

勿論、詳しい事は偵察兵が戻るまで解らないが。

「今の所は賦が優勢でしょうか」

 隣に並ぶ緑犀が問う。

 確かに賦軍は予想よりも早く、漢軍陣の奥部へと到達しようとしている。それはつまり漢嵩の目前と言

う事であり、賦の目標が漢嵩である以上、彼らが優勢だと言えるだろう。

 漢軍右翼左翼が挟撃しようと左右から向っていたが、それもとうに追い抜かれ。彼らからも賦軍の尻し

か見えない。見事に包囲攻めの弱点、兵力の分散を突かれた。

 まだ漢軍も包囲し背後から強襲出来る構えではあるが、賦軍は速い。そして突貫力は並ぶ者はいない。

彼らの歩みを止めない限り、紫雲緋を止めない限りは、おそらくいずれ漢嵩が討ち取られよう。そして漢

嵩の性格を考えれば、それはより早く、つまりはより前線に置いて起きるはずである。

 おそらくそれらを考慮した上での作戦であるに違いない。それが見事に嵌っている。

「うむ、やはり賦を止めない限り、我らに勝利は無いだろう」

「ならば救援に向うべきでしょうか」

「いや、今から行ってもすでに賦の後ろには漢兵が居る。我らに翼があれば別だが、彼らと縺(もつ)れ

合い、かえって邪魔になるだけだろう。急ぐのは急ぐが、まだ時を待つ。紫雲大将であれば、おそらくま

だ一動きがあるに違いないしな」

「承知しました。それにしても竜将はやはり紫雲大将を買っておられますね」

「フン」

 厳つさが増した楓仁の表情を見、緑犀はにこやかに微笑んだ。

 ようするに竜将は照れているのだ。

 彼が見る所、楓仁は紫雲緋に対して少なからぬ想いがあるのではないだろうか。そして紫雲緋を尊敬す

る心はその現われか、不器用なこの上司の精一杯の表現方法なのではないだろうか。

 まあどちらにしても、この竜将の感は戦場で外れた事が無い。楓仁が言うからには、何か動きがあるの

だろう。

 それは予想でも期待でも無く、信頼を越えた確信である。


 漢嵩は正直に言うと、冷や汗が止まらない思いであった。

 顔にも指示にも迷いや不安は見せないが、彼の恐怖心は依然大きい。賦軍がこうして後先構わず全力で

突撃をしかけてきたとなれば、それは尚更である。

 ただ前だけを見、前進するだけに生くるかの如き兵。この圧倒的な威圧感はどうであろう。ともすれば

足が勝手に後退りを始めそうな程、じりじりと背中を削るモノがある。

 それは天災を前にした時に似ていた。

 台風、雪崩、土石流、大河の氾濫、それらを眼にした時、一体人間に何が出来ると言うのだ。そんなモ

ノが襲い来れば、最早幸運を祈りつつ呑み込まれてしまうしか無いではないか。立ち向かって何になる、

その前途に道などあるはずが無い。

 悲しいかな人間の非力さ、ただ圧し流されるのみである。

「ここが潮ぞ! 皆前進せよ、恐れるな! 臆する者は我を見よ、我に続けい!!」

 漢嵩はしかし、敢えて天の運行に逆らうかの如く、兵に前進を命じた。それどころか、自らも馬の尻を

槍で叩き、前進させる。まるで、

「食い止めるのだ、それが出来なければ賦族には勝てない。賦の心を折る為には、真っ向から叩き破る事

が肝要なのだ」

 と、叫びでもするかのように。

 漢中央と賦はそうして真っ向からぶつかった。しかし賦の勢いは凄まじい。増すばかりで引く事を知ら

ないようである。

 猪がぶつかり、そのまま押し抜かれでもしたかのように、漢軍は弾かれ打ち砕かれた。漢嵩が前進して

いなければ、とうにこの軍勢は瓦解していたかも知れない。

 漢兵の顔が恐怖で歪む。

 賦兵の力は往年には及ばぬまでも、その目は正に大陸人を恐怖に落として来た、あの賦族の目以外の何

者でもなかったのだ。死も生も、勝ちも負けも無い。ただ前だけを貫くようなその視線。心底まで貫かれ

そうだ。

「食い止めよ、粘れ、粘るのだ! 賦の背後には味方が居る。それが来るまでの辛抱ぞ!!」

 漢嵩は自らを叱咤するかのように大声を張り上げた。例えその声が認識出来なくとも、その気迫は漢兵

を奮い立たせる。漢嵩に対する信頼が、漢兵の怖れを弾き、打ち返そうと湧き上がるのだ。

 見えない何かに押されるように、漢兵は必死に賦軍を食い止め続けている。眉間を貫かれ、首を跳ね飛

ばされても、屍を越えて前進を続ける。個々の力量ではとても及ばないが、漢には兵数が在る。

 押して、引いて、また押して。一進一退の攻防を暫く続けた、正にその時であった。ふと賦軍の力が弛

んだ気がし、前方から襲い来る圧力が弱まったように感じたのは。

 そうである。ようやく右翼左翼が賦軍に追い付き、後ろ左右から怒りに任せて強襲したのだ。

 紫雲緋はこれも当然予想し、前のみを見るように予め命じていたのだが。それでも後ろから追って来る

者がいるとなると、人間どうしても気が逸れてしまい、一つ事だけに集中出来なくなるものだ。戦場で神

経が過敏になっている時であれば、それは尚更であろう。  

 しかしその程度の事も、紫雲緋は予想している。

「合図を告げ!」

 その声を聞くや、彼女の近くを護っていた兵の一人が懐から大きく黄色に染められた布を取り出し。そ

れを槍先に結び付けると、戦闘そっちのけで大きく牙深へ向って振り始めた。

 戦場でも目立つ布で、暫く後には格好の弓矢の的となってしまったが。それでも旗持ちの兵は迫り来る

矢などに微塵の注意も払う事は無かった。必死に大きく振り、合図を送っている。

「上がった、行くぞッ!」

 するとどうだろう。牙深から突如一万の軍勢が大声を発しながら、紫雲緋軍の後背を脅かす漢兵に向っ

て、大きく雪崩れ込んだでは無いか。

 率いて居るのは白晴厳(ハクセイゲン)だろう。彼は大将となるには向かないが、こういった副将的な

二次的な役割をさせれば、その能力にいささかの狂いも無い。長年紅瀬蔚の副将を勤めて来ただけに、見

事と言っていい程だ。

 驚いたのは漢兵である。敵の後ろを狙っていたつもりが、いつの間にか後ろから敵兵に追われる立場に

なっている。

 言わば漢嵩から紫雲緋軍によって分断されている状態であるのも手伝って、瞬時に混乱を来たした。彼

らを収めるべく部隊長達は必死に怒鳴りつけるのだが、兵達は右往左往するばかりで、やれ敵は後ろだ、

いや前だ、などと言い合い。とてもの事鎮める事が出来ない。

 何しろ彼らを叱咤しているはずの部隊長達自身が大いに慌てているのだから、そんな指揮官の言葉など

一体誰が聞けると言うのか。

「時は今! 全軍突撃せよ!!」

 そこへ間髪入れず紫雲緋の命が飛ぶ。

 後背への不安を取り除かれた賦軍主力は最早迷う事無く、目標である漢嵩へと只管に突撃を再開した。

 漢兵にしてみれば、ようやく食い止めたかと安心した所にこの攻勢。気の僅かな弛みを突かれ、瞬く間

に劣勢へと追い落とされてしまった。

 元々まともに突撃し合えば負ける事は必定である。このままでは後詰に置き捨てたはずの凱に頼るしか

なくなり、凱に大きな戦功を立てさせてしまう事になるだろう。

 凱だけには大功を立てさせたくは無い。凱に助けられ恩が出来たとなれば、一体後でどれ程高い利子を

付けられるのだろうか。

 やはり漢だけでは勝てないのか。漢嵩は歯噛みする思いで、崩れ行く前線部隊を睨み付けていた。


 楓仁は即座に動いた。

 命じたかと思うや否や、瞬時に単騎駆け出していた。

 命令を認識する前に、全兵が条件反射のように彼に続く。だが、勿論楓仁に追い付ける者はいない。緑

犀ですら、彼の騎影を追うので精一杯と言う有様である。

 戦の流れが楓仁の予測よりも、尚早い。彼とした事が後手後手に回されている。おそらく漢嵩も似た思

いを抱いているに違いない。

 万全の体勢で望んだつもりが、蓋を開けて見ればやはりこの様である。

 早く行かねば手遅れになり、漢軍総崩れとなりかねぬ。・・・・或いはすでに手遅れだろうか。

「彼女は常に上を行く」

 楓仁はしかし、そんな状況に反した喜びにも似た気持を味わっていた。

 焦り、敗北感、悔しい思いも勿論あるが。それよりも流石はと言う思いが強いのである。流石は賦の大

将軍であると。

 だが同時にその悲壮な決意に対し、不可侵の悔いをも滲ませる。

「あれでは最後は死するしかあるまい」

 どちらが勝つにせよ。牙深から新たに出て来た一万の兵はおそらくは全滅する。そして紫雲緋や将兵は

それを知っていて、それでも実行したのだろう。

 いや、それを言うなら紫雲緋の軍勢もそうである。例え漢嵩を討ち取ったとしても、彼女達が生き残れ

る確立はとても低い。紫雲緋の戦術は、死の決意、その上に成り立っている。

 例えそれしか無かったとしても、生きる為では無く、ただ勝つ為の策と言うのは、どうしても悲壮感を

伴う。そしてそれはつまり、賦族が自らの最終的な敗北を認めたと言う事でもあった。

 これは賦にとって、死に花を咲かせる為だけの戦なのだろう。

 何故ならば、もし再起を願い、後々の事を考えるならば。例え全ての拠点を失ったとしても、彼女らは

逃げるべきなのである。包囲前であれば突破する事も可能であったかも知れないし、包囲された後も、何

も最大兵数を持つ漢軍へわざわざ挑みかかる必要性が無い。

 恥も外聞も無視し。逃げに徹すれば、死戦を避ける事を徹底すれば、或いは別の道も見えていたのでは

ないだろうか。

 例え万が一つこの戦に勝てたとしても、賦の消耗は極限に達するし。漢嵩を討ち取っても、おそらくは

凱軍が疲弊した紫雲緋を討ち取り、漁夫の利とばかりに全てを掻っ攫ってしまうだろう。

 勿論漢嵩が死ねば、それで全軍が瓦解する可能性もある。しかし凱禅の性格を考えれば、その可能性は

低い。凱兵も昔とは違う。誰が死のうと自らと家族を生かす為に、構わず戦うだろう。

 どれだけ考えても、一矢報いようと迎撃に出た時点で、賦に勝ちは無いのである。

 だから流石は誇り高き賦族と賞賛の念が起きるのだが、同時に虚しさも感じてしまう。

 楓仁は死ぬ為だけの戦などは嫌いであった。

 とは言え、彼の好き嫌いで何かが変る訳も無い。彼は一刻も早く漢軍を助けに向うのみである。

 だから駆けた。それ以上何も考えず、情を握り潰すようにして駆けた。

 賦族がどうせ滅ぶのであれば、せめて戦場で死なせてやるのが作法であろう。そしてどうせ討ち取られ

るのならば、強兵名高い壬の黒竜に討ち取られた方が、賦族の思考で考えればまだ救われよう。 




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