1-8.天機を示さん


 牙深の門が開き、賦の軍勢が現れた。四方に四門ある内の北門からである。即ち賦軍は総大将である漢

嵩に決戦を挑む腹なのであろう。

 ぎりぎりまで出軍せずに黙して居たのには、何か考えがあるからだろうか。

 何にしろ、予想通り都市内に篭る事はせず、真っ向から勝負を挑んで来るようだ。率いる将は紫雲緋、

側には紅瀬蔚(コウライウツ)の姿も見える。

 賦族の最大兵数は四万程。だがざっと眺めるに出てきたのは三万が良い所である。おそらく予備兵か何

らかの目的の為に一万の兵を残してあると見える。警戒せねばなるまい。

 粛々と進む軍勢には威圧感を感じるが。楓仁は哀しいような嬉しいような、不可思議な心持でそれらの

報告を聞いていた。

 この兵団が黄竜であるとすれば、何とみすぼらしくなった事だろう。天兵と見紛うたあの凛々しさ強靭

さは今は微塵も感じられない。

 これが天運を無くした者達の末路だと思えば、一体人間とは何をしているのだろうか。何をして来たの

だろうか。

 とは言え、その意気は離れ見るこちら側にもひしひしと伝わってくる。正に決死の構えで、いくら彼ら

の装備が心許無くとも、簡単には貫く事は出来ないように思える。まるでその意気を鎧のようにまとって

いるかのようで、面構えを見る度に戦慄が背筋を走る。

 どうやら楓仁の戦続きの生涯においても、類が無い戦になりそうだ。

 戦場を包む大気に闘志が満ち、風が抜ける度に痺れるような寒気をもたらす。

「まるで死神でも居るかのようだ」

 痩せこけた顔と擦り切れた武具に防具、そこから見えるのはただ鋭いとしか言い様の無い鬼神の如き眼。

 これが同じ人間だと言うのなら、人間程怖ろしい存在は無いように思える。生死すらも平伏すであろう

彼らの視線の前には、一体通常の戦術などがどれほど有効だと言うのだろう。

 いよいよ気を引き締めねば、一度でも混乱を招かせようものなら、精鋭中の精鋭である黒竜でも、一息

に瓦解しそうに思える。人ならぬ者を前に、戦の素人も玄人も無い。

 蛇に睨まれた蛙のように怯えるのみか、或いは窮した鼠が猫を噛むか。技も経験も関係なく、そこにあ

るのはただ無謀とも言える蛮気か勇気のみであろう。

 特に連合軍と言う多数の国家、軍勢が同時に行動する作戦の時は、単一の国家、軍勢で行う時よりも遥

かに混乱を招き易い。

 しかし今回将と仰いでいるのはあの漢嵩である。そう言う事も重々理解し、無数の手を打っていた。

 彼が重点を置いたのは、それぞれの役割をきちんと定め、それを兵の一兵に至るまで把握させる事であ

る。当然賦軍は迎撃に出て来ると想定していたから、それに付いても役割分担はしっかりと為されていた。

 その役割に従うならば、敵軍正面に位置する漢軍が兵を集め迎え撃ち、凱軍は空いた西側から移動して

漢軍の後ろに付き、後詰として予備兵のような形を取りながら、然るべき時に戦線へと投入される。

 壬軍はそのまま東側から攻める構えを見せて敵軍を牽制しつつ、遊撃兵のような位置付けでもって進み、

賦軍の後背を狙う。

 これからも解るように、漢嵩は凱を信用していない。もっと言えば凱の兵質に不安を持ち、邪魔になら

ぬように後ろで見ていろ、とそう言っている。

 或いは凱に戦功を立てさせたくないのかも知れない。如何に大軍と言っても、前線に出れなければ功名

の立て様が無いからだ。

 どちらにしても兵数の多い凱軍を決戦兵力と見ず、その期待は多分に壬へと向けられていた。確かに壬

の黒竜ならば武具兵質共に問題なく、勝敗を決する為の決戦兵力とするには申し分無いだろう。

 その分敵とするには脅威なので、ここで決戦兵として被害を増させようとも考えているのかも知れない。

決戦兵力の被害はどうしても大きくなってしまう。

 いつの頃からか、どうも漢の動きには常に政治臭が濃く付きまとうようになっているようだ。

 大国となっただけに、そして絶対敵国であり、逆に言えば三国家同盟を繋ぐ存在であった賦国が消える

だけに、目前の事よりもかえって後々の事を重視するようになっているのかも知れない。

 即ち、いずれはどの国家も敵となるのだから、と。

「漢が動いたようだ。我らも向う、皆遅れるな! 史上に残る戦になろう。決して汚名を残すまいぞ!!」

 楓仁は気合一閃、東を回り、賦軍の後背を目指した。

 どの国にどのような思惑があれ、今は作戦に従わなければならない。

 夥(おびただ)しい緊張感が場を支配していく。 


 全てを飲み尽くすが如く、大規模な横陣で迫る漢軍。

 それに対し、賦軍は負けじとこちらも大規模な縦陣で迎え撃つ。

 五万と三万と言う数の人間が機敏に動く様は、遠目に見ていると何やら作り物のような気がしないでも

無い。現実感よりも夢想感の方が強いと言う事だろうか。

 日常見る事は決して無い光景だけに、脳の方が上手く認識出来ないのかも知れない。

 それは例え戦慣れしている者でも変るまい。人間には慣れと言うものがあるが、ここまで大規模な、大

げさな事となると、慣れと言う次元とはまた一線を違う気がする。

 逆に言えば、現実味よりも夢想感の方が強くなるからこそ、人はこうして戦い殺し合う事が出来るのか

も知れない。

 漢軍は数の有利を利用し、依然広々と厚い陣形を組んでいる。

 流石に不利に見たか、賦軍は三つの軍へと分かれた。三つの縦陣が三角形に並ぶ様は、まるで穂先のよ

うに見える。或いは三本の矢か。

 三つに分ける事でより敵軍との接触面が増え、それによって戦果も倍増する。それにこう何かをするぞ、

策があるぞと見せる事で、敵者の神経に重圧を加える事も出来るのである。

 勿論、兵の接触面の増加に比例して、被害も桁増すに違いない。

 どちらにしても意図は明白であり、このまま漢軍を正面突破する腹のようだ。そしてそれこそが賦軍の

碧嶺以来の伝統的な法でもある。三万の兵がそれぞれ弩に槍にと構え、無数の武具が陽光を煌びやかに反

射していた。

 まるで往年の黄竜がそこに居るかのようだ。だがしかし、光輝いているのは陽光でしかない。その下に

隠された武具は二流品が良い所であるに違いなく。陽光を反射したから武具の鋭さが増すと言う事もある

まい。

 如何に賦族が器用な種族とは言え、材料が無ければ作れる物も作れない。彩られているはずの黄金の量

も少なく、辛うじて将格の者だけが煌びやかな鎧を身に付けているに過ぎなかった。

 ただ、その動きは正に霊妙で、見事と言うしかなかった。とても他軍が真似出来るモノでは無いだろう。

何が違うのかと言えば、集中力が違う、必死さが違う。何より戦闘に対する意欲が違う。

 戦の為に生まれ、戦の為に鍛えられた賦族の力は、万人を平伏す程の威光を発してきた。

 歴史と執念、それが交わる時、稀に恐るべき変化を遂げる事がある。

 だが今の賦族には、拭い去れないような恐怖は感じない。どれだけ強かろうと、あくまで人であると、

あるがままの姿を大陸人達も見られるようになっている。

 賦族は衰えた。

 衰えた者などに、漢嵩は動じない。

 挑発するかのような三本矢の陣形に対し、自軍を大きく右翼、左翼、中央の三軍に分けながら、ゆっく

りと包囲していく。その遥か奥先には凱軍だろう、無数の青鎧が淡く見えた。

 漢の軍勢は時折賦軍を誘うかのような細かな運動を縦横に繰り返す。寄せては引き、引いては寄せ、漢

嵩の指揮で動く漢軍も良く訓練されているのだろう、双兵と呼ばれていた時とは比べ物にならない見事な運

動を見せた。

 それに反応するかのように突如地鳴りが響く。

 待ちきれなくなったのか、腹を括ったのか、賦軍が突撃を仕掛けたようだ。

 無数の弩矢が放たれ、驚くべき射程から正確無比に漢兵を射抜いて行く。どうやら三角の先の部分に、

つまりは最前列に弩兵を配置していたらしい。それが前進しながら撃っている。

 確かに大軍の前に狙いは不要、撃てば撃つだけ誰かに命中するに違いない。これだけ厚い陣形相手なら

ば尚更である。しかしそれにしても移動しつつ撃つとは、およそ考えられない事であった。

 どうやら紫雲緋は定法を無視した戦術を取るつもりらしい。無謀にも思えるが、その無謀が罷(まか)

り通るのが賦族の強み。生まれついての戦士の肉体は、あらゆる不可をすら時に可能とす。

 とは言え、流石に不便だったのか歩を緩やかに止め、弩のみに集中し始めた。結果連射速度が上がり、

漢軍の中央は乱れに乱れた。数千の矢が立て続けに襲い来る光景は、しかもそれが直線的な軌道で来るの

は、まるで槍のみが意志を持って襲い来るようであり、恐怖感は並大抵のモノでは無い。

 そこを弩兵軍を追い抜くように他の二軍から騎馬隊が突進し、乱れた兵を散々に打ちのめす。暫く攻撃

したかと思うと、今度はひらりと返し、そこを漢軍が追おうとすれば弩矢が飛んで来る。

 漢軍は盾を完備させて居たが、それでも中央の兵はばたばたと倒れ、傷の無い兵は無かった。

 漢嵩はその様を見ても落ち着いて次々と兵を寄越し、後方に控えていた弓兵を出しながら賦軍を牽制さ

せ、その疲労する時を待った。

 更に右翼と左翼を動かし、ゆっくりとだが左右からの挟撃の姿勢を取らせる。

 被害が大きいのも、賦軍が中央突破に拘るのも解っていた事である。今更そんな事を考え、憂いている

暇は無い。一瞬たりとも気を抜く事は出来なかった。

 漢嵩は前線後部に位置している為に、時折矢が飛んでくる事もあったが、無論彼は動じない。流石にこ

こまで飛んでくれば矢の勢いも落ちており、容易く掴んでは折って捨てた。そして怯むどころか、更に前

へと進む。

 となると当然兵達も進まざるを得ない。怖くても総大将が退かない以上、それどころか更に前進する以

上、誰が立ち止まれると言うのだろう。漢兵は湧き、矢の切れ目を見ては只管に進んだ。

 そのようにして両軍じりじりと近付き、ついには眼と鼻の先にまでになった。

 頃合だと見たか、或いは怯まぬ漢兵に痺れを切らしたのか、紫雲緋は弩を捨てさせ、全兵を白兵装備に

切り替え、全軍突撃を命じる。

 鋭角なへの字形に変わった賦軍は、包囲しようと迫り来る敵右翼左翼を無視し、中央、つまりは漢嵩を

獲るべく、凄まじい突撃を開始したのだった。




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