1-7.大軍の雄


 漢嵩の主宰する包囲策はほぼ成った。

 牙深から各地への行軍路は全て分断され、それぞれの都市や町も要所は全て抑えた。最早牙深一個だけ

が賦国領と言って良く、それを黙って見ているしかない賦族は徒に焦燥だけを募らされた。

 すでに季節は夏へと移り変り始め、南天に輝く太陽の日差しは高い。

 気だるい暑さに誘われる中、しかし連合軍の将兵の士気は未だ高かった。それどころか、かえって高ま

っているかも知れない。いよいよ、いよいよ、と思う度、彼らの心には大陸人にしか解らない達成感のよ

うなモノが湧き上がっているのだろう。

 言わば賦国勃興時からの、大陸人の悲願が今正に叶う。訓練にも力が入り、その戦略戦術も練りに練ら

れた。不安も無くは無いが、今ならば必勝の自信がある。

「頃や良し」

 漢嵩はそう判断し、連合軍にようやく牙深への進軍を言い渡した。おそらくこれが賦族との最後の戦と

なろう。そしてこの戦が終った時、賦族への脅威と恐怖心は去り、賦族が再起する事も無いだろう。

 再び大陸人に従属する存在へと、或いはそれに限りなく近い身分へと落とし。武器も教育も一切を取り

除き、飼い馴らされた家畜のように無害な存在へと戻すのだ。

 そこで始めて大陸人の完全な勝利となり、この大陸に始めて踏み入れた時の世に戻る。

 つまりは他民族への不安が無い時代へと。

 それが人道的、道徳的にどうかとか、そう言う事はあまり関係無い。そうする事が大陸人にとって絶対

的に必要だと、大半の大陸人が信じているならば、当然そうなるのである。

 それから以後の事は、またそれから考えれば良い。いずれは賦族への同情票が増え、その生き方も変わ

ってくるかも知れない。少なくとも今は碧嶺の影響で、賦族に対しての悪感情も、碧嶺以前よりは減少し

ている。

 だから賦族にとって幸運だとは言えないが、本来敗者の運命とはそのようなモノなのだろう。自らを自

らで決する事が出来ず、全ては他者の手に委ねられる。人権も誇りも。

 まあそう言った人道論はさて置き、ともかくも三国はそれぞれ大軍を牙深へと向わせた。

 その兵力はおよそ漢が五万、凱が三万、壬が二万程度、総数約十万と言う途方も無い大軍であった。対

する賦は四万も居れば良いくらいであろうか。しかも物資と糧食が乏しく、往年の力は無い。

 だが連合側は(凱禅は解らないが)油断していないだろう。実際に戦い続けて来た彼ら以上に、賦族の

力を知る者はいない。

 賦族の強さとは武具や戦闘技術と言ったモノの上を行く所にある。

 連携を強め、お互いに連絡を密にして、決死の覚悟でこれに当たらなければならない。果たして賦国滅

亡までに、一体どれ程の被害が出るのだろう。そう考えれば不安も煽られる。

 後々の事を考えれば、ただ賦を滅ぼせば良いと言う訳でも無い。今は協力し合う連合側の個々の国々は、

実際いつ敵同士に変るか解らない。生涯敵国である賦が消えれば、各国の間に更に微妙な緊張感をもたら

す事も明白だろう。即ち、次はどの国か、と。

 だから味方であるはずの国々にも注意していなければ、何処で足下を掬われるかも解らない。大事な場

面で、重大な裏切りに遭う事も、或いはあるだろう。ただ大軍を擁していると言う強みだけでは無いのが、

連合軍と言うモノである。

 大雑把に利害の一致は見ても、その思惑と目的は各国全く別個のモノであるからには、それも仕方の無

い事なのだが。皮肉と言えば、これ以上皮肉な関係は無い。

 

 楓仁は東河の宿舎にて、漢嵩からの報を受け取った。

 すぐさま伝令を飛ばし、兵を集め、しかしいつものようにいきなり単騎駆けする事は無く、準備周到整

えてから進軍を開始した。

 正直東河の豪商相手の(政治的色彩の強い)談合には、いい加減飽きも呆れもしており(とは言え、そ

のほとんどは緑犀が出席したのだが)、これ幸いとささと出て行きたかったのだが、今は大事な大作戦の

最中である。私情に乱されるような、軽々しい真似は出来なかった。

 今は速度よりも、慎重さと確実さこそが重視させられる時であろう。

 他軍と連携する場合、予定を違えれば、それだけで重大な窮地を作る事になりかねない。

 何しろ大雑把に東西南北四軍に分けられた軍勢は、個々を見れば賦族の総兵力には及ばない。しかもそ

れを率いるのはあの紫雲緋である。少しの狂いが、予想外の敗北へと繋がりかねない。

 例え倍以上の兵力差で、周到に準備された包囲策とは言え。軍勢を分けるという事は、それだけで危険

極まりない事なのである。無敗の軍、必勝の策などは在り得ず。戦争と言うモノはそれに携わる者の精神

が平時とは変ってしまう事からしても、どう転ぶか一瞬先さえも解らないものだ。

 大兵浮かれ易く御し難し、小兵研ぎ易く侮り難し。とは、正にこれを戒める言葉なのだろう。

 楓仁も流石に緊張を強いられ・・・・る事はさほど無いが、多少思う所は在った。

 彼にとって、賦国は言わば第二の故郷である。それを自ら滅ぼす軍を率いるとなると、それはそれで冥

利に尽きる事も無くは無いが、ふと考え込まざるを得ない。

「これも運命と言うモノか」

 しかし考え込んでも、それで何かが変る訳も無い。変える意味も無い。自分の与えられた、自ら得るべ

くして得た役目と居場所が、そんな事で変る事はまず無いからだ。必要であればやるしかない。

 それに楓仁にとっても、賦族と生存を賭けて覇権を決する事は、決して不愉快な事では無かった。むし

ろ誇るべき事である。

 壬軍は粛々と立ち塞がる者の無い道を、飽く事無く進む。

 数日とかからず、決戦の地へ辿り着くだろう。今は感傷は無用であるに違いない。


 数日後、牙深の包囲も完了した。

 戦術として一角を空けておくような事もしない。完全な包囲であり、殲滅の為の包囲である。

 四方八方正に出入る隙は無い。北と西に漢軍、東から壬軍、南に凱軍と見る者を圧倒する光景で、この

戦の結末がどうなろうと、おそらく後世まで語り継がれる大決戦となるだろう事は確かであった。

 紫、白、青、黒の甲冑が陽光に照らされ、それぞれ煌びやかな光を纏(まと)っている。

 兵卒の端々まで適度な緊張感が満ち、不安であった侮りや油断と言ったモノは感じられない。

 いよいよこの時が来たと、皆はちきれる期待と輝かしいはずの前途を思い、その目は曇りなく、眩しい

ほどに輝いていた。

 心中各々思う所は在るのだろうが、少なくとも不安の色は見えない。

 この意気をして、しかし漢嵩は依然として慎重であった。士気と数に任せて無理押しするような事はせ

ず、まず拠点となる要塞の建築に入り(紫雲緋を後一歩まで追い詰めた戦い以来、漢嵩は以前よりも尚、

陣地構築に重点を置いているようだ)、万全を期す構えである。

 むしろいよいよの時になって、より慎重さを増したかのように思える。おそらく全将兵の期待が大きい

だけに、しくじってしまった時の反動を恐れているのだろう。そしてその恐れも、名将にとっては必要な

感情であるには違いない。

 臆病、恐怖こそが知恵を生み、そして自らを律する力へと変わる。

 蛮勇を弄(もてあそ)ぶだけの将など、所詮は戦闘部隊長程度の器量でしかないのだろう。

 漢嵩は一度賦国へ投降して以来、言って見れば爆発的な成長を遂げ、今では紛れも無く大陸史上屈指の

武将であり王となったが。その影にはそれだけ大きな恐怖心があったとも言えるのかも知れない。

 賦に一度降ったと言う事から来る、名誉名声への恐怖心。この短期間の間に大国の王にまでに成った、

いや成らされた事から来る恐怖心。此処に至っても簡単には拭い去れない賦族への恐怖心。

 そして一番大きな、自分が後世どう評されるかについての恐怖心。

 これら様々な恐怖心を常に抱き、それに追われるように自らを鍛え、知恵を振り絞り、善政を敷く事の

みを考えてきた。全身全霊をそこのみに置き、命を削るような作業の連続。ここまですれば、例え生来凡

庸な者でも、一角(ひとかど)の人間に育ったに違いない。

 ましてや名将の誉れも高き漢嵩である。今の彼が在るのも、結果として当然の事なのであろう。

 しかし恐怖心を多く抱くだけに、時に思考が重荷になり、ある地点で不可思議に止まってしまう事もあ

りうる。現に流行る気持を抑えきれぬ兵達からは(特に漢以外の国の兵からは)、漢嵩は臆したのかと言

う声も、公然とでは無いが私的な場で交わされる事も増えていると言う。

 目先の事のみを考えた、臆したか、と言うこの台詞。その場に居なければ、こうして冷静に眺めれば、

愚かとしか思えない言葉であるが。しかしそう言った一部の人間の、一時の感情によって、全ての戦略戦

術を台無しにされる事は、人間の歴史の中では意外に多い。

 多いどころか、大抵の失敗はそこに帰すると言っても良いくらいである。

 人間の一時の感情程大きく無意味な熱量は無く、それが集団となった時程、怖ろしい力を生み出すモノ

は無い。血迷い、魔が差した、理性が切れた、乱心した。そう言う言葉に相応しい光景が、しかも実際に

在ったであろう光景が、すぐに目の前に浮ぶのはおそらく少数の人ではあるまい。

 人間がいつまでもいつからも過ちを繰り返すのは、多分にそう言う暴走とでも言えそうなモノに在ると

考えられる。人間の世界には、こう言った過ちが当たり前のようにあると言う事を、これは証明している

のではないだろうか。

 漢嵩はその地位から思えば、考えられない程の恐怖心を抱えている。当然そう言った不満や不平に対し

て敏感である。そして彼程集団の狂気の恐ろしさを知る者はいない。

 莫大(ばくだい)な新たな恐怖と共に、彼は焦燥を感じた。

 とは言え、無意味に計画を早めれば、思わぬ所で足下を掬われてしまう可能性が増す。徒に感情に惑わ

される訳にはいかない。

 結果、漢嵩はただでさえ疲弊している神経を更に振り絞るようにして、予定通りに計画を進めて行く。

 それに湧き上がる意気を抑える事は戦略上悪くない。溜まりに溜まり、限界まで抑え、臨界に達する直

前で解き放つ。その時の爆発力は賦族のソレですら、軽く凌駕するだろう。

 漢嵩は待った。いや祈っていたかも知れない。

 最も効果的な時に、効果的な場所で、その熱量を解き放てる事を。その熱量が全てその時に発散される

事を。そして何よりその時が一刻も早く訪れる事を。

 残された熱量は現状に妥協する事を許さず、不満をのみ高めていく。それは治世においては毒でしかな

く、乱世においてさえ暴風に似たモノである。出来ればこの熱量を残しておきたくは無い。

 漢嵩は知っている。この熱量を上手く操れる、扱える者こそが天下を支配出来るのだと言う事を。そし

てだからこそ、全てを超越して危険なモノであると。

 彼は待った。精神と命の消耗に耐えながら。いざ勝敗の分れ目のその時を。

 その時は近い。




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