1-6.魔か、否か


 賦国の都、牙深はあらゆる感情に支配されていた。

 つまりは思考がまとまらず、各々の胸に数多の思いが止め処なく溢れていると言う事である。

 彼らを統べる大将軍、紫雲緋さえも、未だ対抗策に悩んでいた。

 何しろ賦国滅亡の危機である。それも一年前には考えもしなかったと言う危機である。これを上手く対

処出来る方が異常人であろう。

 将軍も他に一人しか残って居らず、兵も最盛期に比べれば半減するも甚だしい。軍師である趙戒が、非

常手段として新たに募った兵も居るが、正規兵団黄竜とは比べ様も無い。せいぜい数合わせにしかならず、

兵数以前に武具すら足りてないのが実情であった。

 武具製造の要であった黒双も落ち、作ろうにも資源からして足りない。

 勿論食料も足りない。正に無い無い尽くし、流石の大将軍でも匙(さじ)を投げてしまってもおかしく

はないだろう。

 とは言え、それで諦めるような者は賦族にはいないのもまた、確かな事である。

 例え飢えようと、親類縁者が死に絶えようと、自分一個が生きている限り、そして敬愛する大将軍が居

る限り、決して賦族の心は折れる事が無いのだろう。

 そしてそれこそが、大陸人が賦族と言う存在を恐れている理由でもあった。彼らの軍事能力と精神力は

群を抜いている。とてもの事、大陸人達には真似の出来ないものだ。

 しかしいくら強かろうと、士気が高かろうと、それだけではどうしようも無い事がある。

 牙深周辺は現在孤立してしまっていた。周辺の都市や中継点はすでに陥落している所も多かろう。敵軍

は慎重に慎重を重ね、ゆっくりとだが確実に賦国を蝕んで行く。その度に国力は弱体の一途を辿り、総兵

力も減少して行った。

 当然敵軍にも被害は出ているだろうが、全体的な比率から言えば、明らかに賦族にとって不利な状況へ

と進行している。

 紫雲緋は何度と無く救援として主力軍を向かわせていたが、それもその都度防がれた。敵軍の陣形は重

厚にして堅く。防衛設備も短期間の内に驚くほど周到かつ効果的に多数配置されており、如何に賦軍の突

貫力を持ってしても、一日や二日で抜けられる物では無かった。

 食料が寡少な為、攻撃時間も自然短く。今のままでは時間稼ぎがやっとと言った所だろうか。

 時間稼ぎをして勝機が見えるはずは無く、派軍する度に将兵の疲労だけが徒(いたずら)に募って行き、

紫雲緋や高官達の心理を徐々に蝕んで行く。自らは無力だ、と。

 悪循環である。

 あちらから撃って出てくれれば、野戦での決戦を行える事が出来れば、紫雲緋は今でも敵軍を打ち破る

自信がある。だがこうも防戦一方に回られると、国力や最大動員兵力で負けるだろう賦側としては、どう

にも手の打ち用が無いのである。

 連日のようにして、敗報かその類がこの都へと届く。

 各地にある守備兵だけでは、主力軍が援軍として赴けなければ、当たり前のように敗れるしか無い。何

せ碧嶺から受け継ぐ兵制が、そのようにして出来ているのだ。

 最低限の守備兵を各地に置き、攻められればその兵数で時間を稼ぎ、各戦略拠点に置かれた主力軍の到

着を待って、一挙に撃破する。それが碧嶺の趙深の生み出した兵法である。

 だからこそ、こうして各地への行軍路を閉鎖されれば、各地の戦略拠点を落とされてしまえば、もうど

うにもならない。すでに北部と南部の戦略拠点を失った以上、この法は瓦解したに等しい。

 この状況から抜け出せる起死回生の策があるのだろうか。今更じたばたした所で、最早末路は定められ

ているのではないのだろうか。

 そんな不安情勢の中、愚かとすら言える事を言い出した者が居る。

 その言葉はこうである。

「壬と手を組むべきだ。そうするより我らを救う道は無い」

 当然、何を訳の解らない事を、と皆が思った。

 その愚か者が、あの趙戒と言う男の言葉であれば、尚更の事だろう。 


 紫雲緋は趙戒を前に、彼の真意を問い質している。

 場所は亡き賦正の私室を選んだ(彼の私室は亡き後も未だそのままにされていた)。ここならば趙戒も

嘘偽り無く話すだろうと思ったからだ。その大きさは解らないが、趙戒の胸には賦正への尊敬心が在る事

は確かなようである。

 それに彼と自分の私室で会いたくは無かった、と言う紫雲緋の感情も、おそらく場所の選考に大きく作

用していたのだろう。資質はさておき、あまり賦族に好かれる性質の男では無い。紫雲緋も賦正への心遣

いから彼の面倒を見ているが、個人的にはさほど好ましくは思えない。

 むしろ頭痛の種のように思える。例え一度命を助けられているとは言え、その気持は変わらなかった。

 才は認めるが、それだけの事である。

 趙戒はいつものように平然とした表情で、紫雲緋と対峙(たいじ)して座っていた。

 彼には果たして他人の事を考える能力があるのだろうか。臆せずに居ると言うのは、非常に鈍感である

か、或いは感情を押し込める能力に長けているか、そのどちらかだろうが。彼は一体どちらなのだろう。

 ともかく誰が相手でも、言わねばならぬ事は、やはり言わねばならない。

「貴方は壬と同盟するなどと、公然と口にしているそうですが。それは本当ですか」

「はい、本当ですよ」

 趙戒の表情はやはり変らない。

「何故そのような、この火急の時、皆の心が穏やかで無い時に、わざわざそれをかき乱すような事を言う

のです。何より、そのような策が成る訳はないでしょう」

 すると彼は言う。

「何故、と言われますか。これは異な事を。火急の時だからこそ、私は言っているのです。今のままでは

いずれこの国は滅びてしまいます。最早現状は賦族だけの手では負えぬ所まで来ているのですよ」

「だから、壬と手を結ぶ。つまりは他国の力を借りろと言うのですか?」

「その通りです」

 紫雲緋は眩暈をしそうな気持ちになった。

 一体この男は何を言っているのだろうか。

「壬ならばこちらに手を貸さざるを得ません。何故ならば、建国の際に兵と将軍を与えたと言う恩がある

からです。律儀者の壬の事、この恩を言えば決して無下には出来ないでしょう。最悪同盟は断られたとし

ても、壬は遠慮して戦線から遠ざかる事は明白です。この包囲網は三国が共同しているから出来た事、そ

の一角さえ崩せば、我が国の軍事力を持ってすれば戦況を一変する事も不可能ではありません」

 確かにどんなに強固に思えた物でも、何某かの理由で一角が崩れると、不思議と容易く瓦解してしまっ

たと言う例は古今数多くある。

 人間の心理は一度崩れると連鎖して崩れる脆いモノだと、他者に依存し同調してしまう面も強いモノな

のだと、そう言う事だろうか。理由ははっきりとは解らないが、信頼や期待の崩れは時として深刻な結果

を生み出す事も、また事実である。

 しかしだからと言って、この言葉が暴論である事は変らない。

 確かに壬は律儀である。だから旧恩を持ち出されば、おそらく動揺するだろう。少なくともそれを知っ

た漢や凱は動揺する。そしてもし壬がこちらと協力しないまでも、遠慮して積極性を欠いたとなれば、そ

れはこちらに非常な優位をもたらす。

 三国の連携は崩れ、その仲には更に消え難い罅(ひび)を入れる事だろう。

 だが、現実はそうも思い通りに運ぶモノでは無い。

 壬が律儀なのは何も賦に対してだけでは無いのだ。確かに動揺はするだろうが、決して三国の連携を失

するような事はしないだろう。せいぜい丁寧な返答の後、降伏するのならば、我が国が誠意を持って呼び

かけよう、とでも言うのが落ちである。

 何より、賦族が敵者にまるで哀れみを乞うように、助けを乞うなどと、一体誰が望むと言うのだろうか。

旧恩旧恩と趙戒は言うが、それは元々壬牙の名を出され、壬牙に受けた恩を少しでも返す為にやった事だ。

それに対して見返りを期待するような、そんな恥知らずな真似が出来るはずが無い。

 そんな事をするくらいなら、皆死を選ぶに決まっている。

 確かに理屈で言えば、合理的に心情等を無視し、人間性を無視すれば、趙戒の策は妙策なのかも知れな

い。しかし我らは人間である。何故この男はこうも人の心を省みないような策ばかり立てるのだろうか。

 この男は果たして人間か。

 漢嵩を降らせた事といい、玄への侵攻といい、結果として全てが裏目に出てきたのは、人の心を無視す

るような策を立てるからでは無いのだろうか。

 良くも悪くも理想主義者なのだ、この青年は。

 そしてその事にまったく懲りて無い。能力は成長しても、精神はまったく成長していない。魔が差すと

いう言葉があるが、この男こそがそもそもその魔と言う奴ではないのだろうか。

「・・・・・・その策は採りません」

 今までに感じた事の無い疲労を感じながら、辛うじて紫雲緋はその策を不可と言い渡した。理論と理想

だけの趙戒に何を言っても無駄だろう。現実を見ない者には、おそらく誰の言葉も通じまい。

 紫雲緋としてはその権限を使い、策を採用しない事を告げるしか他に無かった。

 趙戒も紫雲緋にそう言われれば、それ以上何を言う事も出来ない。少なくとも、今までのように他者に

余計な事を吹き込んだりはしないだろう。そう言う美点もこの青年にはある。

 趙戒は何を思うのか、いつもの表情で、静かに辞して行った。

 後には言葉に出来ない疲労感だけが、紫雲緋の肩に残ったのだった。




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