1-3.天浪に継ぐ


 漢の宰相、明節(ミョウセツ)は自室にて、深く考え込んで居る。

 すでに賦は衰え、玄は実質併合し、漢は名実共に大陸最大の国家となった。最早この国に対抗出来る国

家は無い。勿論、内情に不安が残る故に、依然無理は出来ず、油断も出来ないのだが。それでもこの国と

まともにやりあおうと思う国家はもう無いはずであった。

 それはあの賦国でさえも同様である。賢しい紫雲緋(シウンヒ)の事、現状の如何ともし難い状況は良

く解っているはずであり、だからこそ賦族には珍しく自国安定に熱心でいるのだろう。

 紫雲緋を討ち漏らしたあの戦から今日まで、賦国との間にも戦らしい戦は起きてはいない。

 あるとすれば、偵察兵達が小競り合いをした程度であろうか。それを考えても、賦の窮乏は察せられよ

うと言うもの。如何に紫雲緋が居るとは言え、正に風前の灯火、放って置いても良いかも知れない。

 しかし賦族に対して、大陸人は未だ拭い去れぬ何事かを持つ。それを単純な恐怖と呼ぶには、あまりに

も大きな何かがあるのだ。明節もそれは変らず、機会があれば早々に討っておきたいのも本音である。

 だから壬と凱にも今が好機と、共に賦を討つべく使者を送ったのだが、事もあろうに壬はそれを拒否し

てきた。何と言う愚かな者達であるだろうか。建国の事を思えば、気持ちは解らないでも無いが、今はそ

んな感傷に構っていられる時では無いだろうに。

 それでいて北昇一帯で軍備を整えつつあると言う情報が入っている。よもや壬が漢に侵攻するとは考え

られ無いが、どうやら壬との間柄もきな臭いものになってきたようだ。

「早々に、壬との関係を終わらせておくべきか・・・」

 壬などそれこそ放って置いて大事無い国であるが、何しろ漢嵩が一度降った国である。そう言う意味で、

唯一漢嵩が頭の上がらない相手であり、目の上のたんこぶとも言えるかも知れない。

 王がそうである以上、漢としても常に敬意を払わざるを得ないから、漢が現状唯一遠慮せざるを得ない

国家であるとも言えるだろう。これは宰相である明節としては、あまり気分の良いものでは無かった。

 壬とは同盟を結んでいるのだが、同盟での立場も同等であり、漢が派軍を無理強いする事も出来ないし、

強く口出す事も憚られる。

 腹立たしいが、壬が派軍要請を断ったとしても、黙認するしか無いのだ。これだけの国力差がありなが

ら、この国とはおそらく長い間対等にするしか無いのだろう。少なくとも、漢嵩が存命している間は、よ

ほどの事が無い限り手は出せまい。

「いくら反壬気分が国民の間で高まろうとも、手出しは出来ないと言う事ですか・・・」

 今回の要請拒否で壬国への不満が民の間で高まっている。とは言え、では壬に侵攻しよう、などと言え

ば、国民は猛烈に反対するだろう。それは仁義に反する極みであるからだ。

 元々壬に対して、漢民達はあまり悪感情を持っていなかった。現に壬は同盟国として充分信頼出来る国

家であるし。漢の独立も当然のように認めてくれた事を思っても、真にやりやすい相手であった。

 正に理想の同盟国であり、今の漢があるのも壬の尽力があればこそであろう。

 明家としても私恩が出来た。

 北昇候、壬萩が明宗家当主である、明泰(ミョウタイ)を北昇顧問と言う名誉職に就けてくれたのだ。

 しかも聞く所に寄れば、初めは宰相として招いたらしい。明泰が気楽な隠棲生活を好む男でなければ、

今頃北昇で大いに采配を揮っていたのだろう。

 分家である明節でさえ、実質の立場が逆転している今となっては、年始の挨拶とたまに贈物をする程度

の最低限の敬意を払っているのみであり、決して実権を持たせようとはお世辞にも言わなかった事を思え

ば、これがどれ程破格の待遇である事かが解るだろうか。

 真に壬の風は大らかである。勿論、そうする事で北昇一帯の民の心を得ようとしている事も明白ではあ

るが。それでも宰相とは気前が良い。

 以前、北昇太守であった明節を降らせるべく、明泰を名聞上使者に立てたとは言え。すでに明節が壬の

思惑に傾いていた事を思えば、明泰はただ名分を利用されただけの事であって、世間の誰もがそれを知っ

ており、当人もそれ以上に知っているだろう。

 そうであるのに、言って見れば用済みの相手にわざわざそこまでの義理を示したのである。

 こうなると明節の立場は無く、多少嫌悪感を覚えないでもないが。それでも明家が壬に恩義が出来た事

には変りは無い。

 王と宰相に恩義があるとすれば、これはどう考えても国家としても壬に頭が上がるまい。いくら不満が

あっても、積極的に敵対する事は許されないのだ。漢国民自身がそれを許さない。

「となれば、やはり全てはあの国に被ってもらうしかないか・・」

 明節は意を決した。

 しかしそれを行うには周到な準備と、何よりも時間が必要である。

「何にしても、先に賦を片付けてしまう事が肝要でしょう」

 漢嵩を碧嶺(ヘキレイ)にする。彼の大望を果たす為には、まだまだ多くの段階を得る必要があるよう

だ。しかしそれもまた、楽しみである。労せず得た物などには、価値は無いのだから。 

 そして現実を見ても、最早それは空想では無い。実現可能な夢になっている。


 漢と凱が賦へと再度侵攻を開始した。

 最早余命幾許も無いと思われる賦国相手に、これは戦争ですらなく、殺戮なのでは無いか。そう言う意

見も上がる程、賦国は衰えていた訳だが。しかしやはり腐っても賦族である。賦は強靭な抵抗を示した。

 紫雲緋に鍛え直された兵団の強さは凄まじく。軍師、趙戒の予想外の健闘(後方支援において)もあっ

て、三国の間で一進一退の攻防を繰り返したのである。

 復帰した上将軍、紅瀬蔚(コウライウツ)と白晴厳(ハクセイゲン)の活躍も著(いちじる)しい。強

弩(きょうど)隊も活躍し、類を見ない程の戦果を出した。やはり真っ向から戦えば、賦族に容易い相手

では無い。

 しかも彼らにしてみれば、一族の存亡がかかっているのだ。その意気は漢と凱の比では無かった。諦め

の死では無く、次代を創る為の死を覚悟した人間程怖い者は無いと言う事だろう。

 漢嵩も流石に歴戦の猛者。劣勢を悟ると早々に撤退を決め、凱王、凱禅(ガイゼン)に使者を送り、両

軍南北へとそれぞれ撤退して行ったのだった。

 ここまで来れば後は戦略も何もなく、物量で押して行くくらいしか無いのだが。漢、凱共にその為の戦

力不足を痛感する一戦となった。両軍合わせてみても、未だ賦一国を叩き潰す程の戦力を作り出す事は出

来ないようなのだ。

 今まで連戦に次ぐ連戦をし、あたら兵力を消耗させて来た付けが、ここに来て改めて現れたと言える。

 国内も安定し始め、ようやく軍隊を編成出来ようか。その程度の回復では、とても間に合わない。

 漢と凱の連携もお世辞にも良いとは言えなかった。この両国は両国共に微塵も信頼し合ってはおらず、

初めから連携も何も無かったと言った方が良いかも知れない。それどころか足を引っ張り合ったと言うの

が正直な所。

 そう見えるくらい、何をするにも両軍の間で諸事戸惑いと躊躇が生まれ。大半はそこを賦に突かれて敗

れたとも言える。初めから連携など考えず、個々にやった方がまだ良かったかも知れない、それくらい酷

い状態であった。

 唯一成功したのが撤退時であったと言うのだから、もう皮肉を通り越している。

 おそらく後世の歴史家達は、足し算が引き算になった、とでも笑うのだろう。

 そして悪い事に、その憤懣(ふんまん)は全て壬国へと向けられたのである。

 壬国が参加しなかったから、今回の戦は敗れたのだ。そう言う風に、両国民は全ての不満を壬へと向け

たのだ。

 確かに壬が参加していれば、まだ善戦したかも知れない。そう言うか細い理由はあったのだが、これは

多分に八つ当たりであり、また八つ当たりだけに始末が悪かった。

 不思議と言えば不思議な責任転嫁であるが、これは人として考えるとさほど珍しい事ではない。

 昨年一昨年と受けて来た恩を全て忘れたかのように、漢民達の声にも当然のように容赦は無かった。ま

るで壬が存在するから自分達は負けたのだ、とでも言うような気配である。

 やり場の無い怒りと責任を全て壬へ押し付ける事で、自分達の優位性(この数年における奇跡のような

連戦連勝)を維持するかのように、暗に必死に壬を叩き始めたのである。

 いつの間にか彼らは、決して自分達の国家が、漢嵩が負けるはずが無いのだと。そんな風に錯覚し始め

ていたらしい。勿論そんな事はあるはずが無いのだが、感情と言うものは時に全てを無視する事が出来る

と言う怖ろしいモノである。

 壬への恩は恩としてあるのだが。可愛さ余って憎さ百倍、と言う言葉もあるように。いざ不快な感情を

持った時、かえって今まで仲が良い方が裏切られたと言う思いが強くなり、その分だけ嫌悪の情が増幅さ

れる。

 壬としても十年二十年では無く、出来ればこの同盟を永続したい訳であるし。そこまで求められれば(恨

まれれば)、これ以上傍観している訳にはいかなくなった。

 この一年程、着々と軍備を整えて来た事は周知の事実でもあるし。このまま静観を続けていると、後に

漁夫の利を得るつもりではないか、などと邪推される事になりかねない。

 そうなれば、凱などがこれを好機と二国の仲を割くべく蠢動するだろう。いや、すでに行われている可

能性が強い。

 壬としては複数の国家と敵対するなど、自滅行為以外の何物でも無く。それだけは避けなければならな

いと言う苦しい実情もあったから、流石に次の戦には派軍せざるを得なくなった。漢との友好を冷やす事

は、間違いなく滅亡へと近付く道である。

 それに衰えたと言えども、賦の強さは変っていない事も解った。賦族の心情で考えれば、これ以上傍観

するよりも、逆に壬国自らが賦を滅ぼすべく侵攻した方が、賦族も納得してくれるかも知れない。

 紫雲雷が創設した兵団が、賦すら屈する程の勢力に成ったとなれば、心境は複雑としても、これ以上満

足出来る事は無いだろう。賦族は碧嶺以来、心身ともに強さをこそ好む。

 手を抜くように同情するよりも、いっそ手を振り上げるのが賦族への友情と言うもの。

 紫雲雷もいずれ賦国と戦う事は解っており、それも覚悟の上で、いやもしかすればそれを楽しみに思い

ながら、黒竜を鍛え上げていたのかも知れない。賦族とはそう言う者達なのだ。良くも悪くもからっとし

ていると言うか、純粋なのであろう。

 苦し紛れの見解であるが、一分の理はある。

 重臣との会議の末、壬王は総動員兵力に等しい二万の兵を、楓仁を将として送る事を決定した。

 賦族は楓家に任す。これが壬臥以来の壬の風でもある。

 それは賦族に対しての皮肉では無く。あくまでも敬意を持っての事である。

 我らが創り上げた軍勢を見よ! もし紫雲雷が生きていれば、賦に向ってそう叫んだに違いない。

 そう思いながら、壬は動く。敵対国とは言え、割り切れない部分もあるのだろう。




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