1-4.過負荷の渦


 竜将軍、楓仁率いる軍勢は常とは違い、ゆるゆると行軍していた。

 交通路がわざと整備されていないから、と言う物理的な理由もあったが、単純に急ぐ必要が無いからで

ある。漢、凱共に今頃慌しく戦争準備を進めている事だろうし、早々と到着しても、それはそれで迷惑に

なる。

 一敗した衝撃は軽くは無く、なかなかに立て直しが難しいようだ。漢嵩が早々と撤退を決めた為に、壊

滅的な損害を受けていないのが唯一の救いと言った所か。

 何にしても、他者に合わせると言うのは面倒な事である。

 愛馬、黒桜(コクオウ)を駆る楓仁の姿は雄々しい。それが粛々と闊歩していると、尚更威厳が備わっ

て見えた。この姿を見せているだけでも政治的、軍事的効果があるだろう。

 楓仁も何も速度だけが能では無い。使い所、使い分けなども心得ているのである。

 側には大隊長、緑犀(リョクサイ)が居る。

 国内の守備はもう一人の大隊長、布周(フシュウ)に任せたようだ。

 緑犀は補給線の確保、兵の消耗を防ぐ等々細々な仕事にも長じ、言わば戦の持久力に優れる。今回のよ

うな遠征には打って付けの人材だろう。

 布周は繊細な気配りの人であり、状勢を読む能力に長け、士気を維持し、その統率力には楓仁も舌を巻

く程だ。その性格からしても、防衛に最も相応しい人材だと言えよう。

 この二人が居てこそ、楓仁は自由自在に武を振えるとも言え、彼を支える両翼であり、この二人が居る

からこそ楓仁率いる軍勢は安定し、古今無双の強さを発揮出来るとも言える。

「緑犀よ、思えば不思議な事になっているな」

 楓仁は馬上呟いた。

 本来専守防衛主義である壬が、遠征軍を派遣するなど、ありうべからざる事であった。それが昨年の北

昇への派兵、双への大々的な侵攻、に続き今回で三度目である。二度ある事は三度あるとは言え、何とも

不思議な心持がするのは当然と言えるだろう。

 しかも今度は賦を直接的に相手する、しかも滅亡を強いる殲滅戦である。

 今までどれだけ賦国に恐怖を抱いて来たか。どれだけ賦国に敗北して来たのか。それを思うと不思議を

通り越して、まるで夢でも見ているようにも思える。

 その思いは紫雲雷の嫡孫に当たる楓仁自身ですら、変わらない。

 賦もあのように戦続きでは、いずれは疲弊して滅ぶ事は必定ではあったとも言えるが。まさかこれ程早

くその時が訪れようとは、一体誰が予想出来ただろうか。

 楓仁一個の心情としては、多少信じたくない気持ちもある。彼は完全な壬国民ではあるが、賦族の血を

濃厚に受け継ぐ一人として、賦の弱体化を信じたくない気持ちが起こるのは当然なのだろう。

 とは言え、賦を滅ぼす一人として、他ならぬ自分が居ると思えば、多少の感動を覚えない事も無い。

 それは分家が宗家を越えるような、そのような複雑な喜びに似ているのかも知れない。少し状況として

は違うが、感覚としては似た経歴を持つ漢の明節の先祖も、同じような気持を抱いたのだろうか。

「楓竜将、確かに私も不思議に思います。ですが、これも一つの建国以来の壬の悲願でもありましょう。

紫雲雷様も賦国を越えるのが目標だったように思いますよ」

「うむ、確かにそうであろう。賦の黄竜を倒してこそ、初めて壬の軍制は完成されるとも言える。どうせ

やるなら、地上最強の軍隊を創りたい。そのように楓雷様も思っただろう」

 楓雷とは紫雲雷が壬に帰化してからの名であるが、壬の民は大抵彼に敬意を表して紫雲雷と呼ぶ。逆に

楓家の人間はその事に敬意を返すように、楓雷と呼ぶ事が多い。だが別段誰がどう言う呼び方を強いてい

ると言う訳でもない為(紫雲雷自身こう言う細かい遠慮事が嫌いだった為)、さほど気にする事は無い。

 楓仁は返答をした後暫し黙り、何かを思い起すような表情で、真正面を睨むかのようにしていた。

 彼の心にどれほど複雑な感情が去来しているのか、それは彼自身になってみなければ解らないだろう。

賦族王家、かの紫雲竜(シウンリュウ)の血を受け継ぐ一人である、彼自身になってみなければ、決して

解るまい。

 喜び、苦しみ、悲哀、解放、そんな思いが数瞬毎に巡ってくるのだろう。それは安定せず、常に変動し、

常に変化を止める事は無かったに違いない。

 楓仁は一つ一つ噛み締めるように頷き、その思いを飲み下した。

 そして問う。

「漢と凱からは何か言ってきたか?」

「いえ、さほど重要な事はまだ。両国も流石に方針を決めかねているようですよ。賦は衰えたとは言え、

簡単に力押しで落せるような国では無いでしょうし」

「ならばこのままで良いか。兵を疲れさせないよう、ゆるりと行ってやろう」

 すでに何度となく漢と凱とに軍使を交わしていたが、どうやら未だ戦略を決するまでに至って無いよう

である。壬は最後に参戦を決めたからには両国を立て、潔くその方針に従うつもりであるから、余計な口

出しはしていない。

 漢国内に反壬感情が高まっていると言う報も届いているから、下手に口を出すと、その感情を煽る結果

になりかねないと考えたからだ。

 今回の壬の方針は、よほどの事が無い限りは大人しく従う、としたようだ。

 そう言う訳で、壬軍は漢から指定された、黒双(コクソウ)へとゆるゆると行軍しているのである。

 後は漢嵩の出方待ちであろう。


 壬軍は黒双へと無事に着いた。

 見慣れぬ道筋でもあり、多少難儀はしたものの、大きな問題も無く不測の事態も起こらず、まずまず順

風満帆な行路と言って良いだろう。

 黒双とは武具等に適した黒曜鉄の産地であり、この機会を利用して良く検分し、出来ればこの希少な金

属を入手したいと壬側は考えて居る。

 ただ、この地は拠点として並ぶ地が無い程重要な戦略地点であり、これを譲渡してもらう事は不可能で

あるだろう。例え漢にこの金属を扱えるだけの技術が無いとしても、どれ程この戦で壬が戦功を立てたと

しても、この都市自体は譲ってもらえないだろう。

 それでもこの戦果如何では、黒曜鉄を条件付きででも、安く売ってくれるようになるかも知れない。

 そう思えば、壬軍は士気が上がらないでもない。

 北昇一帯を任されている蒼愁も、兵の質を補う為にも武具の重要性はこれまで以上に高まるとし、黒曜

鉄の事も首脳部に何度も働きかけていた。賦族か壬国以外に、この黒曜鉄を扱える技術力があるとは思え

ない事を考えれば、戦力向上に正に打って付けの金属なのである。

 壬には大陸中に誇れる技術力がある。黒曜鉄の知識も、おそらく紫雲雷達がもたらしている事だろう。

 壬も押されるままに重い腰を上げた訳では無い。今以上に領土が増えても、壬一国に限って言えばさほ

ど得とも思えないが。領土の代わりにでも黒曜鉄を得られるなら、これは大きな収穫となる。

 世界が単純に仁と義だけで動いているなどとは、壬国も思ってはいない。政治力も愚鈍では無いのだ。

 元々賦族の力を得て建国し、その上その事が今は平然と受け入れられている事を考えても、その政治力

には凄みを感じる。

 勿論、かと言って壬が仁義を捨てた、と言う事では無い。誠心誠意賦族と戦うつもりでいる。

 であるから黒双に到着早々鈍った気と肉体を引き締めるべく、訓練などをしていたのだが。聞けば未だ

漢と凱の戦略が決まっていないと言う。これでは仕方ないので、暫く兵達にも休養を与え、楓仁は緑犀と

のいつもの二人連れで黒曜鉄を物色して回る事にした。

 漢嵩達には挨拶程度にしておいて、依然余計な口を出す事は控えている。後から来た者が我が者顔に意

見したりすれば、人は決して良い気はしないだろう。

 凱禅は不安であるが、何と言っても漢嵩は比類なき名将である。任せてしまっても心配あるまい。

 何かあればあった時に文句を言えば良いだけの事だ。

 それに行軍で将兵共に疲労が溜まっている。長い時間動きが無いのであれば、休みが必要である。軍を

解く訳にはいかないが、それでも休息を与える事は必要だろう。ずっと張り詰めていては、いざと言う時

に満足に動けまい。

 漢嵩もその点は充分承知しており、凱禅からは多少嫌味を言われたものの、それも黙殺して自由にこの

地を動き回る事を許してくれた。

 敢えて二人きりの少数で歩いているのも、その好意に報いるべく、余計な疑念を与えないようにとの理

由からである。

 政治と言うものは、何と肩のこる事か。

「どうされるのでしょうね」

 一通り見終り、食事処である酒家で寛いでいると、緑犀がふとそんな疑問を口にした。

 やはりのんびりしているだけでは居られないようである。どれだけ戦場に慣れ、戦に長けていても、戦

前の不安と言うものは抑えようが無い。自然それが口に出てしまうのだろう。

 如何に英雄名将と呼ばれる者達でも、それは変わるまい。ただ彼らはそれを人に悟らせず、静かに耐え

る術を、余人よりも多く知って居ると言うだけである。

 とは言え、緑犀の疑問は悲観的な口調では無かった。まるで、今朝は良く眠れました、とでも言うよう

な何でも無い口調である。

 深刻に話すと、余計な暗さが出てしまう事を、彼は知っている。言葉は魔力であると。

「さて。降伏せず、寝返りも期待出来ない以上、後は力押しで行くかしかあるまい。どちらにしても、外

からの力によって屈せねばならないだろう。おそらくそれしかあるまい」

 楓仁は断言した。そこに微塵の澱みも無い。

「ならば何故これ程軍議が長引いているのでしょうか。漢王であれば、百も承知でしょうに」

「それは不安だからだろう。大体からして、答えと言うモノはいつも初めから出ているものだ。ただそれ

に気付きたくない、もしくはしたくないから、必死に悩む事で、決定する事を避けているだけなのだろう。

わしもそうだ。それしかないと解っていても、いざやるとなれば躊躇が生まれる。情けない、臆病者と謗

られても、それを行うは容易くない」

「しかし竜将はたった今断言されたではありませんか」

 緑犀は整った顔立ちで、品良く微笑む。

「それは他人事と思うて言ったからよ」

 楓仁はおかしそうに大口を開けて笑った。

 それを聞き、今度は緑犀も同じように大笑した。

 物珍しそうに彼らを見ていた他の客達は、尚不思議そうな目で、二人を見詰めていた。

 短い休息時間が、ゆっくりと更けていく。




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