2-2.辛辣なる太陽


 明節はとある女性の下へと向っている。

 彼女は今も旅芸人の一座の座長を務めているが、すでに名実共に明節の夫人とさえ言って良く。一座も

全て彼の旗下(きか)にあった。

 つまり、本来はこの一座は凱からの密偵団とでも呼べる存在なのだが。主である凱王、凱禅(ガイゼン)

を見限り、今では明節に間接的に(一座の者が従うのは凱禅でも明節でも無く、この世でただ座長のみで

あるから)忠誠を誓っているのである。勿論、凱禅はその事を知らない。

 言わずと知れた、その座長の名は法鳴(ホウメイ)。凱禅の腹心の部下であり、手塩にかけて育て上げ

た有能な参謀官にして、魅惑的な肢体と生来の品の良さを巧みに使う、おそらく大陸でも屈指の潜入工作

員である。

 彼女としては凱禅に恩もあり、個人的に好意を持っていなくも無かったのだが。この漢と言う国に触れ、

明節との仲が深まるにつれ、少しずつ凱と言う国に、いや凱禅と言う男に、不穏を覚え始めた。

 その感情には彼の起した悪鬼のような所業が大きく作用している。

 味方共々火計で焼き払う、これが人に出来る事であろうか。このままではいずれ用済みになった時、自

分も簡単に捨てられてしまうのではないだろうか。花の命は短く、自分もいつまでも美しく保っていられ

る訳では無い。

 そう言った事を考え、法鳴はいつしか不安以上の死期すら想像するようになったのである。

 彼女の部下達も同様であった。言わば敵地に居るだけに、凱の情報は操作される事無く、正確に正確過

ぎる程に彼らにも伝わる。無論、明節も意図して彼らの不安を煽るような真実を、巧みに耳に入れさせた

のだろう(彼らの唯一信頼する法鳴を通して)。

 この世に信頼出来ぬ主君を持つ以上の不幸はあるまい。彼らは凱禅への忠誠心も希薄であるから、法鳴

以上に過敏に反応した。

 それに比べ、明節はどうであろう。

 若くして一地方の太守を務め、大国となった漢の宰相も危なげなくこなし。漢嵩にすら深く信頼され、

一国の王にかの英雄から推された人である。凱禅などとは比べ物にならない。

 そして最も大事な事には。明節がこの国内に居る限り、諜報能力、情報操作能力など、こと情報に関す

る能力で彼に並ぶ者も、敵う者もいないのだ。それは類稀なる諜報団であるはずの法鳴一座ですら変わら

ず。彼らの運命は、明節と言う男に触れた時点で、すでに決まっていたとも言える。

 しかも凱禅の悪い噂、これが紛れも無い真実なのだ。凱禅は自らの手で、自らの腹心にさえ見限られた

と言い換えても良いのかも知れない。

 もし凱禅がこのようでなければ。せめてもう少しだけでも、清廉さと人情と言うモノを解する能力を持

ってさえいれば、法鳴達は裏切らなかったに違いない。その程度の魅力と支配力ならば、凱禅も持ってい

るのだから。

 ようするに、凱には絶対的に安らぎと信頼と言うモノが足りないのだ。

 明節もどことなく凱禅に共通する部分を持ち。冷たさすら感じる程の冷静さから来る、例えるなら危う

さ、と言うモノを感じるのだが。それが逆に凱禅に似ているだけに、法鳴個人の保護欲や母性本能を誘っ

たのかも知れない。

 何よりも、明節はより潔癖である。凱禅に共通する暗さも、言わば陽の暗さであり、恐怖まで感じる程

では無く、まだ何処か救いのような柔らかさがある。或いはそれは、凱禅では無く、かの趙戒(チョウカ

イ)に似るモノかも知れない。

 どちらにしても彼ならば、将来を託しても、きっと裏切られる事は無いだろうと、法鳴達は考えた。

 結局、諸々の複雑な計算の結果、法鳴一座は明節に相互諜報者とでも言うべき存在として、味方する事

を決めさせられたのであった。

 明節に少なからず操作されたのであるから、させられた、と言う方がより正しいと思える。

 この法鳴一座は、当然今までもずっと凱へと無数の情報をもたらしていた。勿論、全ては明節が与えた

情報であり、大なり小なり全て真実の情報である。

 その中にはわざと漢の不利益となる情報も混ぜられていた。どころか、ぎりぎりの危険な情報まで、な

みなみと杯に酒を注ぐように気前良く与えていた。と言う所に、明節と言う男の凄みがある。彼は一座を

掌握する前から、彼らが間者だと知った上で、情報を与えていたのだ。

 こう言う辺り、彼は血統だけで上り詰める他の貴族とは一線を画する。

 おそらくは彼の出自が大きく彼の人格形成に関わっているのだろう。彼は幾つかに分かたれた明と言う

家柄の中でも、当時から最も栄えていた家に生まれたのだが。その家柄は、実は宗家とは程遠い支流の末

であった。

 それが商才のあった先祖のおかげで、明節が生まれた時にはすでに宗家と力関係において逆転し、高い

地位すら買えるまでになっていたのだが。そこにはおそらく複雑な想いもあったに違いない。或いはだか

らこそ、漢嵩と言う夢を託すべき捌け口を、何処までも求めるようになってしまったのだろうか。

 それはさて置き。

 情報を身を切るようにしてまで凱へと与え続けたのは、何もかも凱禅一人を信用させ続ける為である。

 凱禅も愚かでは無いのだが、おそらく自分が騙される等とは想像も出来ないのだろう。疑う事は勿論あ

るだろうが、自分は常に人を騙す側であると、何処か愚人のように信じ抜いている部分がある。そしてそ

の分だけ彼の心は欠落している部分があるのだろう。

 だからこそ、凱禅は今も法鳴の情報を信じている。

 自尊心、自負心こそが彼の最大の弱点であるだろうが。悲しい事に、彼は死ぬまで、いや死んで何度生

まれ替わろうとも、気付く事は無いかも知れない。

 何故ならば、不幸にもこれが彼を形作る上で、根本となる一つであるからだ。それは性格とも言え、彼

そのものとも言えた。これが彼の個性、彼自身である以上、彼が消えてしまわない限り、およそ変る事は

無いに違いない。

「自らが全てを知るなどと、傲慢の極みに立つから、このような事になる」

 明節が凱禅を思う時、一片の憐れみをもたないでもない。

 腐りきったとすら後世で評価されるだろう男ではあるが、あの才は本物であろう。この才をもっと有用

に使えれば、彼と共に歩める者が一人でも居たならば、彼の行く道は変っていたのではないだろうか。

 あの無用の権力欲、出世欲さえ抑える相手が居たならば、きっと変っていた。

 自分に漢嵩や信頼出来る部下と民が居たように。

 しかし容赦はしない。憐れみの数倍、数十倍も勝る嫌悪感があるからだ。

「夢を託す事さえ覚えれば、私のようになっていたかも知れない。確かに知れないが、それはそれだけの

事である」

 最早不要の人間なのだ。せめて最後に一働きしていただこう。

「凱禅・・・・、最後は他人に踊らされて死ね」

 凱禅、この男に救いがあるとすれば、その為に生まれて来たのだと。無慈悲なまでの嫌悪感を伴い、明

節は法鳴の下へと向う。

 凱禅は凱自身に滅ぼされるのが相応しい。

 そしてその最後の時まで、せいぜい盛大に踊り狂ってもらわねばならない。


 漢王となった明節から、正式に妻として王妃として法鳴を迎える旨、全土へと発せられた。

 以前からかの女性と親密である事は広く知られていたが、正式に婚姻を結ぶと言うのは思いきった事で

ある。おそらく漢嵩に血縁が居ない事で、民に余計な不安をもたらした事を悔み。自らは同じ不安を与え

ないようにとの配慮であろうと、民達は噂し合った。

 漢嵩は元々自らの血筋を貴きとして、脈々と後世へと残す事を恥としていたようであるが。明節は本来

の血筋が(明宗家にはとても及ばないまでも)貴くもあり、王家とする野望があるかどうかは解らないが、

初めから妻を得、子を得る事も疑問とは思って無かったようである。

 そして漢の民達は大いにこれを祝い(多分に政治的な婚姻にも思えるが、国民達には関係の無い事)、

賦を滅ぼした事も合わせ、同時に漢嵩の回復も願って、大々的な祭を行う事にした。

 無論、祭られるのは碧嶺こと大聖真君であり、国神の西海白竜王である。

 数日かけて開催されるが、この日に限っては国色である紫の他に真っ白な旗も飾られる。真にめでたく

もあり、賦族の参加も(勿論厳しい条件と監視付ではあるが)認められる事となった。

 広く門は開けられ、誰でも素性がはっきりしていれば、苦労無く出入り出来る。無用心にも思えるが、

漢の度量と警備能力を見せ付ける為には効果的とも言えよう。その為の準備にも余念は無い。

 ようするに明節はこの漢と言う国を多いに喧伝したいのだ。その想いが漢嵩の力を全土へ知らしめたい

と言う、存外子供っぽくも純粋な理由からである以上、多少可愛らしいと思えない事も無い。

 それ以外にも、戦争続きで疲弊した全土の民を、少しでも慰撫したいと言う感情が大いにある。他者を

思いやると言う善政を布く政治家にとって不可欠な美徳を、漢嵩の志を継ぐと公言しているだけに、明節

も多く持っているのだ。

 でなければ、いかに世話になり力を借り受けたとは言え、それだけで責任ある王の地位に推薦する程、

漢嵩は無責任な男では無い。確かに明節には善政家として充分な素養があった。

 これにより、ようやく長年の戦乱から解放されるのだと、多くの者は思い。これによって全国民の意気

もより陽気に回復したように思える。

 そしてその中で誰よりも喜んだのが、他ならぬ凱禅である。

 法鳴は本来彼の腹心であり、凱の間者である事はすでに記した通り。その法鳴が王妃、つまりは国母と

なるとすれば、最早漢は凱の手の内に落ちたようなものだ。明節の愚か者め、我が思惑にこれ以上なく惑

わされてくれたわ、と凱禅は大いに喜んだのだった。

 ようするに彼は心底から、法鳴は未だ自分の手の内に在ると、幼児以上に執拗な想いで、信じ抜いてい

たのである。

 だが無論それだけでは無い。彼一個だけであれば、まだ冷静な部分が多く。その特筆すべき権謀の才を

考えれば、こうもうまうまと明節の手の内で踊る事は考え難い。

 その点、明節に抜かりは無かった。法鳴を動かし、内部にも扇動者(せんどうしゃ)を置かせていたの

である。

 その名、項弦(コウゲン)。多少名の知れた虎の長であるが、その実凱の参謀長にして、天性の扇動家。

玄と当時北守(ホクシュ)と名乗っていた漢との間に、大きな乱を広げた事は、まだ記憶に残る。最も、

その事を知る者は、当人と凱禅他少数の人間のみではあるが。

 項弦は凱に属する者であると言う事を、信頼し合う、凱の参謀官であり項虎の副長である李穿(リセン)

の他、参謀府の部下にも虎の部下にも話していない。それどころか、実は主君である凱禅ですら、項弦に

ついてはよく知らない部分が多くあった。

 真に胡散臭くもあるのだが、その天才的な扇動家としての資質を凱禅に買われ。凱禅がまだ将軍であっ

た頃から、公私共に唯一目をかけていた。当時は国に仕えない純粋な虎長であったから、今の二面性のあ

る生活の下地はすでにあったと言え。逆に言えば、そう言う立場でもあったから、凱禅が目を付けたのか

も知れない。

 であるから、項弦は凱禅が全ての虎の信頼を失った今も、凱に表面上は忠実に仕えていた。勿論部下の

虎達は何も知らず、李穿に伴われて、今は他の地に居る。項虎が何処に居るかは、凱禅にすら明かしてい

ない。

 それが項弦が凱に仕官するにあたって、出した幾つかの条件の内の一つである。

 曰く。

「自分と自分が率いる虎には一切関与しないでいただきたい。李穿共々参謀官としての責務は果たすが、

それで虎長としての責務を滞らせるようならば、この仕事から降ろさせてもらう。勿論貴方にも関与しな

いし、機密を洩らす事もしない。雇用主と技術者、その関係が貴方にとっても望ましいはず」

 言わば主従と言うよりも、凱禅と項弦との秘密同盟とでも言うべきもので。彼が本当は何を思っている

のかは、誰も解らない。勿論、彼が今明節に味方する理由も。

「凱禅様、お喜び申し上げます。これで漢は我らが凱の手に落ちたも同然ですな」

 項弦は今、凱禅の下に殊勝なまでに伏し、主君の機嫌を窺っている。しかしその目は狩人のように鋭く、

まるで凱禅の心が何処にあるかと測ってでもいるかのようだ。

「その通りだ。お前といい、法鳴といい、参謀府の面々は役立ってくれる。流石は我が手塩にかけて育て

た者達よ」

「ハッ、勿体無きお言葉」

「お前にもまた働いてもらう時が来るだろう。その時まで、せいぜい悟られぬよう、殊勝に参謀長として

の責務をやり遂げるように。そして、その時はそう遠くあるまい」

 凱禅はやはり上機嫌であるようだ。彼が部下を褒めるなど、稀に見る出来事と言っていい。

「働きが多ければ、また相応の地位と権能を与えよう。これからも励むが良い」

「ハッ、全ては偉大なる王の為に」

 項弦は誰も測れぬ表情で、深々と礼の姿勢をとった。

 彼の心が何処に在るか。それは誰にも解らない。

 或いは彼自身にも解らないのではないか。




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