2−3.新たなる翼


 漢や凱に不穏が霧のようにかかり始める中、壬国にも一つの動きがあった。

 それは紫雲緋の上将軍への任官である。とは言え、勿論壬の将軍になったと言う事では無い。名義上の、

言わば名誉将軍である。

 そもそも客将として壬が漢嵩に要請し、彼女の身柄を貰い受けたのだが。以前の漢嵩を客将とした時と

は違い。紫雲緋は半永久的にこの地に留まる事になろう。そしてわざわざ要請してまで、こちらが迎え入

れた以上、彼女にしかるべき地位と名誉をこそ与えるべきであり、一国民として置く訳にはいかない(賦

が滅んだ為に、当然紫雲緋の位も全て消失している)。

 人質と変らない立場にあるとは言え、仮にも彼女は王であり大将軍でもあったお方だ。

 それに壬に大人しく服していると大々的に認識させる為には、何かしらの位を与え、名義上だけでも壬

国民の一人であるとしておく方が、おそらく望ましいだろうし。このまま一人の紫雲緋としているだけで

は、どの国家からも浮いた、無所属と言う立場に置かれると言う危惧もあった。

 無所属、これは何とも情けないと思われないだろうか。

 独り立ち出来ている。そう言う意味とも取れない事も無いが、逸れ者、部外者、そう言う感覚の方が強

い。しかも彼女は紛う事無き、伝説の武将、碧嶺下の上将軍、紫雲竜(シウンリュウ)の血を受け継ぐ者

である。

 そんな方を、仮にも碧嶺下の大将軍、壬牙(ジンガ)の子孫と名乗る壬王家が、そのまま放って置ける

訳が無い。それは甚だ失礼極まりない事であり、紫雲緋に対してあまりに惨い仕打ちでは無いだろうか。

 このままでは、折角紫雲緋を迎え入れた意味が無くなりかねない。

 そこで国情が落ち着いた後に会議を開き、壬首脳部は敗将とはいえ、紫雲緋に見合った位を与えたいと

言う結論を出したのだが。如何せん相応しいだろう将軍位に空きが無い。

 大将軍位が空いてはいるが、これは流石に彼女も当惑して受け取るまいと考えられるし、現在では大将

軍と言う地位は、どうにも大げさ過ぎるモノになっている。そして色々な案が出たが、結局、候が良いで

はないか、と言う事になった。

 候、この小王にも似た位ならば、おそらく紫雲緋とも釣り合う。

 だが、肝心の候として与えるべき土地が壬には少なかったし、土地を与えてしまえば他国から苦情が来

るのでは無いか、とは容易に察せられる事であるし(土地を持つという事は、私的な兵団を抱えられると

言う意味もある為)、結局はこれも却下された。

 良い方法が見付からず、もうこうなれば新しい将軍位を創るしかないか、と思われた頃。始まりから今

まで、何やら黙して考えていた上将軍、司譜(シフ)がゆっくりと口を開いた。

 若き頃から戦場で指揮している為、彼の声は大きく、まるで叫んでいるようにも聴こえる。しかし言葉

は明瞭で澱みが無く、決して耳障りの悪い声ではない。どころか、彼が一声する姿は誰が見ても頼もしく、

威厳がある。

「そのような余計な手間をかければ、それこそ紫雲緋殿は恐縮されよう。それよりも席を空ける方が容易

き事と思われる。わしもそろそろ隠居してもおかしくありますまい。法次将には申し訳ないですが、この

上将軍の座を、紫雲緋殿にお渡ししたいと考えております」

 法次将とは、次将軍の法越(ホウエツ)の事である。実力主義のこの大陸において、上が抜ければすぐ

に下から順に繰り上がる、と言う事は無いのだが。それでも法越の能力に問題は無く、本来ならば司譜も

彼に上将軍を受け継いでもらいたい、と考えていたのだ。

 彼に申し訳ないと言ったのは、その事に違いない。

 どちらにしても、司譜の引退宣言を聞いた者達は、初耳だっただけに大いに驚き、暫くは誰も声を発す

る事が出来ないように見えた。

 しかしその中でも長き年月を共に壬を守り立てて来た参謀長、蜀頼(ショクライ)のみは、司譜の事を

深く理解している為に、この言葉にもさほど驚く事は無かったようである。彼ならば言い出しかねない、

そう思って納得出来たのだろう。

 とは言え、突然の言い出しには皮肉の一つも洩らしたく。

「我らが子、孫達の中に、この老いぼれ一人を司譜殿は残して行かれる気かな」

 と冗談めかしく悪戯っぽく笑いながらも、そんな事を言った。

「はは、参謀長殿。貴方もそろそろ引き際かも知れませんな」

「いやいや、まだまだ若い者をびしびしと鍛えてやらねば。そうでなければ、わざわざ苦労して参謀長に

までなった甲斐がありますまい」

「それはそれは良い御役目でございますな」

 司譜も即座にやり返し、老将二人の言葉は場の笑いを誘った。蜀頼は流石に和ませるのが上手い。

「本気で言っておるのだな、司譜よ」

 一頻り笑い合った所で、壬王、壬劉(ジンリュウ)が確認するように問う。その表情は何処か哀しげに

も見える。彼にとっても先代から仕える司譜は、蜀頼と同じく父に対してのような想いを伴うのかも知れ

ない。その司譜が引退するとなれば、流石に抑えきれないモノがあるのだろう。

「ハッ、御意にございます」

 司譜は座したまま、上半身だけで深く礼の姿勢をとった。

 壬劉は暫く司譜を見詰めていたが、やがて頷き。

「だが、まだ暫くは働いてもらうぞ。そなたを壬萩の後見人に任命する。蒼愁ともども、我が娘を支えて

やってくれ」

 そんな事を言った。確かに司譜の力はまだまだ必要であるが、それを言わせたのは、おそらく王の心の

中にこそ、大きな理由があったに違いない。

「・・・・ありがたきお言葉」

 司譜は深い礼の姿勢のまま、人知れず暖かい涙を一滴(ひとしずく)流したのだった。


 こうして壬国に新たな上将軍が誕生した。

 賦族に軍政権は無いから、あくまでも名義上のモノであったが、これには賦族達が大いに慰撫された事

だろう。その点に対しては、他国にとっても良い事であるので、異論が寄せられる事も無かった。

 紫雲緋に対しての不安よりも、賦族全体に対しての不安の方が強い、そう言う事でもあるかもしれない。

 将軍職から退いた事で、司譜はこれからは北昇(ホクショウ)一帯に常駐するつもりのようだ。

 それを考えると、壬国にとっても良かったのかもしれない。常時司譜が北昇に居てくれるのは、とても

心強く、また北昇の民や兵も引き締まると言うものである。

 何せ頼みの蒼愁(ソウシュウ)は何処か頼りなげな印象があった。その能力自体に異論を唱える者はい

ないにしても、どうにも締まらないと思う者も国内には少なからず居るようである。漢嵩が倒れた事もあ

り、北昇一帯の民の心は不安定になっている。今、司譜が居てくれる方が彼らもありがたく思うだろう。

 まあ将軍のような威厳を、たかだか一参謀官である蒼愁に、期待する方が初めから酷であるのだが。今

はこれまで以上に情勢が難しく、そう言った威厳と安心感の方を、強く望まれるのである。

 これによって実質隠居には程遠い立場のままである司譜であるが、何やかやと言いながらも、何処か嬉

しそうな風であった。年老いて益々励む、とは正に彼の為にある言葉だろう。まだまだ情熱の薄れる事の

無き御仁のようだ。

 司譜から位を渡された紫雲緋の方はと言うと、予想通りに大変恐縮したのだが、すでに王の認可が出て

いる以上、断る訳にもいかず。断ればそれこそ司譜の立つ瀬が無い為に、恭(うやうや)しく任官する事

を受け入れたそうだ。

 噂によれば、彼女も淡く美しい涙を流し、任官を伝えた楓仁が何やらあたふたと慌てられ、見ていた者

は後に密かに笑ったと言うが、噂であるからどこまでが本当かどうか、定かではない。概ね噂通りだろう

事は、容易に察せられるとしても。それはそれとして、楓竜将の名誉の為に、黙しているのが壬国民とし

ての義務であると思われる。

 こうして紫雲緋にも公然とした居場所が出来、その扱いが変る事は無いにせよ、その心は幾分救われる

に違いない。紅瀬蔚も賦正(フセイ)も冥府でさぞ喜んでいる事だろう。

 しかし喜んでいられる事ばかりでは無かった。

 賦が滅び、以前は仮想敵国でしかなかった国々が現実の敵となる可能性が高くなった為、警備警戒を更

に強める必要があるし。実際、すでに凱の国でも、壬との境界に居る兵の数が増しているとの報告があり。

漢も何かしらの理由を告げながら、やはり軍備の強化を進めている以上、いつまでも安楽に考えてはいら

れない。

 半ば予測出来た事態ではあったが、やはりまだまだ平和への道は遠いようである。微妙なる緊張感の中、

それぞれの戦意は現在準備段階と言った所で、未だ暫くは一線を越える事は無いにしても、超える時がそ

う遠く無い事は明白であろう。

 壬国内で今一番その不安にさらされているのは、他ならぬ凱方面軍総司令、次将軍、法越であった。

 自らが上将軍になれなかった不満などは微塵も無いが、代わりに凱への不安が彼の心を大いに騒がせて

いるのだ。

 その為、彼は出来る限り対凱拠点である壬南東部の都市、蓬栄(ホウエイ)に居る。

 蓬栄は貿易港である流栄(リュウエイ)から、あらゆる物が運ばれる場所としても有名である。流栄と

言う名が付けられたのも、この蓬栄に物資が流れる、と言う事からであるのを考えても、この都市の重要

性が理解出来るだろう。

 今では単なる防衛拠点としてだけでは無く、輸送の始点、或いは商都としても国内有数と言われ、大い

に賑わっているし、人口も多い。

 そして法越自身、蓬栄の商人出身である事も知られている。市民からの彼に対する信頼は篤く。軍事だ

けでなく、商売の腕も確かであり、言わば壬国の流通も彼が一手に引き受けていると言ってもいい。

 彼ならば財政府、内政府等に行っても、おそらく府長を申し分なく務められただろう。

 その思考も多分に商人的で合理性が強い。かといって笑いや人情を解さない鉄面皮と言う訳では無く。

小柄で太めの丸々とした彼が、見かけによらずきびきびとすばしこく働いてる姿は、えもいわれぬ温かさ

を感じる。

 だがその彼も、彼を見る部下も、今は共に眉間にしわを寄せずにはいられないようだ。

 凱、この国はあまりにも不穏である。

 或いは、賦と言う国以上に。




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