2-4.鋭き頚木(くびき)


 項弦はより深く、日を追う毎に凱禅に信頼されるようになっていた。

 参謀長として王都に駐在する事も増え、より濃密な関係を築き易くなっていると言う事もあるが。最も

大きな理由に、凱禅には他に信頼するに足る部下が皆無であると言う事が挙げられるだろう。

 将軍出身であるからには、必ずと言って良いほど腹心となる副官がいるはずなのだが。彼の生来の性格

からして、他者の意見を容れると言う事は考えられず。実際、彼自身が他人の意見など望んでいない。

 自分の能力のみを信じ、それだけが全てであり。それを脅かすような、凱禅の才を上回る可能性のある

者は、あらゆる手段を用いて必死に排除して来たのである。

 その標的に上下関係無く、将来自分と張り合うであろう存在は、彼自身の栄達の為だけに、追い落とし、

出る杭は全て打ち砕いた。であるからには当然、信頼出来るような、或いは使えるだろう人材が、凱と言

う国に居るはずが無かった。

 そしてだからこそ、彼の政権は成り立っていられる、とも言えよう。政敵が居ない限り、国民に所詮

王も個人であると言う弱さを知られない限り、恐怖政治は磐石(ばんじゃく)に働く。

 まあ例外的に有能な人材として、法鳴が居るが。彼女はあくまで手駒であり手足であって、考える頭脳

としては求められていないし。凱禅は彼女に思考が存在すると言う当たり前の事すら、理解していない節

がある。皮肉にも、それ故、彼女は今まで無事に生かされていたのだろう。

 ともかく凱禅には何かを任すに足る、片腕と呼べる人材が居ない(と、少なくとも彼自身は信じている)。

 しかし一国と言う巨大な組織を、一人で抱えよう等とすれば、どうしても無理が出てくる。今まではま

だ良かったが、賦が滅んだ今、それはより切実な問題となって凱禅を脅(おびや)かす。

 最早賦一国が敵だった時勢では無い。例えば攻めに出ようにも、後を任す者がいなければ、自由に動き

ようが無く。つまりは一方面では無い、多方面を気にする場合。自然の理として、頭脳となる存在も複数

必要になると言う訳だ。

 守りに専念すれば、或いは凱禅一人で事足りるかも知れない。だが、守りに回るだけでは、いずれこの

国は滅ぼされてしまう。壬のような信頼も防衛術も無い以上、先手先手をとって、常に漢を疲弊させなけ

れば。そうしなければいずれ漢は回復し、その矛を凱へと向けるだろう。

 例え法鳴が明節を抑えても、国民達の総意は王でさえも止められない。いや、王であるからこそ止めら

れない。その事は凱禅も良く解っている。

 その時、果たして凱は漢の矛先を凌(しの)ぐ事が出来るだろうか。答えは否であろう。相手は大陸の

三分の二を占める大国家である。疲弊しきっている今ですら、互角に戦えるかどうかは疑わしいと言うの

に、回復した漢に勝てる訳も無い。

 動かなければならない。今までのように、常に王座に座している訳にはいかないのだ。漢に他国を攻め

る余裕を与えてはならない。

 その為にも、有能な人材を得る事が急務であった。凱禅を自由にする事の出来る人材が。或いは凱禅の

代わりとなって働けるだけの人材が。

 ならばどうするか。そう、内に居ないのならば、もう外へ人材を求めるしかない。とは言え、自らの下

に掌握出来ないような存在では、本末転倒である。獅子心中の蟲となれば、自ら身を滅ぼす事になろう。

 そうして凱禅は悩んでいた訳だが、そこに上手く浮上してきたのが、項弦、である。

 彼は本来外の人間だが、現在は内の人間でもある。つまりは虎の長でもあるし、凱の参謀長でもある。

その半分内だと言う安心感、それが悩む凱禅には心地よかったのだろう。それに項弦は言って見れば昔か

らの同盟者。一蓮托生、彼と自分は一つの物だと、錯覚していた部分もあったに違いない。

 虎などは利でいくらでも釣れる。そう言う蔑視の気分もあったのだろう。

 凱禅は油断した。項弦こそが最も畏怖すべき蟲である事に、彼は気付けない。自らのみに都合よく回る

彼の鋭敏な頭脳は、すでに足下を恐怖で固めた今、例え半分でも支配下にある以上、その支配力から項弦

が逃れているなどと、信じたくなかったのだ。

 そう、信じられないのでは無く、信じたくなかった。その表現の方が適っている。

 そしてその都合の良い考えを否定してくれる人物も、今の凱には居なかった。

 だから項弦を信じ、その信頼すべき男が壬侵攻を勧めている以上、彼をより強く掌握する為にも、その

意を汲んでやらねばならない。

 事実、漢が疲弊している今、その方が現実的でもあった。

 ここで疲弊している漢を狙えば良いと考える方も居るかも知れない。しかし忘れてはいけない。漢との

力関係には明らかな差がある。

 それに加え、例え漢嵩が病に倒れ、不安が彼の国を覆っているとしても。凱を攻める事で一致団結し、

更に強大な勢いとなる可能性も大きい。何故ならば、漢の民は不安を払拭する為の捌け口を求めているか

らである。

 窮鼠(きゅうそ)猫を噛むと言う言葉がある。いくら天敵である猫相手でも、後が無いとなれば鼠(ね

ずみ)も死ぬ気になって、牙を剥いて猫に襲いかかる。ようするに、いくら弱者でも、追い詰めれば思い

もよらぬ反撃を行う。大雑把に言えばそう言う意味なのだが。

 この場合は、鼠(ねずみ)が猫を窮させるようなモノである。こんな怖ろしい事が他にあるだろうか。

 そして万が一漢に勝ち、その奥へ侵攻出来たとしても。おそらく壬が凱本土を突いて来るだろう(漢と

の同盟国であるから、これは容易く予測出来る)。そうなれば折角凱禅の国となった凱が、容易く落とさ

れてしまう。凱禅が遠征の徒にあれば、当然支配力は落ちるだろうから、裏切り者も出てくるだろう。

 そこで慌てて引き返そうものなら、得たりとばかりに漢が撃って出るだろうし。そのまま強引に侵攻し

たとしても、敵国に取り残される形となった凱軍は霧散するしかない。

 すると凱禅の恐怖政治から逃れた凱の民は、喜んで敵軍を迎え入れると言う訳だ。

 壬の存在が在る限り、うかうかと漢には攻められない。

 だが、これが漢では無く壬を狙うとしたらどうなるだろう。

 明節も壬に対する思いには、苦いモノもあるようである。そこを法鳴に突かせれば、より容易く漢を抑

える事が出来るだろう。漢の反壬感情もうってつけの助けになろうし、これだけ疲弊し、不幸が重なっ

ているのだから、例え援軍が寡少でも壬に対しての言い訳は立つ。

 であるから、漢が容易く出兵出来ないだろう今、凱はむしろ壬を狙う方が良い。

 勿論不安もある。壬侵攻と平行し、漢にも一つ手を打っておいた方が良いだろう。

「なれば玄よ、玄を上手く使えば良かろう。漢嵩が退いた今、弱まったのは何も軍事力だけではない」

 すでに玄と言う国は漢の一部と言っても間違いはないが。それでも正確にはあくまでも属国であり、玄

と言う名も存在するし、玄王も居る。漢嵩も玄の内情を考慮して、玄王を立てていたとも聞く。

 明節の考えは解らないが、少なくとも漢嵩の生きている間は、玄に手を出す事は無いだろう。

 となれば、この国以上に乱を起すに都合の良い国は無い。

 まったく以前の反乱の時といい、この国はまるで自分の為にあるような国だと。凱禅は一人私室にて、

ほくそ笑んだのだった。

 陶酔しきったその表情からは、自らの野望に心底酔っている感情以外のモノは、何も見えなかった。


 明節はにこやかに笑っていた。

 凱禅の策は全て彼に筒抜けなのだから、その笑いが健やかなのも当然だろう。

 法鳴と項弦を押えている限り、凱はほぼ完全に掌握しておける。これも長い時間をかけて凱禅を信頼さ

せてきたおかげであり、言ってみれば自ら損をした効果であった。

 所謂(いわゆる)、小利を捨て大利を取る、肉を切らせて骨を断つ、と言う法である。

 目先の物に囚われるようでは、何事も無し得ない。それが明節の持論でもあるし、彼の夢の象徴である

漢嵩の考えでもあった。

 今明節は寝室にて法鳴と語らっている。

 多分に政略的であるとは言え、彼個人としても法鳴に好意を持って居ない訳ではない。彼女とならば、

さぞや可愛らしい子が生せようとも思う。それくらいには愛していた。ようするに凱禅よりも彼女を必要

とし、愛しているのだ。

 そしてだからこそ、法鳴も彼の下に就いたと言えよう。時に感情は全てを上回る。

 とは言え、法鳴も単純に愛姫として明節の傍に居るのだ、とは考えていない。彼女は真面目であり、情

報収集や情報操作などの仕事は常以上にこなしていた。

 凱禅は使えなくなればすぐに捨てる。人も何もかもを道具と見ていた。その為に自然、彼女も身を尽く

して働くようになっていったのだろう。

 その事が今非常に役立っていると思えば、明節自身でさえ、凱禅に一片の感謝を思わないでもない。

「予想通り、凱は玄を使うようです。そしてそれは裏を返せば、壬への本格的侵攻を決意した証明でもあ

りましょう。如何致しましょうか、王よ」

「なるほど、良くも悪くも生真面目な事です」

 明節は法鳴の報告を聞き、おかしみを覚えた。

 自らの才を第一と考え、彼女から聞く所によれば、自らを趙深と同等かそれ以上の策士だと考えている、

この策謀好きの凱禅も。結局は趙深(チョウシン)の智謀を記した、軍讖(グンシン)と呼ばれる兵法書

を使っているに過ぎない。

 つまりは教科書通り。凱禅も所詮は趙深の猿真似に過ぎず、振り返って彼を眺めれば、その策に独創性

はほとんどない。

 だからこそ誰よりも上手く趙深の遺産を使っているのだ、とも言えるが。やはり秀才止まりであって、

明らかに天才とは言えないようだ。

 天才とは創り出す者であり、秀才とは誰よりも学び使う者である。

 それ故に如何に有能でも、秀才では底が知れている。いや有能だからこそ、かえって見えるモノがある。

底が見えてしまえば、相手が誰であれ、恐れは生まれない。

 勿論明節も、自分は精々秀才止まりである事は解っている。今の世で天才と言うならば、漢嵩以外にあ

りえない。彼は趙深を越え、碧嶺(ヘキレイ)と並ぶ英雄である。

 漢嵩までいかなくとも、趙深と並ぶと言うなら、凱禅などよりはまだあの壬の蒼愁(ソウシュウ)とか

言う男の方が近い。何でも彼は新たな軍制を生み出したと聞く。たまたまかも知れないが、天才のみが持

つ独創性に近いと言えば、むしろ彼が相応しいだろう。

 凱禅などは高が知れている。まあ、蒼愁なども気にするに値しないだろうが。

「いや、あの狂気には気を付けなければならないか」

「狂気?」

「何でもありませんよ」

 不穏な言葉に反応する法鳴を、あやすように抑えた。

 時折思い出したように独り言を言う癖は、どうやら重役に就いた者の職業病であるらしい。どの国家の

王も重臣も、大抵はそう言う癖を持ち合わせている。幾つかは口に出さないと、考え込んだままでは、何

かが溜まってしまうとでも言うように。

 或いはある程度口に出す事で、考えをまとめる癖が知らず知らず付くものなのだろうか。

 まあ、そんな事はいい。とにかく凱禅などはあの狂気にさえ気を付けていればいい。

「おそらくは項弦を使うのでしょう。ならばある程度は彼に任せます。こちらが口を出せば、機嫌を損う

危険もありますしね」

「承知いたしました、私の王よ」

 明節は頷く代わりに、彼女だけに見せる笑顔で、優しく髪をすいてやった。

 法鳴の機嫌も損ねる訳にはいかない。

 自らの夢を叶える為に、皆にも夢を見せ続けるのだ。




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