2-8.誘い誘われ舞の手に


 凱軍は訓練通り、真っ向から壬軍にぶつかった。

 その動きに乱れなく、鋭く、まるで針で縫うかの如くである。少数同士のぶつかり合いとは言え、命と

命のぶつかり合いであり、その衝撃は凄まじい。

 闘気がぶつかり、弾け、混ざり合い。独特の気配が辺りをすっぽりと包む。血と憤怒と、熱情と闘志が

支配する世界である。凱兵の個々の力量も申し分なく見える。恐らく精鋭中の精鋭を先鋒に置いたのであ

ろう。

 それもまた、独創性の無い兵法の常道であるが。それだけに効果は保証済みだ。

 先陣中腹部で指揮する法越は、敵勢の勢いを見、改めて感心した。恐怖政治に切り替えた凱の軍勢が、

よもやこうも見事な動きを見せるとは思って無かったからである。

 例え行軍は粛々として見事でも、いざ戦いとなれば化けの皮はすぐに剥がれ、一度恐慌に落とし入れば、

すぐにも崩れ去るだろうと言う期待は、淡く消え果てた。少なからず残念に思うが。やはり戦、人の動き

とは予測し難く、安楽に考えていては必ず痛い目に遭うという事であろう。

 法越は気を引き締めた。

 壬正規兵である名高き黒竜とまではいかぬまでも、凱兵は充分に兵士として強い。特に小隊長規模での

連携が良い。この狭い山道は初めての者も居るだろうに、支えあうようにお互いの弱点を補い、前後の部

隊交代の間隔も指示も見事で、まことに突き崩し難い。

 押せば返され、追おうとすれば弓矢が迫る。

 上に凱禅と言う絶対的な恐怖が居るからこそ、逆に下の者達の間に、お互い助け合い協力しようという

連帯感が強く生まれたのかも知れない。

 或いは少しでも気を緩めれば極刑が待つと言う、大きな恐怖心を力と換えて居るのだろうか。

 そう考え改めて眺めれば、何処か凱兵の表情に余裕の無さが感じられない事もない。人間の集中力がそ

う長く持続出来ない事を思えば、いずれ大きな隙が生まれる可能性がある。

 とは言え、現在の状況は壬の方に不利である。

 急襲が失敗したとなれば、ささと引換えした方が無難であろう。何も敵が鋭意盛んな時に、真っ向から

ぶつかってやる義理は無いのだ。

 しかし戦争は生き物、そう思い通りには行かない。

「無理に撤退しようとすれば、こちらの隙を突かれてしまいますな。ならば搦め手でいきましょう」

 法越は伝令を呼び、傍らに控えさせた。

 集中力が極限まで高まっているであろう凱兵の事、少しの弱みも見逃さず、それと見せれば勇んで突き

込んで来るはず。流石の黒竜も、撤退時に襲われては堪らない。後退、撤退、言い方は様々あれど、敵兵

から逃げる離れる事以上に難しい手は無いと思われる。

 逆に逃げる相手を追い散らす、追撃以上に簡単で戦果を拡大出来る手段は無い。追撃は誰がやっても過

不足無い戦果をもたらすと言うのが、兵法者の定説である。

 故に安易に撤退は出来ない。

 ではどうするのか。

 逃げ無ければいい。そう言うと暴論に聞こえるのだが。ようするに実を虚に、虚を実にすべく、同じ退

くのでも、計略にして騙してしまえば良いのだ。

 簡単に言えば、罠にかける。撤退を見越して事前に準備して置き、兵達にも前もってそう伝えておく。

 そうすれば、いざ撤退となっても気構えが違う。罠にかけるのだと言う意志があれば、士気は上がりこ

そすれ下がる事は無い。ここでも肝要なのは、人の気持なのだ。

 気持が守に回れば、いずれ負けてしまう。常に攻めて居るのだと、そのくらいの気持で居た方がいい。

 勿論、その計略の出来如何によっては思惑とは外れ、かえって多大な被害を受けてしまう事もある。こ

れを、策士、策に溺れる、と言う。

 何事も始める前は慎重に慎重を重ねなければならない。

「準備しておいて正解でした。備えあれば憂い無し、この作者に感謝しなければなりませんな」

 法越は機を計る。

 最もそれが上手く活用出来る瞬間、その瞬間を見抜く事が、即ち戦術眼であろう。そしてそれがあるか

らこそ、彼は将軍として立って居られる。

「例の手を使います。各自、散開しなさい!」

 高らかに法越が叫ぶと、次々に各隊長へと伝達され、ほぼ一斉に真っ二つに左右に分かれると、壬兵達

は山道の左右へと駆け出した。

 兵達に躊躇は無い。始めれば打って変わって大胆に、時に慎重さを捨てる程大胆に行動せねばならない

からだ。慎重さと大胆さ、この使い分けの見事さだけが勝利を呼ぶ。

 山道に近い場所は見晴らしの良い様に切り拓かれているのだが、皆転がるようにそこを通り過ぎ、どう

やら草木が生えている傾斜地まで進むようだ。

 驚いたのは凱軍である。

 てっきり砦まで退くかと思っていたものを、一体何処へ行くと言うのか。道もない場所へと、一斉に左

右へと下り始め、面食らった凱の面々は、凱禅すら困惑し、暫し動きが止まってしまった。

「何をしている。追え、追うのだ!!」

 だが流石に逃げる兵を目前にすれば気持ちは固まる。誰かの叫びに反応するかのように、一斉に凱兵達

は各自壬兵を追い始めた。 

 しかし当初の予定には無い動きであるからには、その動きは鈍く。訓練外の行動に、今までのような組

織性は見る影もなかった。


 壬兵はすでに茂みの奥に隠れ、影も形も見えない。

 ともかく急ぎに急ぎ、凱兵達は拓かれた空間を抜け、文字通り転がるように草木の合間へと雪崩れ込ん

で行った。

「ぐわッ!!?」

「うおッ!」

「な、何事だ?」

 するとどうした事か、奇声を上げながらばたばたと倒れ始め、崖とまではいかないまでも、傾斜の激し

い場所であるからには、そのまま遥か下の大地まで転がり落ちて行く者が続出した。

 あれよあれよと言う間に怪我人が山の麓(ふもと)に折重なり、運の良い者の中には途中の木々に引っ

かかる者もいたが、大部分は骨折などまともに戦闘出来ぬ程の怪我を負ってしまった。

 見ればそこかしこに深くはないが穴が掘られている。更に見渡せば、草と草が結ばれているのもあった。

斜面でこんな物に足をとられてしまえば堪らない。その上後から味方が押し寄せる。混乱を招き、怪我人

は益々増えて行った。

 それだけではなく。時には枝がしならせてあり、それが額をまともに、まるで渾身の力で鞭を振うが如

く叩き付けられる者も居た。

 その最も運悪いであろう者達は、脳震盪(のうしんとう)を起し、何も抗う様子なく転げ落ちて行く。

死者の大部分は味方の下敷きになって押し潰された者か、このように意識を失ってそのまま冥府へと落ち

込んで行く者達であっただろう。

 開戦前に法越が準備していたのはこれであったか。確かに凝った仕掛けでは無く、子供の作るような罠

ではあるが。この地形では効果絶大。面白いほどに敵兵は引っかかり、落ちて行く。

「わ、罠だ。ひ、引き返せ!!」

「ひィ、た、助けてくれ」

「ま、待て、置いていくな」

 少しは冷静な者が、辛うじて後退を指示するが、そう簡単に止まれる訳も無く。各々飛び出した為に、

兵力が分散されていたから良かったものの、下手をすれば一部隊丸々麓まで落とされていたかも知れない。

 それでも暫くすると落ち着きを取り戻したのか、皆徐々に山道へと戻り始めた。ともかく此処に居ては

不味いと、必死で坂を駆け登る。

 するとそれを狙い済ますように、木々や草むらに隠れていた壬兵が弓矢を放った。矢が当ればまた周り

の凱兵を道連れにして落ちて行く。混乱はますます極まり、最早壊走(かいそう)の態であった。

 壬兵達は自らの庭のように、辺り一帯を熟知している。逃げる敵兵を射るだけで追おうとはせず、木々

に引っかかっていた兵を蹴落としながら、見付からぬようにすっと茂みの中へと消え去ってしまった。

 凱からすればまるで森林の亡霊とでも戦っているかのよう。混乱した兵が山道へ戻ると、もう二度と再

び追跡を申し出る者も、反撃しようと行く者も居なかった。

 これに腹を立てたのが凱禅である。

 聞けばこけおどしの策。児戯に等しい罠。そんなものに例え全軍から見れば少数とは言え、してやられ

るとは彼の性格から言って、耐えられる事では無かった。

「ええい、下らぬ事に構っておるから、こう言う目に遭うのだ。攻城塔を組み、さっさと砦を落としてし

まえ! 砦さえ崩せば、壬などは容易く落ちるのだ!!」

 凱禅に逆らう事など出来るはずもなく。各隊長は兵を宥(なだ)め、或いは畏怖させながらまとめあげ、

攻城準備に専念させようとした。

 するとそこへ再び茂みの奥から矢が放たれ、次々と凱兵へと突き刺さる。凱禅は更に怒りを燃やしたが、

しかし兵士の中にはもう壬兵を追おうと思う者は居らず、ただ黙って矢を防ぐしかなかった。

 このように凱兵は一日中脅かされ、結局は攻城塔の組み立てもままならず、何も出来ずに時間だけを過

ごす事になってしまったのだった。

 夜も安心して眠れず、ほとんどの兵が見張りでも無いのに夜通し起きていたようだが、その頃にはすで

に法越達は砦へと戻って疲れを癒している。

 死傷者は千名に上るか上らないか、それも軽傷者の方が多いと言う戦果ではあったが。まことに鮮やか

な手並み、少数の兵と地の利を活かす事にかけては、黒竜に並ぶ兵は居ないであろう。

 そして山地での戦いであれば、建国以来黒竜に敗北は無い事もまた、確かな事実であった。

 こうして凱兵の士気と集中力は地に落ち、凱禅の憤怒は天を貫く程に高まったのである。 




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