3-11.天賦決す


 岳把は狂喜していた。

 自らの為に、自らに従って全てが動く。これほど彼を高揚させる瞬間は他に無い。最後の凱王となった

凱禅と似、彼も自分の理想のみを追いかける心を、強くその身に宿しているようだ。

 勢いに乗った岳把を止められるモノは無く、一度崩れた重兵団は誰にも立て直せる事は出来ない。

 趙家の孫を、趙家の祖の策で破る。これこそ彼が望んだ結果であり、そもそもそうなるべき結果であっ

た、と彼はようやく満足を覚えている。一敗した屈辱も晴れ、彼の名誉も回復した。

 今は去っている兵達も、岳把の戦勝を聞けばすぐに戻ってくる。何事もなかったように、これまでと同

じように、彼の野望は順調に進んでいくのだ。

 まずはこの勢いに乗って黒双を落し、領土を得て王になろう。いずれは項弦、そして趙戒さえも下して

みせる。自分ならばそれが出来る。いや自分がやらなければならない。

 自分こそが碧嶺を越える英雄、いや神となるのだ。

 これが岳把、これぞ岳把だと、何度も高らかに叫ぶ。まるで世界にとって重大な何かを宣言でもするか

のように、馬上にて純然と猛っていた。

 天機兵も彼の感情に乗って進む。その勢いに引き摺られたと言ってもいい。

 彼らも長年虎をやり、功名の立て所には誰よりも敏感である。重兵は崩れ去り、軽兵も右往左往してい

るこの好機を逃すようでは、虎とは言えまい。

 しかし天は彼らに長く恩恵を与える事は無かった。

 空が俄に曇るかのように、岳把の光もそれが発された時と同じように、一瞬にして薄れて消えてしまう

事となったのだ。

 現実は禍々しいまでに容赦なく。時に人は、為すがままに振り回されるしかない。そして勢いを失った

人間は、勢いに乗って押し上げられた場所から見る間に落ちて行く。

 誰も止められず、誰も救えない。勢い、それはそれでなくては受け止められず、重力にも似た、代用の

利かぬ純然たる力である。つまりは天であり、神、そして運命か。

「天機将、後方に敵影が見えるとの知らせがッ!」

「馬鹿なッ! 何処から敵が来ると言うのだ!」

「それが・・・・どうやら敵大将の率いる軍勢らしく・・・。ともかくこのままでは」

 岳把が腹立ちと共に後ろを振り返ると、確かに軍影と砂埃が見える。

 掲げる旗は他の壬兵と同じ。援軍でも伏兵でもなく、初めからこの戦場に居た部隊という事だ。しかし

いつの間にあんな所へ行ったのか。初めから挟撃をする為に重兵を囮とし、彼らに意識を集中させた上で、

自らは後方から天機軍の横背を狙うべく、密かに迂回していたというのか。

 岳把は掌の上で踊らされていた。とすれば、馬鹿にされるにも程がある。

「この岳把が誘われたと言うのかッ!!?」

 岳把は激昂した。

 車がかりも横背を突かれれば弱い。いや陣形からして縦に伸びやすく、むしろ格好の餌食であろう。

 必殺の策も手の内を読まれれば、単に五千の兵が在るだけでしかなく。五千の兵でしかなければ、二万

の壬軍に勝てる訳が無かった。

 急いで対処せねばならないのだが、岳把の怒気は頂点に達し、思考という言葉すらすでに無く。形振り

構わずに新たな敵影へと突撃の命を下してしまった。

 冷静さは失われ、今までの高揚感も見事に消し飛んでいる。あるのは恐怖と屈辱の裏返しである、怒り

の感情だけであった。

 今まで勢いに乗り重兵へと意気揚々と向っていたのである。それがいきなり反転して別の兵団を討てな

どと、人間に出来得る事ではない。勢いも力であるからには、向う方向というものがある。どれほど勢い

に乗れていたとしても、その方向からずれてしまえば力を失い、自らだけで進んでいるのと変わらない。

 それは勢い、流れから降りてしまうと言う事だ。自ら、全ての勝機を捨てて。

 そんな愚かな命を下す将はいまい。だが今の岳把に正気を保てと言う方が無理な話であった。彼の視界

には新しい敵影しかなく。元々誰が何を言っても、聞くような男ではない。

 仕方なく兵達は従おうとしたが、無理に方向を転じ、横背を突かれているという恐怖もあり。陣形は見

る間に崩れ去り、皆ばらばらで最早軍隊とも言い難い姿になってしまった。

 こうなれば統制された組織ではなく。単に個々が集まった集団である。

 縦に長い軍勢が、大きく旋回しつつ方向転換するのならまだしも。急激に速度を落し、例えるなら直角

に曲がるかのような曲がり方をしたのだ。こうなるのも当然と言えば当然の結果だった。

 慌てた兵の中には、馬に振り落とされる者、転倒して仲間に踏み付けられる者まで出。恐怖が巻き起こ

り、大半の兵は戦場で個々に迷走してしまっている。何処へ行くのか解らず、何処へ向っているのかも解

らない。

 流石に岳把自身は何とか方向転換したが。彼と共に新たな敵影、蒼愁率いる竜兵団、に向かえたのは千

にも満たない数だった。勿論、彼らも未だ現実と思考の中を迷走している。

「見よ、大参謀が勇んでおられるぞ! 我らも負けてはおられぬ、奮え、奮えいッ!!」

 この好機を壬軍が逃すはずはなく。司譜がここぞとばかりに自慢の大声で鼓舞し。

「ここで奮わねば、武人の名折れ。貴方達も勇名高き壬の兵ならば、今こそ力を見せなさい!」

 司穂が猛り叱咤する。

 崩れた天機軍へと軽兵が矢を撃ち込み、狼狽する天機軍を指差し、各隊長が声を張り上げて統率力を取

り戻し。

 後衛に控えていた予備兵五千がようやく到着して重兵に混じり、まるで押し上げるように混乱を解き、

統制を回復させた。

 重兵が追い返し、軽兵が弓矢で退路を塞ぐ。怒声、悲鳴が交差し、危うい所であったが、戦況はまたし

ても大きく変化したのだった。

「焦る事はありません、敵将を良く引き付けてから包囲するのです。いつも通りにやれば上手く行きます。

深呼吸して落ち着きましょう」

 そんな中、一人蒼蒼だけが落ち着き払い。この状況でおかしくなられたのではないか、と味方兵達です

ら思う中、いつもの良く解らない表情のまま岳把が孤立していくのを待っている。

 実は未だ岳把と竜兵団との距離は遠い。車がかりを持ち出され、迂回は出来たもののあわや遅かったか、

と思った矢先に天機兵の方から発見してくれ。密かに安堵を覚えていたのは、他ならぬ蒼愁の方だったの

である。

 表情には出さないが、内心は彼が一番驚いていた事だろう。岳把の才は伊達ではなかった。


「全軍、重軽兵と連携を保ちつつ、敵将を包囲殲滅せよ!」

 充分に岳把を引き付けた上で、蒼愁が命を下す。

 竜兵五千、特に選び抜かれた精鋭部隊であり、虎の子と言ってもいい。どの兵も個々に優れながら連携

もとれ、器用に動ける者のみが配置されている。

 竜兵こそが勝利の要。軽で牽制し重で攻め、最後に竜で止めを刺す。軽、重、竜、この三軍を用いる事

で、初めて蒼愁の軍制は完成する。

 蒼愁の命に従い、竜兵団は機敏に動いた。

 均等に三つに割れ三列縦隊となり、そのまま左右の部隊が岳把を威嚇するように遠巻きに包囲しながら

背後で合わさり、退路を塞ぎながら岳把を敵本隊から完全に分断し。敵本隊から岳把を救援に向う兵には、

各隊号令しあって余力のある部隊を迎撃へと回す。

 こうして完全に包囲を完成させてから、徐々に輪を縮め、全方位から締め上げるように岳把を威圧した。

 見事に各々の役割が果されている。しかも演習通りでなく、きっちりとこの状況に応じ、指示されずと

も自ら最も効果的な戦法を取った。

 竜兵に必要なのは応用と創意工夫であり、その点皆申し分ないと言えるだろう。蒼愁が自らじっくりと

鍛錬させた成果も充分に出ていた。彼らは戦場で陣形を自在に変化させられる。

 後は蒼愁が竜兵を投入する機を外さなければ、自ずと勝利は生まれよう。今回は運の要素が強くなって

しまったが、経験を積めば理想に近づけるだろう。

 岳把は正に袋の鼠。怒りに我を忘れていた彼も、流石に肝を冷やされ冷静さを取り戻した。

「こんな事が・・・・、兵達がもっと我が意に従いさえしていればこんな事には。私の策に間違いは無か

った。私が負けた訳ではないッ! まだ諦めぬ! 例え大勢決したといえど、敵将の首さえ獲れれば私の

負けではない」

 しかし流石というべきか、気性の荒い男である。岳把は怖気付くどころか、むしろ更に速度を上げ、大

将を討つという僅かな可能性に賭けた。

 彼の自信を折り、敗北を認めさせる事は、或いは彼が死しても不可能であるかもしれない。

 すでに包囲が完成している以上、無きに等しい可能性ではあったが、諦めの悪いところが岳把の長所で

もあり、最大の短所でもあったろう。

 そして彼は叫ぶ。

「大参謀とやら、名前は立派だがいつまでそんな所に居るつもりだ! 他人に任せて自らは引篭もり、貴

様こそ真の土竜よ。賦族にさえ劣るわッ!!」

 しかし壬の軍営は身動ぎもしない。冷静に包囲を狭め、岳把の命運を確実に絞り消す。

 挑発され、怒りを覚えないではないだろうが、それでも私を殺し、あくまでも公、つまり兵としての自

分を保っていた。それこそが彼らの最も大きな力であり、蒼愁が他に誇れる唯一最大の武器でもあった。

 私人でも死兵でもない、単純に務めを果すだけの兵。淡々と進め、確実に目的を達する。軍勢というよ

りも、最早職人と言った方が良いかもしれない。蒼愁はその心得をまず教え込む事に全力を注いだ。

 怒りも悲しみも恐怖さえ持って良い、人の心に在って当然である。しかしその心はそれとして、戦場で

は感情を切り離さねばならない。他ならぬ自分の為、そして家族や友人の為に。

 私を捨てる事だけが、短期間で軍制を完成させられる唯一の手段である。そしてそうであるからこそ、

全てに置いて人間の持つ力を最大限に発揮させる事が出来る。

 何ものにも振り回されず、己の眼でのみ遥かに見渡す。感情も自ら生むもの、自ら制御できないはずは

ない。全てを堪え、全力で進むのだ。己が生み出す全てを、己の力とせよ。そしてその報いは誰一人欠け

ず、必ず得させる。

 公私を別し、賞と罰を明らかにする。これが蒼愁が基礎とした理念であった。

 だがその理念が岳把に解るはずがない。

「卑怯者めが! 正々堂々、我と立ち会えッ!!」

 本来参謀や軍師に一騎打ちを挑む方がどうかしているのだが、それでも岳把にはそれしかなく。最後ま

で憐れな程に挑発し続けるしかなかった。最早意地であろう。

 とはいえ、岳把も本当にそれが成るとは思ってはいまい。

 勝敗のすでに決したこの場面で、大将自らが一騎打ちを呑む訳が無いのだ。岳把の心には絶望が満ちて

いた。高揚も消え、怒りも燃え果たし、最早縋(すが)るものは意地だけである。

「受けよう! 私は壬軍大参謀、蒼愁。何処からでもかかって来られよ!」

 だが岳把の絶望を無視するかのように、蒼愁は不思議と一騎打ちを受けてしまった。

 前方を包囲する竜兵が分れ、その間から騎乗した男が現れる。その身には鮮やかな蒼い衣をまとってい

た。紛れも無く、蒼愁その人であった。




BACKEXITNEXT