3-2.永遠の名


 壬国北西部にある都市、北昇(ホクショウ)。碧国誕生の驚きはすでに此処にまで伝わっている。

 しかしこの報に最も驚いたのは、壬萩(ジンシュウ)でもなく、蒼愁(ソウシュウ)でもなく、司譜(シフ)

でもなかった。

 最も驚き、ある決意を固めさせられたのは、不思議と思われるかも知れないが、蒼愁の母、蒼瞬(ソウシ

ュン)だったのである。

 彼女は珍しく慌しく行動し始め、息子にも早急に帰るようにと使いを出した。

 結果として、連鎖して驚かされる破目になったのが蒼愁である。母の性格はおっとりのんびりと言った言

葉が最も相応しく。何事が起こったとしても、あらあらまあまあと通り抜けてしまうような、そのような女

性なのだ。その母が慌しく息子を呼ぶなど、蒼愁の人生でも初めての経験であった。

 それに理由がまったく解らない。父、蒼明(ソウメイ)は健在であるし、彼ら家族には他に親しい親類が

居ない。父方も母方も、どうやら少子短命の血筋であったようで、お互い兄弟も居らず、祖父母達もすでに

他界してしまっている。

 一体何があったのだろうか。まさか見合い話を城内にまで持ち込む訳もなく、蒼愁にも何かしでかしたよ

うな心当たりは無い。

 それだけに不安を覚え、公務もそこそこに、慌てて家へと戻った。便利なように引っ越し先は城の近くに

したから、帰宅するのに時間はかからない。壬萩に断りを入れるのを他人に任せてしまったので、後で彼女

の機嫌を損ねる事になるかも知れないが、ともかく家へと急いだ。

「母上、一体何があったのです!?」

 そして戸を開けるなり、吼えるように母へ問う。勿論、入っていきなり居間がある訳がないので、彼の眼

前は見事なまでに無人ではあったが。

「愁、お行儀が悪いですよ」

「あ、・・・申し訳ありません、母上」

 するともしや急病か、とまで不安を覚えていた母に、常と変らず柔らかに微笑みながら窘(たしな)めら

れてしまった。それどころではないでしょう、と怒っても良い場面なのだが。確かに行儀が悪かったのと、

いつもの癖で、丁寧に謝りながら生真面目に辞儀を正す蒼愁。

「只今戻りました、母上」

「はい、疲れたでしょう。足を拭いて、早くお上がりなさい」

 礼の姿勢をとり常と同じく帰宅の挨拶を述べると、やはり母はいつものように暖かく出迎えてくれた。今

の自分はとてもおかしいのではないだろうか、とは思いながらも、そう言えば母はこういう人であったと思

い直し。彼の為だろう、すでに用意されていた湯桶で汚れた足を洗った。

 清潔になった足で上がり、足音を無闇に立てないよう、品良く母の下へと向う。

「母上、火急の用とは何でありましょう?」

「その事です。驚くかも知れませんが、しかと聞きなさい、愁。でも所帯を持つ時がくれば話そうと思って

いましたのに、まさかこういう風に伝える事になるなんて、母は思いませんでしたよ」

 暗に(暗でも何でもないのだが)蒼愁が妻帯しないのを嘆いているのだろう。始めは少しきつく見られた

ような気もしたけれど、蒼愁が真面目な顔で姿勢良く座るのを見て、ぽつぽつと本題を話してくれた。

 そして母の話は、今までの雰囲気をも全て飲み下し、蒼愁が思わず我に返る程に、驚愕の話だったので

ある。

「私の産まれた時の姓は、趙と言いました。勿論隠し名でしたけれど・・・」

 趙、それは即ち史上で唯一趙深の血筋のみが持つ姓。始祖八家ではないはずの趙家が何故一つなのか、

その理由は解らない。趙深が作った姓なのか、或いは何か意味があったのか。まあ、それは今はいい。

 ともかく趙と言う姓で解る事は、蒼瞬の家は趙の血を受け継ぐ、即ち趙深の子孫だと言う事である。

 だが趙戒と言う存在が居るように、趙家は賦族に守られ、趙戒以外の一族が今も賦族と共に居る事もまた

事実である。

 一つしかないはずの趙家、それが何故二つあるのだろうか。しかも隠し名、つまりは世間に隠してまで残

した。これは異常と言ってもいい。

この大陸には血統信仰に似たモノが根強く残っている。名声などを重視する事も、あるいはその事に関係し

ているのかもしれない。

 それなのに、わざわざ隠す。誇るべき趙深の血統を隠す。まったくもって意味が解らない。そこまでする

のなら、改名すれば良いではないか。

 しかし彼らには、改名出来ない、改名するべきではない理由があったのである。

 その訳は趙深の子にまで遡(さかのぼ)る。

 趙深に子が二人居た事は有名な話で。その長子が後に隠棲した趙深を追い、共に生活しながら軍讖(グン

シン)という父の話と、父に関する伝聞を基に書き上げた兵法書を完成させた事は、以前にも何度か記した。

 そして趙深の次子が賦に残り。今に趙戒が存在するように、賦族が大切に彼の血統を守り、趙深の遺志(趙

戒が破った、政治や軍事に関わらない誓い)を受け継がせた事も記したと思う。

 そこで思い返してもらいたい。趙深が隠棲した場所が、他ならぬここ壬国に在る、今は趙庵(チョウアン)

と呼ばれる町の辺りだと言う事を。

 即ち、母が趙深の長子の子孫と言うのである。他ならぬ、蒼瞬が。そしてその血を継ぐ蒼愁が、暦とした

趙深の孫だと言うのだ。

「そ、それは・・・・」

 蒼愁は唖然とし、揺れる心で母を間が抜けたように眺めるしか出来なかった。

「信じられませんか。そうでしょう。しかしあなたに渡した蒼き衣が何よりの証明です。あれは趙深様が碧

嶺様から譲られた、この世に二つしか無い品。もうあの色を出す技術も、何百年も清々しく保つ素材も、何

もかも残ってはおりません。碧嶺様はただ趙深様だけの為に、あの染物を生み出したそうですから、後に伝

える気も無かったようなのです」

 だがそう言われても、蒼愁は何も言えない。極端に言えば、実母から突然、貴方は実は饅頭です。とでも

言われるような心地かもしれない。

 何しろ自分が正真正銘今にも伝えられる英雄の子孫などと、言われて理解出来る訳が無いし。例え本当だ

としても、冗談にすら聴こえまい。

 しかしそんな息子に止めを刺すかの如く、母は柔らかな声で遠慮無く続ける。

「愁、呆けるのはまだ早いですよ。大事なのはこれからです」

 蒼愁はにこやかに笑う母の顔を前に、得体の知れない恐怖に似た感情を覚え、いつまでもこの母に勝てな

いだろう理由をはっきりと悟ったのだった。

 物差しの幅が違い過ぎる・・・、と。

 お主も充分人と違うぞ、いやお主の方が違ってるから母御と合わないのだ、などと、もし壬萩が聞いてい

たら、そんな風に言ってくれたであろうけれども。


 蒼愁は現在、書庫に納められた書物を、黙然と読み耽る事に全ての時間を費やしている。

 これは彼の父が母の父から受け継いだモノで、後世、碧嶺蔵史と呼ばれる事になる、碧嶺が残した現存

する唯一の歴史書である。

 彼が死ぬまで微細に渡り日記したものから、一勢力の主となり、その生きた記録を歴府(歴史として残

す為に、様々な事を偽り無く書き記す為の機関で、人類の宝とも言える機関)が記したものまで、全て揃

っている。

言わば碧嶺の生涯全てが、この書物に記されているのだ。

 更に趙深遺文と呼ばれる、趙深自らがその生涯を書き残した日記と、なんと軍讖の原書と思われる本と、

全ての書物の写し、また民間記録のような物までがあった。

 この書物の数々が碧嶺とその国家、及びその時代についての研究に、後世どれだけ福音をもたらした事か。

この書物が無ければ、碧嶺達も単なる伝説の類だと思われ、作り話で終わっていたかもしれない。

 そう言う意味でも、蒼愁の果した歴史的役割と言うのは大きいのだが、これも今は関係無いので置いておく。

 それよりも、何故このような書物が彼の前にあるのか。

 簡単に言えば、趙深が碧嶺の意志と歴史を改竄(かいざん)されないよう守るべく、全てを擲(なげう)

って、これら全ての記録を持ち出し、密かに逃げたからである。

 勿論、趙深が他の碧嶺の遺臣達が争い、或いは利用されている事を嘆き。また、それを止められない自分

を悔いて、せめて自分だけは利用されぬよう逃げ出した。という、今に伝えられる話もまた、それはそれで

事実ではある。

 ただ、悔いて隠棲したというだけではなかったのだ。彼が全てを捨てて逃げた理由の一つは、この碧嶺

の残した歴史を守る為であり、だからこそ家族にすら別れを告げて、単身このような北の果て近い山奥ま

で来。そこで少しでも状態を良く残す為に、原本とは別に彼自身の手でその写しを年々書きながら、一人

隠棲する事を誓ったのである。

 彼もそう言う使命が無ければ、おそらく家族と共に賦族へと身を任せていただろう。

 そしてそこへ幸か不幸か、彼の長子が成長して現れ。その長子に碧嶺と自分の遺志を託し。更に長子の子

孫達が門外不出として彼らの遺志を受け継いでいき、現在の蒼瞬、蒼明に至る。と、そう言うことなのである。

 だからこそ隠し名が必要だったのだ。その名を知られてはならず、しかし忘れてはならないと、永遠の使

命を継ぐ為に。

 原本は原本として残しつつ、その古くなった写しを正確にこの一族が写して来た為に、書物に書かれた内

容はとても良い状態で残っており、細部までしっかりと理解出来る。古くなった写しもその都度焼却してい

るから、蔵書が増える事も、他にもれる事も無かったようだ。

 趙深も並々ならぬ意志で隠棲したのだろうが。八百年近くもこんな事を真面目に続けていた彼の一族もま

た、大したものであろう。尊敬をも上回る感情を覚える。

 こうして蒼明が今この書物達を受け継いでいる訳なのだが、実は秘する事を止め、世間にこれを公開する

事を考えているのだとも、蒼瞬は蒼愁に話した。

 蒼愁が今読む書物も、世間一般に伝える為に、蒼明が毎日写しとは別に少しずつ現代語に直していた物で

ある。聞けば、こうする事は蒼瞬、並びに彼女の父、つまりは蒼愁の亡き祖父の遺志であったらしい。

 祖父は幼少の頃より、自分達だけがこの貴重な書物を独占している事を嘆き、それはまた碧嶺や趙深の遺

志とは違うと考え。秘すのではなく、彼らの伝えたかった歴史を、長く時が流れた今こそ、その全てを大陸

人賦族問わず、全ての人々に伝えるべきだと考えていた。

 何しろ、今に伝わる碧嶺達の歴史は、祖父からすれば曲げられ、英雄の名を利用する人々に都合よく解釈

されている事も多く。それ故に国毎に伝承も様々で、下手をすればまったく事実と反している事が伝えられ

ている事もあった。

 碧嶺、趙深が望んだのは、成功も失敗も、善行も悪行も、汚れなき真実を後世に残す事であり、この状況

を必ず嘆いているはずだ。

 しかし他の家族と祖父の意見はまったく違い。何度申し上げても、曽祖父は頑固としてこれを秘す事を望

み。結局、祖父の代には成し遂げる事は出来なかった。確かに祖父の代には、まだ少し早かった、という事

はあったかもしれない。

 壬国の誕生した頃でもあり、おそらく趙庵辺りは相当慌しかった事だろう。

 だが現在の蒼愁の代は違う。確かに未だ戦乱が続いているが、漢という大国家も生まれ、賦も滅び、よう

やくこの八百年の戦乱が終焉に向っているように思われる。そして天も人もそれを望んでいるはずだ。

 おそらく碧と言う国が最後の障害となるのではないだろうか。

 その今、現在ある全ての国家が理想とする碧嶺の真実を伝える事は、これは大いに意味がある事と思われる。

 即ち、蒼瞬の言いたかった大事な事とは、この事でだった。

 そして蒼愁はその重みを理解すべく、全ての書物を読破する事を急いだ。全てを知る、全ての遺志を受け

継ぐ、それを自らの使命と悟り、その使命を遂げる為の第一歩として。




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