3-4.信と義


 紫雲緋の謀反(むほん)。そんな事を趙戒が述べるままに信じる者は、ほとんど居なかった。

 ありうる話ではない。いや、あってはならない。どう言い表しても、言い過ぎる事はないだろう。

 だがそうは言っても、どうしても不穏は巻き起こる。例え根も葉もない噂でも、時に事実と塗り変えら

れてしまう事がある。

 ありうる、ありえない、そんな事は本当はどうでも良い事なのかもしれない。全ては人が決める事であ

り、人がそう思えばそうされてしまう。思い込み、信じ抜く、語感に差がある言葉だが、実際には同質の

意味を示すのだろう。妄信も信頼も同じ所にあるモノなのだと。

 人というモノが安定を常に欠き、何か生きてる事態が罰なのではないかと思わされる程に、誰もが危う

さを秘めた動物であるからには、これも当然の事と言えるのかもしれない。矛盾ではなく、結局全ての事

象は、左右どちらに傾くのか、それだけの差なのかもしれない。

 全ては同じモノでありながら、それを変えるのはただ人間のみであると。

 ありえないと信じる事であっても、しかしひょっとしたら、そう思うだけで人間は疑心暗鬼にかかって

しまう。決して信じていない訳ではないが、不安なのだ。心は常に欠けている。

 そしてそれが趙戒の狙いなのだろう。彼は他国家同士が結び付き、その繋がりを強める事を怖れ、その

絆とでも呼ぶべきモノを断つ事に、重点を置いているように思える。

 人の繋がり、これこそが国の、いや人の力であるのだと、彼は確信でもしているのかどうか。

 とは言え、壬国にはこの手段は無力であった。誰一人疑う者すらなく。誰かがそのような噂を耳にした

としても、怒りも怒鳴りもせずに、ただ驚くだけであった。お前は気でも狂ったのではないかと。それく

らい彼らは純粋に紫雲緋を、いや賦族の信義を信頼している。

 何せ壬国民が今ここに居る事、それ自体が彼らが信頼に足る事を、明確に証明しているのだ。

 大昔の恩を返す為に、本当に恩人の子孫かどうかも解らない者相手でさえ、彼らは最も勇猛な将軍を惜

し気もなく与えてくれた。その将軍、紫雲雷(シウンライ)の活躍は今更言うまでも無い。壬にとっては、

賦族である、その事実だけで充分であろう。

 だが他の国家はそう簡単ではない。

 漢と玄、これは意見が分かれる所である。ほとんどが信じ、また馬鹿げた事だと笑ったのだが。その実、

何処か皆不安を覚えてしまっていた。もしかしたら、もしかしたら。その思いが何処か拭い去れないようだ。

 結局、多くの大陸人は賦族を信頼できないのだろう。賦族に対する侮蔑の心もある。

 或いは、嘘を公表したであろう趙戒。その趙戒も言わば賦族。であれば、賦族が心変わりしてもおかし

くないのではないか。今までがそうであったからといって、これからもそうであるとは限らないのではな

いか。そのような疑心があったかもしれない。

 そもそも趙戒と虎が結び、碧を建国した事自体がありえない話なのだから。

 すでにありえない事態が起こっている以上、これからも起こると考えた方が自然ではないか。それに賦

族にとっては、確かに賦国復興の大きな機会である。これぞ天運とばかりに心が傾いてしまっても、人間

としては不思議ではない。

 無数の不安が疑心を生む。

 それに言わば碧国は紫雲緋と白晴厳を捕虜にしているようなものなのだ。この二人を使えば、もしかし

たら賦族を動かす事も、不可能ではないかもしれない。

 今の賦族に、指導者となりえる者はこの二者しかいないと思えば、思いあまった賦族が何をしでかそう

と決意したとしても、何ら不思議は無いと考えられる。

 今日明日にと、すぐにそんな事が起こりうるはずもないが。この状況が一月二月と続いていけば、不安

と苛立ちでどう考え始めるか解らない。

 しかし賦族とすれば、これは心外な考え方であったろう。彼らは例え紫雲緋や白晴厳が殺されたとして

も、蜂起する事は無い。これだけははっきりと言える。

 何故ならば、そうする事が賦族に対して、死よりも重い、最大級の侮辱であり非礼になるからである。

そんな事を同胞にさせるくらいならば、二人は自ら進んで死を選ぶ。だから賦族としては絶対にそんな事

は出来ないのだ。

 紅瀬蔚の時のように、賦族の未来を護る為だと思えば、また変ってくるのだが。脅されて屈するなど、

そんな事は決して行うまい。そんな事をするくらいなら、賦族は一人残らず自決する。

 そう言う風に八百年近くも育ってきたのだ。今更理由なく心変わりする事は、決してないだろう。

 とは言え、漢や玄に理解出来るかは、また別の話。賦族ではなく、また賦族に対して友好的でもない彼

らとしては、壬国のように一心に信じる事は難しい。

 趙戒は疑心の種を撒くだけで良かった。種さえ撒けば、後は勝手に育ってくれる。どのような花が開く

か、或いは途上で枯れるのか、それは解らない。解らないが、碧を利するという事だけは解る。

 そこにはもう、紫雲緋や賦族に対する思いやりや誠意は感じられない。

 滑稽な事に、趙戒は他ならぬ紫雲緋や賦族の為にと想いながら、その中の誰一人として望んでいない道

を進んでいる。けれど罪悪感はない。恥とも思わない。自分のやる事は正義であり大義である。いつの間

にか理想が自己満足に変わってしまったのだろう。

 迷惑なだけの善意。或いは自己満足からの勘違い。目的がいつの間にか自らの欲望に変ってしまい、清

廉な情熱と使命感だけが残ってしまう。それは最も忌むべき事である。自覚のない悪行こそ、最も怖れ、

最も警戒するべきモノであろう。

 人は決して自分を見失ってはいけない。道を踏み外さないとは、おそらくそう言う事である。そしてそ

れだけが自らを幸せにする。忘れてはならない、今自分が一体何をやっているのかを。

 一度踏み外せば止められる者はいない。その目に映るのは己の理想、そして輝かしいはずの未来のみ。

しかし本当に待っている未来は、須らく忌わしい。予言でも警告でもなく、これが現実である。


 壬王と重臣達は決断を迫られていた。

 紫雲緋の裏切り、それが事実ではないにしろ、漢からは抗議と非難の声が寄せられている。

 何故紫雲緋を断りもなく勝手に碧国へと行かせたのか。そもそも賦王に等しい彼女を保護する為に、わ

ざわざ壬国に彼女を招いたのではないのか。

 しかも上将軍にまで任命しておいて、これはどう言う事だ。どう責任をとる。どう償うのか。壬国を信

じた全ての民に対し、壬国は一体どうしてくれるというのか。

 そういった類の伝令と文書が何度となく送られて来ている。

 紫雲緋が明確に裏切った証拠はないが、裏切っていないと言う証拠もまた無い。その為に壬は返す言葉

がなく、相手の話を黙って聞き、勝手な行動を真摯な気持で詫びた。詫び続けるしかなかった。

 だがいつまでもそのような事をしていても仕方がない。漢もそんな事を望んではいないし。壬をどれだ

け責めた所で、どうにかなる問題ではない事は初めから解っている。

 ならば何故、壬を責め立てるのか。

 それは即ち、壬国に紫雲緋の救出を望んでいるのだろう。

 漢が今華麗に出陣し、見事に碧を撃ち破り、紫雲緋と白晴厳を取り戻せたとしたら。もしそれが出来る

ならば、それが漢にとっては一番良いには違いない。そう出来れば、壬への恩義を考える必要はなくなり、

逆に多大な恩を壬へと与える事になる。

 そうなれば最早壬国は漢の軍門に降ったも同然である。これまでのように尊重しなくてすむし、国力差

を考えれば、実質的に属国に等しくなる。

 今までは漢嵩が受けた恩義があるから、あるからこそ壬と言う国に敬意を払っていたのだ。それが無く

なれば、これほど漢が楽になる事はない。

 しかし、今の漢はそれが出来る状況ではなかった。

 属国の玄が今激しい侵攻に晒されており、漢の消耗がまだ癒えていないからには、防ぐだけでも一苦労。

それに比べ碧の兵は益々意気盛んになり、流れに乗れとばかりに益々参入する虎が増えているという。

 まだまだ兵数と国力では漢の方が上であるだろうが。こんな国にまともに戦いを挑むとすれば、致命的

な戦火を負ってしまいかねない。

 しかも敵将、項弦のやり方は狡知極まり、玄全土に潜ませ周到に準備された兵を使い、まるで虫が食う

かのように今日はあちら明日はこちらと蜂起させ、慌てて兵を割いて救援に向わせれば、その隙に敵本軍

が猛進してくる。

 この上大陸中央部から漢本国へと侵攻されるような事があれば、もう国力差などと言っていられまい。

漢は深刻な事態に陥ってしまうだろう。

 これはどうしても避けなければならない。

 そこで壬の出番と言う訳だ。

 この国は賦国を滅ぼす戦の時も、凱に並んで被害の少なかった国である。しかも黒竜は精強極まりない。

兵数は他国と比べると少ないものの、北昇(ホクショウ)に新たに設立させた兵団もある。それらの全兵

力を投入すれば、碧国とも良い勝負が出来るのではないだろうか。

 例えそこまでいかなくても、碧を牽制してくれるだけでも充分である。ついでに壬国が疲弊してくれれ

ば、言う事は無い。

 壬もその程度の思惑は解っている。しかし紫雲緋が捕らわれたのは間違いなく壬の責任。それならば壬

国が真っ先に立ち、己が責任をとるべく紫雲緋を助けに行くべきであろう。

 いや、行くべき、ではなく、行かなければならない。

 初めから行く道は一つである。一つしかない。

「我らは行くべきである」

 室内は沈黙に支配されていたのだが、各自に考えがまとまったのを見て取ったのだろう。王、壬劉(ジ

ンリュウ)が重臣達を促した。

「そうですな。もはや紫雲緋殿が囚われたは必定。ここで我らが動かず、一体誰が動くと言うのでありま

しょうや」

 参謀長、蜀頼(ショクライ)が頷く。

「我らの手で、紫雲緋殿を、そして全ての賦族を救いましょう。今こそ彼らに大恩を返さねば」

 そして竜将軍、楓仁(フウジン)が高らかに宣言す。

 他の将官達も各々に頷いていた。元々その事に異論などあるはずがない。どころか、決死の使命感が皆

の心を燃え上がらせていた。

 囚われの女神を救うのだと。

 紫雲緋に好感をもたない者など、壬国には一人として居ない。そして彼女の想いを知らない者もいない。

それだけに趙戒が、碧と言う国が腹立たしい。

 沈黙も是非を考えていた訳ではなく、ひたすらに勝機を見出す為に戦略を練っていたのである。

「ならばすぐに壬萩へも軍勢を派遣させるよう知らせよ! 我が国の存亡を賭け、全ての力をもって碧国

を叩く! それだけが我らに出来得る事、ならばそれだけを一心に行なうべきである」

「ハハッ!!」

 全ての者は王に深い礼を示し、その後素早く退室していくと、各自俊敏に準備を始めた。主な者はその

場に残り、すぐに戦略会議へと移行する。

 碧に勝ち、紫雲緋、白晴厳を救うには全てを擲(なげう)たねばならない。その結果、勝つにしても負

けるにしても壬国は深刻な損害を負う事になるだろう。 

 しかしこの戦で全てを使い果たし、例えその後滅びるような事になったとしても、壬の民に一片の悔い

もあるまい。紫雲緋を救う為であれば、彼らは決して拒みはすまい。

 今こそが、建国の際に受けた大恩を返す、最初にして最後の機会なのだから。




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