3-7.猛勇、獅子心の如し


 あろう事か、岳把は単騎壬軍へ向かって駆けた。

 たった一人、供も連れず、野営の為に張った天幕より雷光のように飛び出、味方の戸惑う中を駆け続け

たのである。

 すでに敵軍は目と鼻の先、程無く肉眼で確認出来るまでに近付いた。

「愚か者どもめ、本当にこのような少数を出してくるとは」

 伝令の告げた事は事実のようで、確かに一万程の軍勢が眼前に広がっている。他の一万はおそらく後方

で予備兵として待機させているのだろう。此処からは敵陣の前方しか見えず、確認は出来ないが、そのく

らいは察せられる。

 どちらにしても、自分を侮り、半数の一万で充分と敵将が考えている事は、明らか過ぎる程確かな事で

あろう。

 そう考えれば、尚更腹が立つ。事実を見て、更に岳把の怒りは高まった。

 岳把はさらさらと手持ちの紙に、何やら怒りの赴くまま殴りつけるように文章をしたため、それを矢に

結ぶと、渾身の力を込めて引き絞った。ぎりぎりと弦の張る音が見えてくるような気さえする。彼は弓の

技も大した事は無いが、その膂力だけで充分過ぎる程の距離を飛ばせよう。

「我が意を喰らえい!!」

 そして空間を切り裂くかのように、力任せに矢を射放った。そして岳把自身も来た時と同様に、まるで

自ら矢になったかの如く、反転するとそのまま物凄い勢いで帰陣して行ってしまう。彼の怒りはまだまだ

収まる事を知らないようだ。

 出来る事なら、そのまま敵陣に斬り込んで行きたかっただろう事は、容易に察せられる。

 放たれた矢は雄々しく空を鳴り響かせながら壬軍最前部にまで達し、冥府まで切り裂けとばかりに大地

へと突き刺さった。

 何事かと兵が警戒しながら近付くと、どうやら矢文である事が解り。その事を知らされた小隊長は急い

で足の速い者を選び、本陣へと送り届けさせた。

 その頃、蒼愁は本陣の中心部に張った天幕の中で、司譜達と共に作戦を考えていた。

 現在の状況は、両軍共に一定の距離を保ち、睨み合いを続けていると言った所だろうか。あまり悠長に

は構えていられないものの、双方とも必勝を考えねばならない。慎重になって然りというものだ。

 それにこういう場合は相手よりも後に動いた方が対応しやすい。大体が陣形と言うものは初めに布陣し

た時が最も堅固であり、それから兵を動かす度に細々と崩れていくものである。

 例えて言えば、睨み合いの状況はお互いが剣を振り上げて待ち構えて居る状態であり。そうであるから

には、相手に近付く方が当然体勢が崩れ、待っている方の体勢は変らないから、そのまま溜めた力で狙い

済ました一撃を加える事が出来る。

 どちらが有利かは言うまでもない。

 この後で動いて敵の先手を取る方法を後の先と言い、有用性は広く知られている。よく先に動けば負け

る、と言うのはこういう意味である。

 勿論、攻めねば勝てず、待ってるだけでは時間だけが過ぎるのは明らかで、何でも待てば良いという意

味ではない。

 そうではなく、攻めるのであれば攻める理由在って攻めるべきであり。焦らされたあげくむきになり、

考えなしに盲進しては返り討ちにされるという戒めである。

 ともあれ、こういう待ちの状況になると、壬軍にとって司譜の存在がありがたい。彼が居るだけで身が

引き締まり、軽挙妄動しようと焦る気持も自然に抑えられている。それだけ司譜は皆に信頼され、影響力

の大きい存在だと言う事だ。

 これだけは、蒼愁にはとても真似の出来ないことであった。経験と実績、自信を生み出す糧として、こ

れに勝るものは無い。

「大参謀、敵将より文が送られて参りました」

「おや、戦前に挑戦状とは、また古風な」

 蒼愁は興味深げに文を受け取った。

 戦の開始の前に敵将へと挑戦文を送る。これは碧嶺の時代ですら、すでに古臭さを伴う習慣であり。今

となっては最早骨董に類する。だがそれだけにおかしみもあり、好意を持てない事も無い。勿論、その文

の中身がその姿勢に伴っていれば、の話ではあるが。

「参考になるかも知れぬ。差し障りが無ければ、我々にも聴こえるように読んでくれ」

 司譜の言葉に頷き、蒼愁が読み上げ始める。

「我が名は、天機将軍、岳把。天の定めか戦う事となったが、恨みはせぬ。ただ互いの想いに恥じぬ戦を

したい、そう願うのみである。しかしそれをどうであろう。貴軍はわざわざ半数で我々に応じる様子。確

かに我が軍は寡少なれど、貴軍に勝るとも劣らぬと自負している。遠慮なく、全軍をもって攻めて来られ

よ。それこそ我が望む所であり、戦の作法であると存ずる」

 つまりは、自分を馬鹿にしてるのか、侮らず全軍を持って挑んで来い。大まかにまとめれば、そう言う

意味だろう。真に大胆で不遜と言わざるを得ない。

 しかし古今東西、大軍を持って卑怯とは言われても、大軍を使わないのが卑怯だと言われたのは、恐ら

く彼らが初めてである。

 馬鹿げているを通り越して、滑稽(こっけい)でさえあった。

 そしてこれこそが、碧の統一性の無さを暴露しているとも言える。趙戒ならば、天地が滅びても、ひっ

くり返っても、このような事は絶対に言うまい、言わせまい。

「我らを虚仮か赤子とでも思うておるのか!」

 司譜はその特徴のある大声を盛大に使い、怒声を発した。

 まるで振動すら伝わってくるかのような声に、冷たい水でも浴びせかけられたように身を竦ませる幕僚

達。蒼愁と司穂だけが慣れているのか、動じていなかったが。それでも彼らなりに堪えたらしく、揃って

苦笑を浮かべていた。

 この老将は退いても、まだまだ現役であるようだ。いや、将軍から一度退いた事により、何かから解き

放たれたのかもしれない。以前よりも、より若やいで見え、その情熱も益々高まっている。

 今回は自分を武曲将軍としてくれた蒼愁の想いに、なんとしても応えたいという気持もあるのだろう。

その張り切りようは、見ていて微笑ましいくらいであった。

「ならば望通り迎え撃つまで。蒼愁殿、全軍を持って撃ち破りましょうぞ」

 司譜は全軍を持って一挙に叩き潰す作戦を進言した。他の将達も同じ考えであったろう。このような挑

戦状を付き付けられては、とても黙ってはいられない。

「いえ、それには及びません。ここは更に半数の五千の兵で迎え撃ちましょう」

 しかし蒼愁はその言を制し、逆に更に半数の兵を当てようと言う。

 これには流石に皆、驚ろきの色を隠せなかったが。全ては彼の指揮に従う事を決めており、少々頼りな

い所はあっても、この大参謀を全員が信頼していた。

 その彼が司譜の言を退けてまでこう言うのだ。何か策があるのだろうと、皆それ以上何を言う事も無く。

深く礼の姿勢をとって承知した旨を示し、各々の持ち場へと戻っていったのだった。

「さて、私は返答でも書きましょうか」

 蒼愁はと言えば、常と変らぬどこかひょうげた態度で筆を取ると、返礼として送るべく、何やら一筆し

たため始めたようである。

 もし敵将がこんな男だと知れば、岳把は、美しくない、とさぞ腹を立てたことだろう。

 岳把の美意識とは真逆に居る男である。


 暫くして、一本の矢が壬軍から放たれる。飛距離を出せる長弓から放たれた矢で、風に乗り大きな放物

線を描き、見事に天機軍正面へと深々と突き刺さった。

 先程岳把の行動を見ていた兵の一人は、おそらく返答だろうと察し。さほど警戒する様子も無く近付き

引き抜くと、急いで馬に乗り本陣へと駆けさせた。

 わざわざ伝令役を呼ぶような事はしない。誰もが手柄を立てる事を最優先と考えているから、この機会

に岳把に顔を売っておこうと思うのは、彼らにとって当然の判断であった。

 通常の軍では各々に役割が当てられ、その分を乱すような行動は思いも寄らない事であるが。何しろ皆

虎から変ってさほど経っていない。その内情は虎の時のままと言っても、何ら言い過ぎる事はなかった。

ようするに彼らはまだ虎の寄せ集めでしかない。

 岳把も虎長であったからには、矢文を自己判断で運んで来た兵を叱る考えは浮ばず、僅かながら褒美を

与えて下がらせた。その都度褒美を出すというのも、どちらかと言えば虎の流儀であろう。

 歴代の各国の竜の中にも、そういうやり方を好んだ将が皆無ではないが。彼らは褒美を王から預かった

軍資金から出すのではなく、大体は将軍の自前の金を与えている。つまりは公的ではなく、私的な面が強

いと言う事であろうか。

 それに比べ虎の考えでは、その時その場に置いての褒賞と言うのが重要視されている。何故ならば、虎

長と呼ぶように、その地位は絶対ではあっても王ではなく。あくまでも府長などと同じく、その団体の長

でしかない。

 虎を臣従させている訳ではなく。あくまで兄貴分として立っていると言うべきか。

 そうである以上、自分の命を実行してくれた、或いは自分の為に何かをしてくれた、となれば、当然褒

賞を与えなければ不満が出る。不満を放っておけば、すぐにその地位を奪われる事になるだろう。

 虎も竜も、上に立つ実力と度量を見せねばならない事は、今のこの大陸にある価値観をもってすれば、

当然求められる事なのだ。竜は戦後まとめて、虎はその都度直払い、という違いはあっても、求められる

事は変らない。信賞必罰である。

 こうして従える者に慕われなければ、或いは上に立って当然と思わせる事が出来なければ、長として、

将軍として君臨する事は出来ないのだ。

「フン、面白みのない文面だ」

 岳把は矢文を読み、益々敵軍への失望を深めた。

 その文章自体に問題は無い。しかしなんとも基本どおりで、文章家としての力量を見せる個性と言うモ

ノがまったく見えなかった。軍事上の物であるからには、これはこれで良いのだが。美々しさを求める岳

把としては、明らかに不満であった。

 これならまだ挑発の言葉だけでも並べられている方が良い。それならばこちらとしても怒りが増し、叩

き潰そうと言う気概が増すというものだ。

 それがこんな平坦な文面では拍子抜けしてしまう。

 だが文面を見る限り、全力をもって戦う事には壬側も異存が無いようだ。岳把はとりあえずそれだけを

満足する事とし、文を受け取った証と、開戦を告げる合図とすべく、盛大に銅鑼や太鼓を鳴らし始め。美

々しく(或いは無用に騒々しく)、進軍を開始したのであった。

 それを見(矢文を放った時点ですでに準備も終えていたのだろう)、壬軍も即座に応戦の構えを見せ、

太鼓の音と共に進軍を開始した。

「なんだと!! この岳把をなぶるつもりか!!」

 しかしその壬の軍勢はと言えば、明らかに全軍ではなく。先頭で率いる岳把が見ても五千が良い所。矢

文を射た時に見た一万よりも更に少ない。

 これは文を見た後、故意に半減させたとしか考えられず。察するには、岳把を馬鹿にしているとしか思

えない。挑戦状を無視されるどころか、逆に挑発されるような行動を取られるとは、これは武将にとって

最大級の侮辱である。

「貴様らも我を小僧扱いするかッ!!」

 見る間に自尊心の強い岳把の顔は燃え上がり、以前孟然に侮辱された時よりもその赤みは強く、あと少

しでも力を加えれば、顔中から血が噴出しそうな具合であった。

「ならば見せてくれよう。その程度の小勢など、すぐにでも蹴散らしてくれる! 全軍、我に続けッ!!」

 冷静に考えれば、当然罠が待っているはずで。五千と言っても寄せ集めではなく、堂々たる軍隊なのだ

が。今の岳把は平素よりも更に歯止めがなくなったようで、綿密な作戦を立てる事も無く、半ば力任せに

走り始めてしまった。

 彼らしくない。その才も彼が自信満々に構えていたからこそ、最大限に発揮されたのだろうに。これで

彼の天賦の才が消える訳ではないが、少なくとも半減すると思える。

 彼に続く兵達も、また悪い癖が出たと、刃を合わせる前から不穏を覚えた。当然、士気が落ちる。




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