3-9.侮るに如かず


 あらかた残存兵力を叩いた後、壬軍も深追いを止め、一度退いた。

 追撃こそが最も戦果を上げられる手段なのだが、この一戦で終わりではない。蒼愁は兵の疲労を恐れた。

 遠征も初めてなら、連戦も初めてである。今は気負っていて疲れを感じていないが、おそらく兵達が思

っている以上に、その疲労は深い。

 緒戦を飾ったとはいえ、この後城攻めが残っている。栄覇を落すまでは休息時間は無いに等しい。

 軍を収めた後、幕僚達は蒼愁の下へと赴き、次々に祝辞を述べた。勿論蒼愁も返礼し、特に功篤い将兵

に関しては褒賞まで与えた。

 僅かな金額ではあるが、この場で特別に与えられるという優越感に勝る褒賞はない。それに加え、この

褒賞は戦が終わった後の論功行賞で、この功に必ず報いると言う証明でもある。将兵達は皆充分に満足し、

次の戦いへ向けて士気は更に高まった。

 信賞必罰のみが軍を軍足らしめる。

「噂程ではなかったな」

 一頻り勝利を祝いあった後、司譜が敵将、岳把をそう評した。

 確かに今回の彼はまるで良い所が無かった。むしろ余計な事をしたとさえ言える。彼がかっとなって無

謀な突進を続けなければ、勝敗は解らなかったかもしれない。

「我が軍も充分に機能した。まだ竜兵も残っておる事であるし、存外楽に抜けられるかもしれぬ」

 司譜の言葉に皆頷く。意気揚々と輝いた顔はまるで子供のようで、微笑ましくすらある。初陣の心配を

していた者が多かっただけに、この大勝利の喜びも一入(ひとしお)なのだろう。

 しかしいつまでも余韻に浸っている訳にもいかない。嬉しそうに談笑を済ますと、主要の者達を除き、

皆それぞれの持ち場へと戻っていった。

 勝利に浮かれているばかりではない、彼らは自分の役割をきちんと把握している。今は休息をとり、次

への準備を進める事が大事なのだ。

 喜ぶのは全て勝ち終えた後でいい。

 しかし皆が帰った後、今までの雰囲気とは対照的に何故か蒼愁は溜息を吐いた。

 喜びもの表情もいつの間にか消え、まるで負け戦でもしたかのようだ。

 不安に思い、見兼ねた司譜が尋ねると。

「今回は勝ち過ぎました。勿論勝つのは大事ですが、大勝利の後は兵に油断を招きます。それに先程の戦

では、敵将の力を発揮させなかったから、ああまで上手く勝てたのです。次は相手も必死になるでしょう。

例えそれが敵将一人の思いで、それに兵達が付いて行かないとしても。その思いは敵将の能力を大きく引

き出します。激昂は同時に油断も呼びますが、少なくとも先程のような事にはならないでしょう」

 と言った。確かにそれも一理ある。

 今回は見事に油断を突き、勝利を収めたのだが。次もそうとは限らないのである。次はこちらが同じ手で

敗北する事になるかもしれない。

 天はこういう場合は平等であり、より強き者を祝福し、驕った者に災いをもたらす。

 負ければ負けたで問題は起こるが、勝てば勝ったで問題は出てくるものだ。それを忘れてしまえば、思

わぬ不運に塗れよう。

 司譜も、余計な不安だ、とは言わなかった。そんな事は無い、そんな心配は無用である。そういう油断

をした時、必ず人間はしくじるものだと、経験から良く解っていたからである。

「なるほど、次が本番だという事か。わしも気を引き締めていこう」

「はい、しかし本当に見事な采配ぶりでした。流石は司将軍」

「まったく叱っては褒め、褒めては叱り、このわしがよくよくしてやられることよ」

 どこか笑いを含んだ司譜の言で、静まっていた場に笑いが満ちた。

 戦後など笑っていなければやっていられまい。本当は誰も敵兵に、敵将にも恨みはないのだ。ただ討つ

べきは趙戒であり、それ以外の者とは出来れば戦いたくない。

 本来ならば説得して屈したい所。虎達は夢を見ている事も確かだが、ほとんどは利に眩んでいると言え、

戦う理由が信念のみでなければ、まだ説得出来る可能性がある。

 それに彼らの誰も、趙戒を慕って集まった訳ではなく。今の虎の地位に満足しているとは思えない。

 しかしだからといって、蒼愁などというぽっと現れたような男に屈する者はいまい。碧が壬に滅ぼされ

るとも思ってはいないだろう。これでは説得して降伏させる事は出来ない。

 まずは壬と戦うよりも、組した方が利が大きいと思わせる事が肝要である。そして碧に未来は無いのだ

と、そう思わせる事が必要だ。

 それを証明するには勝つ事である。しかもあっと驚かせる大勝利こそ望ましい。

 その意味でも緒戦は成功したものの、やはり蒼愁は成功し過ぎたと考えている。城攻めという本戦の前

に、出来れば苦戦するくらいの方が良かったとさえ思っていた。

 勝つよりも、負ける方が学ぶところが多く。敢えて強断(ごうだん)すれば、一度負けてからが真の軍

隊だと思っている。

 一勝は一敗に及ばず。大勝は百敗を凌ぐ。と、軍讖にもある。

 一見、一勝しても一敗を雪ぐ事は難しい、しかし大勝すれば百敗を凌ぐ事もある、という意味に思える

のだが。実はまったく逆の意味もあり。一勝しても一敗に及ぶ経験は出来ない、大勝してしまえば百敗に

勝る不運を呼ぶ事もある、という訓戒の意味がある。   

 軍讖は更に言う。驕る事無かれ、と。人生に置いて、驕りに及ぶ弊害は無いのだと。

「さあ、明日は栄覇を落してしまいましょう」

「オォッ!!」

 蒼愁はその言葉を肝に銘じながら、将兵の意気を高める事も忘れなかった。

 真に贅沢な男である。油断ならぬ、という他国からの評価は、或いは一番正しいのかもしれない。


 壬軍は慎重に栄覇との距離を詰めた。

 緒戦場よりまだ距離があった為に、急がせず敢えて時間をかけて進んだ。急げば疲労が溜まるし、どれ

だけ速度を出しても、今更敵兵には追いつけない。例え追いついても疲労でまともに戦えまい。

 ここで一気に栄覇に進み、敵兵に防戦準備の時間を与えない事が最良ではあったが。蒼愁は無理を嫌い、

とにかく慎重に行動している。今更急いだ所で大して変らない、との思いもあるのかもしれない。

 そして浮かれているとさえ言える自軍の高揚感を、ゆっくり進軍させる事で少しだけ冷ませ、冷静さと

緊張感を取り戻させる意図があったのだろう。

 司譜も戦前の会議で、その意図に賛成していた。

 彼も軍の暴走を一番に恐れていたのだ。経験の無い軍隊と言うのは、時に何よりも怖ろしい。それは将

の側においても同様で、冷静に兵を御せなくなれば、その時点ですでに負けているし。指揮系統が乱れ、

兵が混乱すれば何をしでかすか解らない。

 一人二人ならまだしも、多数になった人間の高揚感と興奮は、最も恐れなければならないモノの一つで

あろう。人は一人ではさほどの悪事は為さないものだ。

 時は金なり。しかし金よりも大事な事は多くある。

 その間に天機軍は疾風の勢いで逃げ、栄覇へ入った。

 だがその時には孟然率いる天梁軍は当然居らず、すでに後方へ退いた後であった。岳把は激怒したが、

最早後の祭り。出発前に彼自身が孟然と要らぬ諍(いさか)いを起していた事もあり、表面上は岳把に合

わせながらも、将兵達は内心意外には思っておらず、岳把の激怒も自身の名声を下げただけであった。

 岳把が無駄に気負って単騎突入するような事をしたからだ、全ては彼一個が悪いのだと、天機兵は元が

無数の虎の集まりだっただけに、遠慮なく彼の評価を下げ、信頼を捨てた。

 あれだけ当初は岳把の下に就く事を望んでいたはずが、今になってそれを酷く後悔してもいる。真に勝

手だが、心服させていない部下というモノは、得てしてそういうモノであろう。

 だが彼らも歴戦の虎である。後悔など無駄だと解っていたし。こうなれば岳把を盛り立てて、何とか壬

軍を撃破出来ぬまでも、壬国へ追い返さねばならない。

 そうしなければ趙戒にどれ程罰せられるか・・・・。彼らが趙戒を信頼していないように、趙戒も彼ら

を好んでいない。どういう末路が待つのか、容易く想像出来る。

 野望や夢さえなければさっさと逃げ出したく、現にここへ辿り着くまでに二千余りの兵は何処へとも逃

げ去り、すでに五千程度にまで兵数は減っていた。

 絆の無い集団というのは脆いものだ。

 しかしまだ防衛に徹すれば、五千の兵でも耐え凌げる可能性はある。

 敵は二万、四倍の兵力差は確かに圧倒的だが、懸命に護れば何とかならない事もない。それに壬は食料

が少なく、資源も少ない国である。例え漢が受け持ったと言っても、漢も玄を守る為に大量の食料資源を

費やしている。さほど多くは他国に回せまい。

 暫く凌げば兵糧も尽きるだろうし、栄覇が危機となれば援軍も向って来よう。趙戒も流石に動くはずだ。

 本拠地からの援軍を待たなくとも、孟然に岳把が謝罪すれば機嫌を直し、天梁軍が協力してくれる可能

性もある。まだ希望が全て費えた訳ではないのだ。

 一度敗れたものの、兵達にはどこか余裕のようなものがあった。虎には天性楽観的な者が多い事も、そ

れを助長しているのだろう。

 しかし岳把はそんな彼らに無情にも告げる。

「援軍に頼るは私の誇りが許さぬ。ましてや孟然に頼るなど、以ての外だ!!」

 虎時代からの彼の部下でさえ流石にこの言葉には色をなし、何とか説き伏せようと試みたが、強情な彼

が耳を貸す事はなかった。

「先程は挑発に乗ったから負けたのだ。もはや侮りはしない。五千もいれば充分である。我が見事壬軍二

万を撃ち破ってくれようぞ」

 あれだけ大敗しておいて、一体何処からその自信が湧いてくるのか。岳把は篭城さえせず、なんと再び

迎撃に出るという。

 敵軍の四分の一の兵で、わざわざ野戦をしかけるなど、自殺するようなものだろう。それとも彼には何

か秘策があるのだろうか。

 確かに少数で馬鹿のように迎え撃てば、敵軍は何かあると恐れ、その足は鈍るかもしれない。しかしそ

れだけでは勝てまい。

 妙な事になったと、天機兵達は皆困惑したが。まだ岳把という天賦の才を信じる心があったのだろう。

岳把自身も妙に堂々としている、よほど自信があるに違いない。

 最後には皆折れ、今更脱走しようとする者も居らず、兵達はとにかく彼に賭けてみる事にしたのだった。

 天機軍は再び出撃した。

 前のように無闇に突進するのではなく、門前に陣形を敷き、堂々と待ち構えている。

 開き直っているのだろうか。あれだけ自意識の高い男が焦りもせず、前とは別人と思えるほど落ち着き

払っていた。

 岳把も場数を踏んだ男、窮地の心構えは出来ている。それに彼の理論から言えば、むしろ窮地こそが華

となる場所なのかもしれない。

 彼の堂々たる姿を見、天機兵は少しだが信頼を取り戻した。




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