4-1.孟然という存在


 蒼愁(ソウシュウ)率いる壬次軍は大陸中央部南方にある栄覇(エイハ)を解放した。

 民が望んで受け入れた以上、占領というよりは解放と言うべきだろう。それに壬国はこの都市を自らの

支配下に置く事も考えていないのである。

 蒼愁自身の一騎打ちによって最終的な勝利を得た、と言う事はすでに内外に広められ、様々な反響を呼

んでいる。

 嘘だろう。そういう者も多かったが、実際に栄覇が解放された以上、認めないわけにはいかない。蒼愁

の世間における評価は、これによって数段重みを増した。

 この事はこれからの戦いに少なからず影響を与えると思われ。これによって蒼愁の目論見は成功したと

言える。

 しかし壬(ジン)と碧(ヘキ)との戦はまだ始まったばかり。六虎将軍の一星、岳把(ガクハ)を縛し

ても、まだ碧には五人の将軍が居る。碧という国は、趙戒の兵力が総兵力の半数近くを占めている事を考

えれば、まだまだ緒戦の勝利としか言えまい。

 夢破れ気迫を失した岳把は、覇気の無い表情のまま壬国へと素直に護送され。次軍の再編成と義勇兵団

の編成を数日をかけて終え、壬軍はようやくその腰を上げる事が出来た。

 現時点の総兵力は、ざっと一万八千。岳把に二千名もの死傷者を出された事になる。そのほとんどが傷

者だとしても、その被害は決して少なくは無い。そこからも激戦の様子がありありと解る。

 だが栄覇という一大拠点を落とせたと思えば、良い結果だと言えなくはない。これによって大陸中央部

を碧の支配から脱したと思えば、二千で済んだのは安い買い物と言う者も多い。

 戦が早期終結できた事が、この結果を生み出したと言え。そういう意味では、岳把の無謀さにも(皮肉

を込めて)、敬意を払わなければなるまい。彼が慎重な男であれば、こうも短期間に栄覇は落ちなかっただろう。

 岳把を下し、次に立ちはだかるのは、現在栄覇のすぐ南方に陣取っている天梁将軍、孟然(モウゼン)。

彼とは蒼愁も一面識があり、その力量も多少は知っていた。

 決して派手な男ではないが、虎時代のどの働きを見ても、的確な判断を下し、確実に勝利に貢献、もし

くは目的を達している。冷静で部下からの信頼も篤く。真に難敵である。

 的確かつ確実と言う事は、即ち無理がないと言う事であり。こういう男が実際には一番怖いかもしれな

い。岳把のように自ら敢えて不利を求めるような事は決してせず、それ故に隙が無い。

 かと言って慎重過ぎて鈍重なのではないかと言えば、そんな事も無い。時に驚くほど機敏に動き、策も

用い、あらゆる手段を使って最善の道を探し当て、迅速に行動する。

 静と動を兼ね備えている所は、あの漢嵩(カンスウ)に似ているかもしれない。

 孟然の率いる天梁軍は総勢約七千。岳把の率いた天機軍八千より尚少なく、壬一万八千と比べれば倍以

上の兵力差があるのだが。だからと言って、油断して向えば手痛い目に合うだろう。

 兵力差はそのまま戦場での優位を示すが、それが必ずしも絶対的勝利を導く訳ではない。岳把が持論と

していたように、少数の軍勢で多数の軍勢を破る例も、歴史の上で少なくはないのだ。

 一番解りやすい例をあげれば賦族だろうか。大陸人のほぼ全てを敵にして、それで尚一時は大陸の覇を

競える程の大国家を生み出した。結局は無理が祟って滅びてしまったが、大陸人の心にはまだ濃密に賦族

の恐怖が残っている。

 狂信的なまでの士気、鮮烈なまでの美意識、そして肉体的精神的強さ。そのどれもが大陸人を明らかに

上回り、軍団となった時の強さは測り知れない。

 そしてかの大聖真君(タイセイシンクン)こと碧嶺(ヘキレイ)、大軍師、趙深(チョウシン)、紫雲

竜(シウンリュウ)、壬牙(ジンガ)、そういった古の英雄達も少なからず不可能を可能にしたような武

勲と逸話を持ち、実際に何度か成し遂げている。

 そこまでの強さは天梁軍、そして碧国には無いとしても。虎出身の彼らも個々の力量ならば、各国正規

軍である竜をすら凌ぐ者が少なくない。

 彼らがもし一致団結して、賦族の如き統制を示したとしたら。

 そう考えると、蒼愁達も一戦を勝利したとはいえ、まだまだ安心も楽観も出来ないのである。

 孟然、虎をまとめられるとすれば、一番近い位置に居るのは彼かも知れない。

 天梁軍は岳把の敗北を知ると、その穴を埋めるべく即座に栄覇へと進軍を開始し、今は栄覇から数キロ

先にある場所に柵や小屋を構築し、小さな砦のような拠点を作っているようだ。

 そしてたまに小勢を繰り出して来ては、挑発でもするかのように堂々と軍容を見せては去っていく。

 おかげで壬軍内には怒りの声が高まってきていた。勝利した所に冷や水を被せられるようなものなのだ

から、彼らの怒りも解らないではない。

 しかし蒼愁としても挑発に乗ってまんまと出撃する訳にはいかない。岳把なら解らないが、孟然が何の

意味もなくそのような事をするとは思えないからだ。

 とはいえ、そのまま捨て置けば壬兵の不満は増し、士気が落ちてしまうだろう。士気を上手く高い状態

に持っていく事が、将としての第一歩であり、手腕ともいえる。

 蒼愁はいつまでも放っておけず、終には司譜(シフ)に竜兵一千を任せ、出撃させたのだった。


 司譜は敵軍に対し、初めから何かしら違和感のようなモノを感じていた。

 彼が進軍すれば同じだけ敵兵は後退し、こちらが出過ぎたかと下がれば、また同じだけ前進する。

「わしを弄るかッ!」

 とも思ったが。良く良く考えてみるとこれはおかしい。罠も無いようだし、こんな事をする意味が感じ

られない。暫し考え込み、最終的に察せられたのは。

「もしかすれば、戦う意志がないのではないだろうか」

 という一つの結論であった。

 敵兵は偵察兵らしく全て騎乗していた事も上手く距離を保たれている原因なのだが、それだけでは説明

できない何かがある。敵兵にまるで殺意、敵意が感じられないのだ。

 戦の意志がなく、単に歩調を合わせているだけであるから、こうも上手く距離を保てるのだろう。

 もしかすれば、体面上小勢を出しているだけで、敵将にはこちらと矛を構える意志がないのではないか。

そんな風に司譜は察した。

「全隊停止、敵前方へ一斉射撃せよ」

 矢が届くといえば届くが、ここはまだ殺傷距離外である。兵達は少し不審に思ったものの、司譜に何か

しら考えがあるのだと思い、大人しくその下知に従った。

 限界まで引き絞った弓から、勢い良く矢が飛ぶ。

 矢は大きく弧を描いて飛行したが、敵兵にまで届いたものの威力はなく、軽々と敵兵に全て打ち落とさ

れてしまった。

 だがどうであろう。何故か敵兵は揃って撤退を開始したのである。今までの前進後退運動は何だったの

だろうか。見る間に距離は離れ、整然と後退して行く。

 とても逃げているとは思えなかったが、とにかく勝利であろうと思い、壬兵達は大きく鬨の声を上げた。

 それを暫く眺め、落ち着き始めた所で司譜は静かに後退の命を下す。

「どうも思うた通りらしい」

 司譜は部隊を栄覇へと戻した後、即座に蒼愁に会い。具に戦闘結果と敵の動きを話し、最後に付け加え

るようにそう告げた。

 あれは戦闘行為とは思えなかった、と。

「それでは武曲将は孟然に敵意がないと仰るのですね」

「うむ、その通り。理由は解らないが、どうも思うところがあるらしく見受けられた」

 聞き終わり、蒼愁は何やら考えてる風であったが、数分すると考えがまとまったらしく、一つ頷いた。

 それから立ち上がり、大きく開いた窓から孟然の居る方角へと目を向ける。

「私に来いと、そう言っているのでしょうか」

「そうかもしれぬ。そうでないかもしれぬ」

「その言葉、大いに迷いますね」

「人の生とはそういうものだ。行って見なければ解らぬよ」

 蒼愁はまた少しばかりの間外をぼんやりと眺めながら考えていたが、何事か司譜と話し合うと、今度は

一転して機敏に軍勢を出撃させる準備を始めた。

 いつでも出せるようにしてあったから、軍を出すまでにそう時間はかからない。

 

 壬軍は孟然の野営へと進軍した。

 その速度は遅くはないが速くもなく、多少兵達は訝しがったが、それでも命じられるまま整然として進

んだ。蒼愁の教育は確実に芽を出しているようである。そしてそれは兵が将を信頼していると言う事でも

ある。

 さほど孟然率いる天梁軍と距離が離れているわけではない為、小一時間程度で野営場所まで辿り着き、

壬軍は即座に攻撃の体勢を整えた。

「軽兵隊、敵陣前方へ一斉射撃」

 しかし蒼愁はそのまま全軍をぶつけようとはせず、何故か弓矢での牽制のみを命じた。

 軽兵隊を率いる司穂(シスイ)はすでに彼の考えを聞理解していたから、戸惑う事無く軽兵へ命ずる。

「全隊、敵陣前方へ一斉射撃!」

 軽兵達は少し考える風であったが、結局は上官の命に従い、敵陣の前方へと一斉に矢を撃ち出した。そ

んな場所に射っても、おそらく戦果はあげられまい、などと心中思いながら。

 矢はゆるりとした放物線を描き、敵軍前方へと深々と突き刺さった。壬製の装備の秀逸さが良く解る。

一本とて大地に弾かれる事が無いのは弓兵の技量もあるが、矢の性能の高さを証明していた。

 だがそれも当らなければ意味がない。大地を如何に傷つけたとして、それでどうにかなるものではある

まい。

「全軍、後退せよ!」

 しかし驚くべき事に、孟然は即座に兵を退かせた。しかも待っていたとばかりに見事すぎる、明らかに

前もって準備されていた後退である。そのくせ罠がある風でもない。

 もしこちらを誘っているのであれば、もっと上手く逃亡に見せかけているだろう。こうも整然とした退

却があるはずもなかった。

 壬兵は暫しそれを呆然と見送っていたが。

「全軍前進」

 蒼愁の静かなる命に応じ、その後を追った。

 この頃には兵の中でも察しの良い者は、一体この二つの軍が何をやっているのか、気付き始めた者もい

たようである。

 そして両軍とも静々と南下して行く。




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