4-2.転換


 天梁軍は主な拠点をなぞるように退却を繰り返し、本気で戦う姿勢を見せるでもなく、不自然な状態の

まま南下を続けた。

 結果として、その後を追う壬次軍の解放地は進む度に増えて行く。

 解放地の民は栄覇の民と同様、蒼愁の率いる軍勢をむしろ喜んで迎え。反乱や暴動が起きる事もなく、

同じように義勇兵が集まり、自衛する事で壬軍を助けている。

 その間、戦闘行為らしい事は何一つ起こって、いや起していない。

 天梁軍は終に元凱領の最西南まで移動し、玄方面への侵攻拠点であった、武尊(ブソン)にまで達して

しまった。そして落ち着き払った態度で、武尊の門前に当然のように陣形を布く。今更ながら、ここで迎

撃するつもりであろうか。

 この地が天梁将軍守備域の最西点、つまり孟然の担当する区域の西の果てであり。この武尊から天府将

軍、項弦(コウゲン)の領土、項国となる事を意味している。

 武尊の守備兵も、当たり前だが天府軍に所属する兵である。

 守備兵達は孟然の行動を皆一様に訝っていた。

 何故こちらまで来る必要があるのだろう。逃げるにしても、より兵力を持つ趙戒の居る王都へ向うのが

常道。こんな前線から遠い、補給路でしかない場所に来て、一体何を望むのだろうか。

 しかも眼下に陣する天梁兵達は無傷に近く、とても今まで戦闘行為をしてきたとは思えない。退却を続

けているとの報はあったが、それにしても早過ぎる。栄覇から来たと考えれば、ほぼ一直線に来るのと変

わらない時間しか経っていないはずである。

 そこまで天梁軍は弱いのだろうか。

「南斗第二星も落ちぶれたものよ」

 いつもならそのように言って、臆病者と謗(そし)る所なのだが。現在は戦時中、しかも事もあろうに

天梁軍が壬軍を引き連れるようにして来ているのだ。とても笑っている余裕などあらず、焦った指揮官は

何度も使者を発して事情を聞こうとしているが、返答はどうにも要領を得ない。

 孟然はとにかく自軍を都市内へ迎え入れ、共に護り、共に壬軍を追い払おうではないかと、それだけを

言ってくる。

 項弦は遥か西北へと侵攻の途上にあり、この都市に残してある兵も三千余りと僅かなものだ。

 こんな所まで敵が、しかもこれほど短期間に、進軍するとは考えられず。だからこそこの付近には、兵

数は僅かしか残していない。

 しかもそのほとんどが経験の浅い実力不足の兵達で、言ってみれば役立たずだから置いて行かれたよう

なものなのだ。

 武尊の指揮官も一応一番の年配であり、多少なりとも経験だけは積んでいたからこの都市の守備を任さ

れたが、特に有能な訳ではなく、運良く今まで生き長らえてきたような男。勿論、長く生きるだけでもお

そるべき才能だと言えなくもないが、戦の指揮官としては大して役に立たない。

 逃亡や生存能力に優れているだけの事で、言ってみればそれだけの男であった。諦めが早い分、かえっ

て害悪ですらあるかもしれない。

 彼自身としても、今更大それた夢や野望を持っているわけでもなく。ただ生き続け、のんびりと余生を

過ごせればそれで良かった。最早虎として生きるのに疲れていたのである。

 だからこそ戦の真っ只中にありながら、このような場所に置いて行かれても、怒るどころか、むしろ感

謝さえしていた。

 そしてこの男、長年虎として生きたにしては考えが甘く、どこか抜けているというか、あまり深く考え

て行動をしない性質である。

 長年の経験からの直感に従う、と言えば多少聞こえは良いが。この男程度の直観力では、ようするに行

き当たりばったりでしかなく。場当たり的に上手く処理し、臨機応変に対応出来る能力などは、おそらく

一欠けらも無い。

 この時も敗残の将である(とてもそうは見えなかったが)、孟然を憐れに思う心が少しばかりあるだけ

で、他に何の考えに思い至る事も無く。長くは悩んだものの、結局は断固とした答えも出せず。最後には

発作的、感情的に門を開いて、天梁軍を迎え入れてしまった。

 孟然の方もこの指揮官のそういった所を良く知っており。だからこそ堂々と逃亡し続けて来たのだろう。

本来ならば、敵前逃亡を繰り返すだけの将など、信用出来るはずがなく。都市内へ迎え入れるなどと、自

殺行為も甚だしい。

 武尊が他の将に任されていれば、孟然は同じ事を別の手段で周到に行なった事だろう。

 この指揮官が元来気が優しいだけかもしれないが。太平の世ならまだしも、一軍の指揮官としては甚だ

いただけない。逆に言えば、だからこそ項弦が一番安全と見た、このような果てに配属されたのだろう。

 こうして門は開かれ、天梁軍は勢い良く雪崩れ込み、未だ状況を掴みかねている守備兵を後目に、あれ

よあれよと言う間に指揮官を捕らえ。ほとんど抵抗無くして、この武尊を占拠したのであった。

 守備兵達が気付いた時にはすでに全てが済んでしまっており、今更慌てふためく彼らに何が出来るはず

がなく。命を助けると約束しただけで、赤子のように簡単に投降の意を示した。

 彼らも指揮官と同じで、主義主張がある訳ではなく、元々どっちでも良かったのだろう。

 その後孟然は、即座に壬に対して投降の意を示し、蒼愁がその権限を用いてその意を入れ、碧の中央と

南部一帯は蒼愁の指揮下に入った。

 これは同時に、玄に侵攻中の項弦と碧に居る趙戒の間を塞ぎ、大きく見れば双方を孤立させた事を意味

する。碧はこの二者によって保たれている。その二者を分断する事は、これからの戦況に大いに影響する

事だろう。

 今までは玄で防衛に徹するしかなかった漢軍も、劣勢を覆し、反撃に移る事が可能になるかもしれない。

 項国もそこそこの領土を持つ国となっているが、その領土は占領したばかりで未だ不安定。しかも天府

軍はこれからも連戦に次ぐ連戦を強いるしかなく。本国からの補給を絶たれれば、いずれは一転して窮地

に陥るだろう事は、容易く見通せる。

 蒼愁率いる壬次軍は武尊一帯を孟然に任せて引き返し、再び碧都、偉世(イセイ)へと進軍を開始した。

 項弦の脅威は、すでに去ったと見ていい。壬は専一に趙戒を目指す事が可能となった。


 壬次軍が一段落付いた所で、時間を少し遡(さかのぼ)らせていただこう。

 蒼愁率いる壬次軍が黒双(コクソウ)へ到着した頃、足並みを揃える為に待機していた壬本軍は碧へと

進軍を開始した。

 敵するは、七殺将軍、石迅(セキジン)。凱国最後の王、凱禅(ガイゼン)を滅ぼし、壬への侵攻拠点

であった昂武(コウブ)を落として、その一帯を占有した将軍である。

 兵数は多くて一万程度だろうか。彼も領土を持つ王であるからには、その兵力も多少は増している。武

器や食料にしても、碧本国を頼らなくても数月は持つ程度には備蓄されていると思われる。

 勿論石迅が用意した物ではなく、凱禅がいざという時の為にと以前から用意していた物の残りだ。

 凱禅は用心深く周到な男であるから、こういった都市もそこかしこに作られていた。補給というものを重

要視しているのは、他国の王と変わらない。むしろより執拗であったと言えよう。

 それが皮肉にも、彼自身を滅ぼした男に力を与えているのだが、果たして凱禅は冥府にてどう思ってい

るのだろうか。或いは自分の居ない世界など、一点の興味も無いのだろうか。

 昂武の準備は万全、しかも七殺軍だけでなく、天相将軍、恒封(コウフウ)率いる天相軍も援軍として

到着している。

 天相軍は七千程度、合わせて一万七千。壬本軍は三万もの大軍だが、昂武の防衛力を考えれば、充分に

応戦できる。むしろ壬の方が不利かもしれない。

 石迅、武に秀で、大柄で筋骨逞しく厳つい顔。その身体的特徴から、或いは賦族の血を引いてるのでは

ないか、とも噂される男だ。

 とはいえ彼が賦国と縁があったような事は聞こえず、むしろ虎として賦族と敵対する側に常に居て、特

別に賦族と面識がある訳ではないようである。少なくとも、賦族側は彼を賦族だとは考えていまい。

 石迅自身もそう思ってはおらず。自分が賦族の血を引いているのか、それさえ彼自身も知らない。

 物心付いた時にはすでに虎として生きており、誰も彼が何処から来たのか、誰から生まれたのか、何一

つ知る者は居なかった。

 辛うじて、石魯(セキロ)という一人の虎に拾われ、育てられたらしいという事だけが解ったが。当の

石魯も当時の事情を知る人物も、全て戦死しており。他に仲の良かった者達も、石魯達が石迅の事にはあ

まり触れたがらなかったようで何も知らされておらず、今では全てが謎であった。

 石魯が賦族の女に産ませた子ではないか、賦から攫(さら)ってきたのではないか、などとも噂された

が、今はもう闇の中。  だが石迅本人は大して興味がなかったようで。最早頼る者がいない事だけを理解し、その境遇に捻くれる事

もせず、子供ながらも必死に鍛錬を積み、十年もすればある虎団の長となるまでになった。

 そして今、何の因果か彼は賦族解放を謳(うた)う碧国に付く者、七殺将軍として壬を迎え撃つ。

 虎の中でも武勇だけなら一、二を争うと言われ。寡黙だがどこか愛嬌があり、部下達だけでなく、他の

虎達の間でも評判は高い。

 戦略や戦術といった面になるとおぼつかなく、虎長となった頃は失敗も多かったが。ある時、優秀な副

長を得た事で石虎は飛躍的に成長し、虎の中でも名のある傭兵団となった。その驚異的な成長は同業者の

間では有名なようだ。

 あらゆる面で、天機将軍、岳把(ガクハ)と対極を為す男かもしれない。何でも、かの孟然とも仲が良

いらしい。

 そういえば、壬の楓仁にどこか印象が似ている。失礼な言い方をすれば、武勇だけの楓仁だろうか。

 彼を支える副官の名は楚峨(ソガ)。小柄で目が大きく好奇心が強い、まるで子供でも見ているかのよ

うな印象を受ける男だが。その智謀は紛い物ではなく、策に疎い石迅を助け、実際に大きな戦果も上げて

いる。

 無精で何をやるにも骨惜しみし、一日中寝ているのが幸せと公言して憚(はばか)らないような男では

あるが、非常に頼りにされているようだ。それは碧国に付いてからも変わらず、虎間の競争意識を超え、

石迅と共に皆に慕われている。

 援軍として来た、恒封とも仲は悪くないらしい。自尊心の高い虎出身である恒封が、自身の軍勢を丸々

石迅と楚峨に任せるというのだから、実力、名声共に、相当なものである事が頷ける。

 楚峨は今日も汚れた衣服をそのままに、だらしなく空を眺めていたが。壬軍が進軍を開始したと聞くや

否や、彼を知る者ならひっくり返りそうな機敏な動作で支度を整え、すぐさま石迅の居る城内へと走った。

「きやがったな、黒尽くめ! 俺が居るからにゃあ、ここは簡単には落させんぜ。石迅の旦那の力と虎の

意地、最強と謳われる黒さん達に見せてやらぁ! ・・・・あ、恒封の旦那の力も忘れちゃあいけねえ」

 何故か嬉しそうに大股で走り行く彼を、民達は物珍しそうな顔で見送った。

 しかし彼の奇怪な行動には慣れているらしく、暫くすると飽きたのかいつもの暮らしへと戻っていく。

戦時だろうと太平だろうと、彼らのやる事は変わらない。

 壬本軍は今も粛々と進んでいる。




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