4-6.神威の波動


 楓仁は敵を目前にしても何ら変えず、雷光の如く突進を続けた。

 下手に時間と策を労するのは無用と考えたからだ。

 まず、碧が迎撃に出た事に計画性が感じられない。楓仁が思うところ、これは発作的に、或いは反射的

に行動した結果に過ぎない。

 とすれば、伏兵や落とし穴など、そういった手の込んだ事をやりようがなく。昂武防壁上から、例え実

際に届いたにせよ、無謀な遠距離射撃などをした事が、逆に彼らの実情を表している。

 つまりは無理せざるを得なかったのだと。

 兵達の中には、今まで経験した事がなかっただけに、この遠射をおそるべき大胆不敵の策だと思ってい

る者が居るようだが。楓仁はそれはまやかしであると悟っている。そう思わせる事が碧軍の狙いであり、

それ以上の意味はそこに無い。

 見抜いてしまえば。愚策とまでは言わないものの、こけおどし程度にしかならない。

 だから進む。小細工無用、勢いに乗ったまま真っ向からぶつかるのみ。

「或いは我らが秘策を察したのかもしれぬ。しかしだからと言って昂武の窮地が変わるわけではない。例

えそれしかなかったにせよ。この楓仁の前に軍を進め、決して無事で済むと思うな」

 壬軍は大いに駆ける。

 両軍共、敵軍への不安を隠そうとしている現状(碧は余裕の無い事を、壬は遠射攻撃時から残る不安を)、

すでに鎮めたとはいえ、一度兵を乱されている壬が不利であろう。

 結局一度乱れた兵に、例え百万言を言い尽くしたとしても、おそらく何の効果も無い。楓仁への信頼で

一時は回復したが、一度乱れた心は自ずと乱れやすくなる。

 突撃に専念させる中には、兵を動かし続ける事で余計な不安を感じさせまい、という考えもあるのだ。

 今は勢いを生む事が何よりも肝要。敵にも必ず不安がある。そこを突き崩し、勢いと共に兵の心を勝利

への歓喜で埋める。兵の乱を完全に鎮めるには、敵者を乱し、破る以外に方法は無いだろう。

「黒竜の一点突破、今お目にかけよう!」

 隊列などはいい。例え楓仁一人であっても、必ず敵陣を打ち砕いてみせる。ただ前へ進むのみ。

 彼の決意は燃え上がり、闘志が爛々と満ち溢れていた。

 目前には敵先陣がもう触れられるような距離に在る。恒封率いる四千の兵だ。

 先頭に将は見えない。どうやら後方にて指揮をする型であるようだ。さほど武力に自信がないのか、自

らの安全を重視する者なのか。

 それならばそれで好都合。一挙に将の首をとるのも良いが、前線に将が居ないと言う事は、兵が乱れや

すい、崩れやすいという事でもある。

 如何に有能な部隊長が居ようと、所詮部隊長も兵の一人でしかなく。兵が仰ぎ見るのは常に将である。

「戦に出れば死ぬだけよッ!」

 楓仁は逆巻く風のように敵陣へと突き込んで行った。


「落ち着きなさい。慌てずに対処するのです」

 冷静に見せつつ、恒封は内心ここに来た事をはや後悔し始めていた。

 元々碧に執着心、忠誠心があったわけではない。日々生きる事だけを考え、人並み程度の野望はあった

が、さりとて王を望むではなし。自分にどうという才も無い事は解っていた。

 それが運良く虎長になれ、そして今碧の一星、天相将軍にまでなれた。好々爺と見せかけ、あらゆる手

練手管を利用してきた事は確かであるが、これもまた幸運の結果でしかないと思っている。

 人並みの野望を満たすには、もう充分だろう。

 彼を良く知る者は、彼を狸と呼ぶが。自分ではさほど度胸があるとも、策が立つとも思っていない。

 こんな大軍の指揮を出来る程器用では無く、先頭に立つ程の勇気も無い。

 頼める部下もおらず、信頼出来る誰かが居る訳では無い。

 何も無い。人並みを過ぎたモノは、何ら持ち合わせていないのだ。

 それが見よ、あの怪物馬を。なんと言う雄々しさ、なんと言う恐ろしさ。あれに比べれば、自分の乗っ

ている馬など、子犬も同然。しかもそれを修羅が駈っている。敵うはずがなかった。

 兵も大して懐いているわけではない虎の寄せ集まり。更に今率いるのはほとんどが石迅の手勢ときてる。

初めから信頼も薄く、信頼されなければ満足に統率など出来る筈が無い。

「わしが悪い訳ではない。状況が、運が悪いのだ」

 正直な所、恒封は今すぐここから去ってしまいたかった。だがそれをしては、おそらく命はあるまい。

戦場から逃げた将など、一体誰が好意を持つか。碧にしろ壬にしろ、いずれ捕まればろくな事にならない。

 まだ壬なら良いが、碧に捕まれば、必ずあの趙戒は逃亡兵を殺すだろう。慈悲心など欠片もあるまい。

 我ながら惨めな事になったものだと、諦めて指揮を続けているが。果たしてそれもいつまで持つか。

 振り返って考えれば、楚峨とかいう坊主頭は何を考えて出撃したのだろう。野戦で壬に敵うのならば、

初めからあんな小さな国など滅んでいるのだ。賦族や双の明辰(ミョウタツ)でさえ凌いだような軍を、

一体誰が撃ち破れるというのか。

「賢しらぶってからに!」

 今も楚峨は後方で小憎らしいくらいに冷静に戦況を見ているそうだ。そして伝令は言う、今しばらく持

ち堪え、敵兵の疲労するのを待てと。そして昂武まで一歩でも近く誘き寄せよと。

 何故そんな事をするのかさっぱり解らない。突撃兵を立ち止まって待ち構える事が、一体どれほど怖い事

か、あの坊主は知らないのか。

 何故自分がやらないといけない。何故こんな破目になったのだ。せめて夢であってくれたなら。

 恒封は恐怖と絶望に押し潰されそうになっていた。

「くッ、もしわしに何かあれば、きっと化けて出てやるからな」

 しかしこうなっては楚峨の言う事に賭けるしかない。恒封には初めから策はないのだから。

「ええい、奮え、奮えい! 行くのだ、前へ進むのだ! 何でもいい、戦え、叫べッ!!」

 恒封は押され続ける兵達を必死に立て直し、最早前も後ろも同じとばかり、最後には味方を押し上げる

ように自ら前進を始めた。それは微々たる力であったかもしれないが、それでも味方兵にはとても頼もし

く見えたようである。  


 たった五千、碧軍の半数にしてその強さは脅威でしかない。

 後方で見る楚峨にも、その恐怖は伝わってきていた。先頭を駈る楓仁は正にバケモノ、恒封はよく兵を

支えられているものだと、他人事のように感心している。

 それくらい現実味の無い光景であり、誰が言ったか知らないが、修羅とはよく言ったものだとも思った。

 心底をヤスリで切り裂かれるような鈍い危機感が走り、どうにも落ち着けない。

 しかし彼も歴戦の虎、戦は所詮一人ではどうにもならぬ事を知っている。確かに恐るべき力であるが、

人の力は無限に湧く訳がなく、単騎でいつまでも自在に駆けられる筈もない。

 楚峨は自部隊を密かに両翼に分け、恒封の左右から壬軍を包囲すべく移動を開始させていた。

 防壁上からの弓矢もいつからか止んでおり、壬軍は恒封のみに目を奪われている。今なら容易く側面を

突けるはずだった。

 後はどれだけ恒封が軍を保ち、どれだけ昂武へと壬軍を引き寄せられるか。つまりは楚峨の苦肉の策が

どれだけ有効に作動出来るか、それだけが希望であり。あるとすれば、それが唯一の勝機。

 楚峨はゆっくりと軍勢を移動させる。焦ってはいけない。恒封の率いる軍勢が壊乱してしまえばそれま

でだが、出来るだけ引き付けなければ。壊乱するか保てるか、そのぎりぎりの点を見定める必要がある。

 もっと近く、もっと長く。腸を絞りきるような思いで、楚峨は祈り続ける。

「なんてえ男だ・・・、あれが人間かよ・・」

 それでも迫り来る楓仁を見る度、どうしようもない敗北感と絶望感を与えられた。或いは彼の武力より

もむしろ、敵者の心を砕く点が修羅と呼ばれる所以なのだろうか。

 どちらの力も決して弛む事無く、確実に碧軍を打ち砕き、路傍の石のように蹴散らしていく。

 手にする大槍は魔物のように兵を喰らい、振う度に命が消し飛ばされ、悪鬼羅刹もかくやと言わんばか

り。とてもとてもまともにやりあえる相手ではない。

 賦族ですら恐怖したというその姿、決して嘘偽りはないようだ。

「せめて後もう一息、もう一歩でも前へ前へ」

 今まで考えた事も無い敬虔さで天に祈る。

 不可能を可能にする武の神、大聖真君よ我が意を聞けよと一心に願い続けた。

 そのせいかどうかは解らないが。恒封は脅威の粘りで軍を保ち続け、流石にもう前進は出来ないまでも、

必死にその場に踏み止まり。外面も何もなく息も絶え絶えといった風だが、それでもどうにか指揮は続け

ていられ、兵達も一応軍としての姿を保てている。

 普段とはまったく違う恒封の形相、気迫、半ば見る者に恐怖すら抱かせるそれに押され、どうにか兵達

は自身を保っていられるのだろう。

 恒封は腹を括っている。楚峨にもそれだけは解った。幸いにもここにきて、まったく期待のなかった男

が驚くべき粘りを見せてくれた。これを奇跡と言わずして何と言おう。

「たまにゃあ祈ってみるもんだ。ようし、よーうし、いける、いけるぜこりゃあ」

 すでに楚峨の予想していた距離よりも昂武へと近付いていた。楚峨の部隊もそれに合わせて後退を強い

られるくらいで、正に恒封は一世一代の仕事を成し遂げていると言えよう。

 ただ一つ心配なのは敵の増援。出来ればこれが来るまでに決着を着けておきたい。

 五千の兵でも苦戦を強いられる現状で、これ以上兵が増えられては堪らない。

 しかし焦って手を出しては、全てが終わる。楚峨が攻める、つまりは壬軍の進軍を止める時期、それが

問題であった。

 だがどうやら限界が来ている。隊列は乱れに乱れ、あって無きが如し。いつ混乱してもおかしくなく、

恒封の狂気にも似た気迫で持っているにすぎない。

 後もう少し、その点で止めておくべきだ。長年の経験から楚峨は決断を下し。

「よし、全隊速度を上げろ。左右から敵将へ挟撃を仕掛けるぜ。俺に付いてきやがれッ!!」

 自身にも迫る恐怖を振り払うかのように、珍しく大きく咆哮したのだった。

 楚峨は死すら覚悟し、遮二無二に攻撃を加えさせ始めた。




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