4-7.明けて喰らいし仄かな悟り


 楚峨の目論見通り、左右から挟撃を加えられ、応戦の為壬軍はこれ以上恒封を追う事が出来なくなり。

その場に打ち付けられたかの如く、進軍を止める事となった。

 突出していた楓仁も引き返すしかなく、碧軍は壊乱一歩手前で救われた。

 ただ、恒封率いる軍勢には最早力は無く、そのまま昂武へと撤退するしかないようで、挟撃する楚峨と

連携をとって反撃に移る事は無理である。

 とは言え、壬軍は大きく前後に広がった形になっていた為、いざ横から突かれれば脆く、兵の収容も難

しい。恒封を無力化する事は出来たものの、不利となった状況に変りなく。楓仁の額にも汗が滲んだ。

「抜かった」

 何かやるだろうとは思っていたが、予想以上に楚峨率いる軍勢の攻撃は激しい。逆に言えば、そこまで

しなければ黒竜の突撃は止められない、という事になるのだが、その点は何の気休めにもならない。

 碧兵は半数が横から突き崩そうとしながら、残り半数は自らを障害物のように壬兵の前に置き、数人が

一つの塊となって、突撃を文字通り身をもって防いでいた。

 一人二人ならまだ弾き飛ばす事も出来ようが。三人四人と増えるに従い、確実に勢いが削られていった。

速度が落ちれば、当然威力が落ちる。失速すれば突撃は突撃足りえない。

 碧軍にも犠牲は少なくなかったが、それ以上に壬軍の士気は落ち、目に見えて勢いを失した。流れは碧

の側にある。

 自らを盾にして突撃を止めるとは、よほど将と兵の間に信頼があるのだろう。そして覚悟があるのだろ

う。たかが虎と見ていてはとんでもない事になろう。

 楓仁は虎という存在を見直すと共に、その内に覚悟が宿っている事を知ろうとすらしなかった自分を恥

じた。何処かで所詮は虎と侮っていた自分に、抑えようの無い怒りがわく。

「そうだ、虎とて武の者。中には本物の漢も居るだろう。竜だけが兵(つわもの)ではない」

 そして失態を雪ぐべく急ぐ。

 完全に肉壁によって塞がれ、楓仁と兵とが分断されてしまっている。彼が居なくとも、各隊長が各々上

手く立ち回るだろうが。将と分断されてしまったという負い目は、大きく兵の士気を下げるだろう。

 一刻も早く体勢を整え、今一度攻勢に出なければならない。攻めなければ流れを引き寄せる事は出来な

いのである。

「落ち着け、覚悟なら我らにもある! 今こそ黒竜の力を見せてやる時ぞ!!」

 暫し周辺を駆け回り、点々に散っていた兵達をまとめる事に全力を注いだ。

 全て合わせても数百集まれば良い所であろうが、それでも一部隊として機能出来る。この軍勢を肉壁に

背後からぶつけてやれば、いくら強固に塞いでいようと平気ではいられまい。

 しかしそんな事を簡単に許す楚峨ではなかった。

 彼は必死に兵を鼓舞し、驚くべき事に自らも壁の一部となって兵に勇気を与えながらも、その意識は常

に楓仁に在った。

 完全に分断され孤軍となって尚早々と立ち直り、すでに兵をかき集め始めている楓仁に脅威を覚えなが

らも。時は今とばかり、防壁上に居る弓兵隊に向って合図を出させた。

 それを受け、休んでいた弓兵達が未だ疲れの残る体に鞭打ち、即座に楓仁に向って矢を射掛け始める。

 長大な弓から放たれた矢は未だ距離のある楓仁の元へも容易く届き。その威力は落ちる事無く、唸りを

上げて襲い掛かった。

「くッ!?」

 闇夜の為に命中率は悪かったものの、何百と撃たれた中の一本が楓仁の顔に飛来し、危うく顔を逸らせ

て直撃は避けたものの完全に避け切れず、あろう事か右目を削り取られてしまった。

 体勢が崩れた彼を狙って更に一本の矢が襲い、深々と左腕に突き刺さる。

 落馬する事だけは免れたものの。友の窮地を察した黒桜が急いで矢の集中する場所を離れなければ、流

石の楓仁もどうなっていたか解らない。

 残った片目で辺りを見渡すと、犠牲者は彼だけでなく、数十名もの兵が倒れ伏し、屍には全て矢が突き

刺さっているのが解った。

 あの強弩にも匹敵する威力かもしれない。壬の誇る鎧が見事に貫かれている。

「これを狙っていたか。我が運もこれまで、天は我が上にあらず・・・・。いや、違う!」

 傷の痛みと敗北感が暗い影を落しつつあった心を、しかし楓仁は無理矢理燃え上がらせた。

「天が我らの上にあればこそ、わしは助かった。天の加護なくば、わしも射抜かれた屍になっていただろ

う。これは天にあらず、我が心の弱さ故に起きた事。碧を虎を侮っていた我が弱さ、それを天が罰したに

過ぎぬ。不甲斐無きは我が心。不覚、修羅などと呼ばれて浮かれていたか」

 射撃は止んでいた。おそらく弓兵に限界がきたのだろう。これ程の距離がありながら、まだあれだけの

威力。どれだけの強弓を使ったか、おぼろげながら察せられる。

 人間が長時間使える代物ではあるまい。だからこそ、先といい今といい短時間で止んだのだ。

 とすれば。

「すでに碧の策は尽きた。片目片腕くれてやろう。しかしその程度でわしを止めたと思うなよ!」

 楓仁は血塗れの体で僅かながら集まった手勢を率い。迷いも侮りも無く、雷光の勢いで再度突撃を開始

した。目指すは肉壁、例え一騎になっても必ずあの壁に穴を穿つ。 


「なんと、仕留めたかよ」

 楓仁に矢が数本命中したのを見、楚峨は狂喜した。

 確かにそうなる事が最善ではあったが、まさかこうも上手くいくとは思っていなかったからだ。

 これで楓仁が致命傷でも負ってくれれば、或いは壬の武を根こそぎ奪えるかもしれない。すでに壬王が

石迅との一騎打ちで負傷している以上、楓仁さえいなければ、いくら精鋭揃いの黒竜とて怖くはない。

 だが狂喜できたのも、碧の幸運もそこまでであった。

 確かに楓仁に矢が当たり、深刻な被害をもたらした。そして一時は落馬しそうにすらさせた。しかし数

秒の後、姿勢を正したかと思うと、今度は以前にも増して鬼気迫る勢いに変り、楚峨達のいる肉壁へと突

撃を開始したではないか。

 むしろ傷を負った事で、怒りと勇猛心が湧き、獅子のように楓仁を燃え立たせたのかもしれない。

 血塗れになりながら尚猛る楓仁を見、彼に続く兵達の心も火山のように滾(たぎ)っているに違いない。

「ちッ、やっぱバケモノだったかよ!」

 策は潰えた。

 将と分断され士気を失していた壬兵も、猛進する楓仁を目にすると見る間に勢いを取り戻し。将軍を助

けよとばかりにその攻撃は刻一刻と苛烈さを増して、彼らを塞き止めていたはずの壁も、少しずつ押され

始めている。

 挟撃されているという事も忘れたように、壬兵もただ楓仁だけを見、彼だけを目指して一直線に前へ前

だけへと進軍を開始したのだ。

 左右から挟撃し、しかも一度は壬の突撃を止めたという優位性があってこそ、壬兵の心に敗北感が生ま

れ、初めて碧軍は優勢に立てていた。

 それを失ってしまえば、単純な力勝負で壬軍に敵うはずがない。

 本来ならば楓仁を孤立させた所で包囲殲滅するはずだった。それが出来ていれば、例え矢を凌いだとし

ても止めをさせたろう。

 しかし壬の猛攻は想像以上であり、包囲にまで割く兵がいなかった。恒封の軍勢にも力なく、最後の最

後で及ばなかったのである。楚峨と恒封、そして碧軍は良くやった。ただ及ばなかったというだけの事。

 楓仁を傷付けられただけで僥倖(ぎょうこう)だったかもしれない。

「・・・・・ここまでかい。撤退するぜ!」

 今から撤退したとて、碧軍は甚大な被害を受けるだろう。兵力を使い尽くした今、昂武に戻るまで盾に

使う兵が手元にいないし。今更何千と兵が居たとして、果たしてどれだけ持ち堪える事が出来るか。

 しかも壬援軍の鳴らす太鼓や足音と振動がここまで聴こえてきている。時間切れ、後は粉々に粉砕され

る以外の道は無い。一割も帰還出来れば上々だろう。

 楚峨は死を決した。

 例え今昂武に残してある兵を全て出したとして、その兵団ごと昂武まで押し切られ、簡単に落とされて

しまう可能性がある。それなら最後の最後の為に、兵力を残しておくべきだ。

 後にはまだ石迅が居る。

 そうとなれば楚峨の最後の役目として、なるべく多くの命を助ける事だけ考えるべきだろう。碧の為に

死んでやる義理も無い。負ければ虎らしく逃げればいい。壬も無用な血は好まないはず、戦意を失して散

り散りに逃げれば、それ以上追ってこまい。

 少しの間だけでも壬軍の動きを止められれば、存外大勢逃げられるかもしれない。

「弓兵に牽制・・・・・いや、無理言っちゃあなんねえな」

 頼みの長弓兵は昨日今日作った兵団ではないが、所詮は俄作り。人間の筋力の限界を強いるように作ら

れた弓なのだから、すでに力尽きた以上、例え今射させても惨めに足下へ矢が転がるのみだろう。

 彼らも良くやった。楓仁に傷を負わせたのだから、それだけで勲章ものだ。

 策は潰えている。これ以上、壬軍の足を止める事は無理なようだ。

「ちッ、最後は人間逃げ足の速さだけが頼みかよ。ようし、もし生きて戻ったら、褒めてやるぜえ。さあ、

虎の逃げ足、見せてやろうじゃあねえかッ!」

 碧軍は壬の進軍にあわせるようにして後退し始めた。すでに壬軍に押され気味であったから、命じなく

ても下がらずにはいられなかっただろう。後は壁を抜かれないように、どこまで我慢出来るかが勝負。

 しかし辛いのは背後に待ち構える、いや、正に鬼か修羅のように猛進してくる楓仁の姿である。

 見るだけで肝が竦む。楚峨はせめて兵達がこの修羅の姿を記憶して死なない事をだけ祈った。鬼なんて

ものは、死ぬ前から見るものではあるまい。

 しかし鬼は迫る。




BACKEXITNEXT