5-10.焔を貫け


 炎へと斬りつける。床に燃え広がってる分は仕様が無いが、せめて置かれた木々だけでも排除しようと

したのだ。

 例えそうした所で大差ないにしろ、微量であるが突破率は上がるというもの。ならば行なう事が、最善

を尽くすと言う事だろう。どれだけ細かくても微量でも、やればやるだけ効果が出るのだから、これ程頼

りになる事が他にあるだろうか。

「シッ!!」

 そして駆ける、炎の海を。四方八方燃え広がる炎の中を、果敢に進んだ。

 最早背後は完全に炎に没し、辛うじて室内中央の辺りが残っている。勿論、そこまでに趙戒の火薬で出

来た炎壁を突破しなければならない。

 無謀に思える。いや実際無謀だろう。だがそこしか道は無い。

 このままこの場所に居ても、燃え尽きるのを待つのみ。だから進む。足下から立ち上る熱気を捩じ伏せ

るかのように、一心に進む。

 人が炎に入れば当然燃える。しかし蒼愁の纏う、蒼き衣がそれを救った。海のように空のように澄みき

った蒼い衣は、炎に燻(くすぶ)りながらも燃え上がる事は無かった。色はくすみ、髪は焦げていく。そ

れでも燃え上がる事は無かったのだ。

 碧嶺が与え、趙深が残してくれた遺産。そして壬と賦族が作ってくれた強靭な甲冑と衣服が、彼を守っ

たのである。

 戦地には火が付き物。自然に鎧や衣服には防火技術が施されている。勿論燃え難い程度のものではある

が、そのほんの少しの差が命を救う事は多い。

 生還も戦死も紙一重である。最後は運になるが、それでも運だけに頼るのは、生を諦めたと同義である。

人を殺してまで生きようとする以上、それだけはしてはならない事だろう。

「ごふ、ごふッ」

 燃え上がらないとしても、炎の恐怖はそれだけではない。むしろ熱風と煙が大敵である。

 喉が焼けるように痛んだ。涙も止まらない。

 炎壁は幸運にも抜ける事が出来たが、煙と熱風からは逃れる事が出来ない。この城から逃げない限り、

いずれは燻(いぶ)り殺されよう。身を低くして煙を避けても、時間稼ぎにしかなるまい。

 急がねば。しかし無闇に進むのも危うい。

 この先には趙戒の脱出路があるはずだが、場所が解らない以上、猛進するのは控えるべきだろう。

 ここまで炎が猛った以上、そこにだけ炎が行っていないとは言えないし。それ以前に、果たして趙戒が

そのまま脱出路を残しておくだろうか。

 彼の性格を考えれば、万全を期し、自分が使い終わった後、その道を閉ざすか破壊しているに違いない

のだ。下手に希望を持つと、手酷くやられる可能性が高い。

 ならばどうする。ここで焼け死ぬか。いや、それならば。

「ままよ」

 蒼愁は決意した。

「どうせ死ぬなら」

 再び剣を振り上げ、驚くべき事に、自身の居る床を丸く刳り貫くように切り裂いたのである。

 無論、城の床が容易く斬れる訳が無い、切り痕がついただけだ。だが炎で脆くなっている事もあり、そ

こへ何度も体重をかけて踏み付ければ、いずれ落ちる。

 こうして蒼愁は無謀にも床下へと落ちたのだった。


 急降下し、暫く後、足に痺れが走った。痺れくらいなら幸運だろうが、痛いものは痛い。

 蒼愁は少しの間、じっと痺れに耐えた。

 思った通り、床と階下の天井の間には小さな空間が作られている。基本的な設計は壬と変わらないよう

だ。城自体の規模が大きいだけに、壬の城よりも広く高いが、まあ痺れたくらいは良いとしよう。

 天井裏を想像してみれば解るだろうか。ここならばさほど高低差が無く、上から落ちても死ぬような事

は無い。閉鎖的な空間であるが、その分火の侵入が遅く、多少は持つ。何より、煙が上より少ないのが嬉

しかった。

 だがいつまでもこんな所には居られない。

 依然炎は城内を包み。閉鎖的であるからには呼吸も困難である。

 上が炙(あぶ)り焼きなら、こちらは蒸し焼きといったところか。

「ごふ、ごふッ」

 蒼愁は咳き込みながら、足の痺れと折り合いをつけつつ、再び床に穴を開け始めた。

 次はかなりの高さを落下する事になる。運が悪ければ死ぬかもしれない。階下もすでに炎に包まれてい

るから、そのまま焼け死ぬ可能性もある。

 だがここよりはましである。確実に死ぬよりはいい。

 ままよ、その一言で真に簡単ではあったが、蒼愁の心は決している。今更迷う必要は無かった。

「大聖真君よ、私に天運あるのならば、そのお力、少しだけお貸し下さい」

 彼は床下から漏れる光の中へ、すっぽりと身を滑り込ませた。

 赤と光が目に飛び込んでくる。  


 蒼愁は運悪く炎の真っ只中へと飛び込む格好となってしまった。

 したたかに身体を打ち、転がって衝撃を逃がそうにも、この炎で下手に動けばまつげまで焦がすのが落

ちであろう。

 ただ一つだけ幸いな事に、上階よりも火の回りが遅い。最上階から連鎖的に爆発しただろう事と、この

炎は城を焼くというよりも、むしろ城内に壬軍を閉じ込める為にあるから、逃れる可能性の薄いこの上階

に火の種が少なかった事が幸いしたのだろう。

 しかし火勢が衰えない以上、遅かろうと早かろうといずれは燃える。

 早く階下へ行かなければ。王の安否も気になるし、もし王が城内へ踏み入れてなければ、蒼愁が指揮を

せねばならない。この非常時には何よりも的確な判断と指示が必要になる。

 出来れば落ちていくのが手っ取り早いのだが。痛む身体を思うと、天井から落ちるという無茶な真似を、

そう何度も試すわけにもいかないようだ。

 馬鹿な真似をしたのだから、痛い目に合うのは当然なのだが。もっと身体を鍛えておけばと、蒼愁は痛

みの中でどうにもならない事を悔いたりもした。

 どれだけ鍛えたとして、痛いものは痛いに決まっていように。

 落ちる方が悪い。人は皆そう言うに違いない。

 勿論、彼も馬鹿な嘆きだとは解っている。解ってても言いたい所が人間なのだ。

「ともかく、私にはまだ天運があると言う事」

 蒼愁はけろりと後悔した事を忘れ、自分を励ましながら立ち上がり、必死に脱出路を探した。

 ここはまだ出口を炎で塞がれていないようである。趙戒もまさか蒼愁が床に穴を空けて落ちるとは思う

まい。この階は幾分手薄であるらしい。

 足も何とか動きそうだ。本当に大聖真君が守ってくれたのだろうか。

 そうかもしれない。

 碧嶺、趙深、どちらの血をひいているにしても、助ける理由はいくらでも考えられる。

 人の気まぐれな願いも、神はたまには聞き入れてくれるのだから。趙戒の暴挙を止めたいのは彼らも同

じである以上、聞いてやらない方が無理というもの。

 とすれば、蒼愁に天運があるかどうかは疑問になってくるのだが。まあ、彼の名誉の為にも、そこまで

突っ込むのは勘弁しておこう。

 蒼愁は一番炎の薄い場所を見定めた。そして剣を杖代わりにしながら、必死で走る。

 ここでも司譜に鍛えられた成果が役に立った。参謀府にてずっと書類と格闘していた頃を思えば、彼の

筋力は飛躍的に上昇している。それが無ければ、果たして今無事で走れていたかどうか。

 蒼愁は司譜に感謝の念を捧げた。

「生きて下されば良いのですが・・・」

 そして祈る。現状でも司譜の生存は絶望的とされていたが、それでも最後の最後まで諦めたくは無い。

 せめて遺体が見付かるまでは。

 必死に廊下に駆け出ると、逆巻く炎が出迎えてくれた。

 しかしここまで来ると、ちらほらと兵士の姿が見える。蒼愁に気付いた者は、すぐさま手助けに来てく

れた。そういう風に訓練されてるとはいえ、やはりありがたい事である。

 骨は折れてないとは思うが、背中の辺りが酷く痛む。おそらく戦後暫くは布団の上で過ごす事になろう。

 手助けはありがたい。

「大丈夫ですか!?」

「はい、何とか動けます。それより軍の被害は」

「それが・・・・」

 兵士は顔を曇らせる。

 勝機に乗っかっていた時だけに、不意の炎には多大な被害が出たようなのだ。

 彼らもまさか趙戒が城まで焼くとは思っていなかった。罪があると言えば、予測できなかった将の方で

はあるが、それとても責める筋合はないと思われる。

 守るべく篭城した城を、誰が焼こうなどと考えるだろう。狂人の思考は狂人にしか解らない。それを責

めるのは可哀相というものだ。

 しかしそうは言っても、予測できなかった事が悔まれる。趙戒をまだ甘く見ていた。

 蒼愁は激しい後悔の念に包まれた。もしかしたら回避できたかもしれない。そこまで出来なくとも、被

害を抑えられたかもしれない。

 勝機と見て突入させた事が、今明らかに裏目に出ている。

 不幸中の幸いとして、王は無事らしい。城内に閉じ込められ、今も脱出法が見つかっていないと言うが、

この状況では命があるだけ幸運だと言わざるをえない。

 王も突如現れた爆音と炎には驚いたが、すぐに正気に還り、怪我人を探す為に軽傷の者達を選び、各階

へと派遣させたらしい。

 道理でこの兵士には火の痕が見られないはずだ。

「趙戒はすでに逃げました。この城には裏口もあるでしょうが、おそらく趙戒が塞いでいるはず。こうな

れば壁を破壊して脱出するしかありません。王にそう伝えて下さい。趙戒相手では、無茶でもしなければ

裏をかけないと」

「はッ!」

 兵士の一人が蒼愁から離れて行く。このような事態でも軍の統制がとれているのだから、見事なものだ。

 蒼愁も支えてくれている兵を解放し、伝令の後を追い階下へ向った。

 趙戒の消えた方角を考えれば、ある程度逃げた方向を推測出来る。脱出法は王に任せ、自分は何として

も趙戒を追わねばならない。

 王にはああ言ったものの、未だ城内に居る可能性はある。

 ひょっとしたら紫雲緋が何かやってくれる可能性もあるし、希望を捨てるには早過ぎた。

 楓仁と白晴厳の事も気にかかったが、それは王に任せた方が良いだろう。それにあの二人ならば、誰に

心配される事も無く、一人で逃げ出しているかもしれない。

 しかしとんだ事になったものだと、溜息が漏れるのまでは、抑える事が出来なかった。   




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