5-9.全ては発端へと収束す


 趙戒は冷笑を浮べ、蒼愁を睨んでいる。

 動揺しているのか、一向に気にしていないのか、どちらともつかない顔だ。

「貴方にまでそのような事を言われようとは・・・・、しかし良いでしょう。どの道ここで消え逝く命な

らば、その言葉も許しましょう! せいぜい吠える事です。最早誰もこの炎を止める事は出来ません」

「紫雲緋様や白晴厳殿まで炎で滅してもですか!」

「心配なさらなくとも、紫雲緋様の命に別状ありません。残念ながら白晴厳殿と楓仁殿までは手が回りま

せんでしたが・・。しかし紫雲緋様さえ生きておられれば、彼らも納得して冥府へ逝かれましょう。紫雲

緋様を私が補佐すれば、必ずや賦国再興は成る。紫雲緋様さえご健在ならば。

 ・・・確かに碧は壬と共倒れになりますが、それも壬を滅ぼす為と思えば、高くは無い代償だ。楓仁殿

さえ理解してくれれば、壬と手を結ぶ事も出来たのですが・・・・、今となっては詮無き事です」

 火中にいて尚この落ち着き様。おそらく逃亡する為の道が用意されているに違いない。紫雲緋まで手が

回っていると言う事は、これが突発的ではなく、ある程度事前に計画されていた事を意味する。

 そしてそれは同時に、白晴厳と楓仁が、初めから置き捨てられる計画であった事も意味する。しかし、

こういう用意周到さだけは、凱禅と同じく、評価するに足る素養だろう。

 後はもう少しその配慮を他人にまで伸ばしていれば、彼は一角の人物になれたかもしれない。そうであ

れば、或いは碧国も終焉を迎えなかっただろうに、惜しい事である。

 何故に彼はこうも非情であるのか。何故に彼はこうも己をしか思えないのか。

 半ば魔術を使うような手ではあったが、碧建国にまで到った彼の手腕は評価されても良いと思える。不

安要素も多数あったが、初めから捨て駒にするのでなければ、もし虎の心を捉えられていたなら、碧は漢

すら覆す強大な国家になる可能性もあっただろう。

 例えるなら、もし趙戒に漢嵩のような声望があったなら、楓仁、紫雲緋のような勇名があったなら、一

体どのような事になっていたか解らない。

 趙戒は確かに時代の分岐点に居たのだ。それは間違いない。覆すのも、維持するのも、何もせずに滅び

る事さえ、ただ彼一人次第であった。選択肢はおそらく彼だけが決められた。それを思えば、彼は間違い

なく歴史を動かした一人であろう。

 大げさかもしれない。

 だが少なくとも碧嶺は、虎なんぞよりも遥かに御し難い兵士と民衆を率い、従わせ、全土を統一したの

である。碧嶺の時代背景を考えれば、彼自身の卓越した能力を差し引いても、実力と王になる資格を示せ

ば、それだけで正当性が生れる今の時代、虎の王として君臨する事も、決して不可能ではあるまい。

 元凱の民達も表面上は碧を受け入れ、趙戒に大人しく従っていたのだから、可能性はあったのだ。

 しかし趙戒は時代や背景、人の心、国民という集団、そういったモノを一切理解しようとしなかった。

いや、しようとすら考えた事がなかったに違いない。

 言ってみれば、彼のその虎狼のような心が双、凱、賦といった国家を滅ぼし。逆に漢という強大な国家

を誕生させた。それを彼自身は解っているのだろうか。全てとは言わないが、少なくとも半分は彼の責任

であるだろうと言う事を。

 趙戒こそが、賦を滅ぼす発端となった人物であり、大きな要因だったのだと。

 漢嵩を解き放ったのも半ばは彼であり、言わば漢嵩と趙戒が、ここ数年に到る大規模な変化をもたらし

た張本人だと言えよう。

 そして今漢嵩の命は消えようとし、趙戒は炎の中、狂気に包まれている。

 皮肉と言えば良いのか、それとも業と言えば良いのか。偶然か、運命か。それともこれこそが人であ

ると言うべきか。

 蒼愁の脳髄に様々な思いが浮んでは消えて行く。

 その中で一つだけ解るのは、この趙戒という男を、このまま行かせてはならないという事だ。

「貴方は、貴方自身が賦族を滅ぼしたのだと、何故解らない。何故、認めようとしないのだ!」

 そして叫んだ。炎に包まれ、進む事も退く事もままならない。しかし言葉だけは届く。例えそれが無意

味だとしても、欠片でも方法が残されているのなら、絶望する前に、その欠片すら消えてしまう前に、全

てを賭してそれを行なうべきである。

 それが壬の風であり、蒼家の風。そして趙深の風でもあった。

「そもそも漢嵩様の投降から全ては始まったのです。いずれ賦か他の国家、どちらかが滅びるしかなかっ

たにせよ。その勢いに拍車をかけたのは、貴方だ、趙戒! ・・・賦族は失敗を他者に押し付けたりはし

ない。誰も何も言わなかった。いや言えなかったのならば、同じ祖を持つ、同じ血を継ぐ者として、私が

貴方に言いましょう。

 趙戒よ、貴方が賦族を滅ぼしたのだ!」

 それを聞き、趙戒の表情は一変した。彫像の如き冷笑を捨て、全身を流れる血は沸騰し、怒髪天を突か

ん勢いで、抑えられぬ怒りが彼の眼光からほとばしる。

 蒼愁が言った言葉は、趙戒が一番恐れ、また触れる事を許さない部分を突いたのである。趙戒は狂って

いるかもしれないが、馬鹿ではない。彼も気付かないふりをしていただけなのだろう。いや、気付いてい

たからこそ、狂ったふりをして誤魔化していたのかもしれない。

 誰よりも賦族の未来を考え、誰よりも賦族を敬愛しているはずの自分。しかしその自分こそが、賦国を

滅ぼし、賦族から力を奪った張本人なのだ。

 その鬱屈した想いが狂気を帯び、自分の心に逃げ出す場所すら失った彼は、一つだけ残った狂気に身を

委ねるしか無かったのかも知れない。

 賦族の潔癖さ、趙戒を責めない優しさが、かえって彼をどうしようもない場所へと、突き落としてしま

ったのだろう。

「同じ血・・・・同じ血だと・・・、ふざけるな! 賦を滅ぼしたのが私だと! ならば貴様こそ、碧嶺様の国家

を滅ぼした張本人ではないか! 貴様こそ、貴様の祖先こそ、碧嶺様の息子でありながら、全ての責を捨

て、国を滅ぼした張本人ではないかッ!!」

 そうして追い詰められた趙戒は、信じられないような事を叫んでいた。 



 蒼愁は困惑に捕えられている。

 趙戒の子孫だと言われた時以上の衝撃が全身を駆け巡る。

 しかしふと我に返れば、疑問だけが残った。そんな事があるはずがないではないか。趙深の長子が碧嶺

の息子だなどと、そのような事があるはずがない。

 そもそも碧嶺の国家は、跡継ぎが居ない為に滅びた。もし碧嶺に子供が居たのならば、重臣達が争う事

はなかったとは言わないが、少なくとも四分五裂するような事にはならず、あのように崩壊する事は無か

っただろう。

 であるのに、子の存在をわざわざ隠す意味が解らない。どのような理由があったにせよ、国家自体が崩

壊するよりはましなはず。

 もし碧嶺に子がいた事が事実だとしても、必ずや趙深が子を立て、乱を治めたはずである。

 碧嶺の無二の親友であり、片腕である大軍師、趙深。彼の言う事ならば、皆従っただろう。従うしかな

かっただろう。

「世迷言を・・・」

 だから蒼愁はそう判断した。

 だが趙戒の視線は冷えない。むしろ火が猛ったように感じる。

「世迷言だと! ならばこれを見よ」

 趙戒は懐に入れていた書物を取り出し、蒼愁へと投げ付けた。あれだけ大事そうにしていた書物を、こ

の炎の中で投げつけるとは無謀としか思えないが、彼の頭の中には最早そういう配慮は無いようだ。

 他の事は一切考えられず、蒼愁を納得させる事のみを考えているように思える。今ならば、その為に何

でもやっただろう。やはり軍師や参謀としては、足りない部分がある男なのである。

 何とか炎の合間を縫って届いたから良いものの、下手をすればこの書物はこの場で焼け落ちていた。

「・・・・・これは」

 慌てて掴んだ書物を紐解くと、中には細々とした出来事が記されている。何がなにやら解らないが、ど

うやら碧嶺や趙深に関する記述が多いようである。

「それは趙深様の奥方様が我らに残してくれた遺産、真の記録。その半ば辺りを開くがいい」

 熱風の中、言われた箇所を開くと、どうやら碧嶺の死後の場面であるようだ。重臣達の行動、そして趙

深の行動、自分と子供達が賦族へ預けられた事まで、様々な事が書かれている。これは趙深が残してくれ

た歴史書と、時間的に寸分の狂いも無い。奥方は細やかな人物だったらしい。

 そしてそれだけにこの書物に信憑性が生れる。この時代に趙深の近くにいなければ、決して解らないよ

うな事が細々と記され、知る限りその全てが事実であった。

 息を呑み、夢中で文字をなぞるように追っていくと、ふと目に留まる箇所がある。

 深呼吸をし、口に出して読んでみる事にした。

「・・・あの子を我が子にする事、何故引き受けてしまったのでしょうか。そして何故今になっても貴方

は名乗り出る事を許さないのでしょう。真実を伝える事を許さないのでしょう。あの子に教えれば、そし

て貴方がそれを推せば、誰が何と言おうと違える事は出来ないはず。ここに碧嶺様のお子がいらっしゃい

ますのに、何故貴方は・・・」

 貴方はおそらく趙深の事、ではあの子は長子の事だろうか。

 更に文字を追う。

「・・・起が碧嶺様の子であると、真実を告げさえすれば、この乱も治まるはずなのです・・・」

 間違いない。趙起(チョウキ)それこそが蒼愁の祖にして、伝えられし趙深の長子の名。

「見たか。それこそが何よりの証拠。貴様こそ、碧嶺様の国を滅ぼしながら、何も知らずに老いて死んだ、

愚かな男の子孫。そんな男と私が同族であると!? ふざけた事だ!

 貴様の祖さえしっかりしていれば、賦族は虐げられる事もなく、今も大帝国は健在であったに違いない!」

 尚も叫ぼうとする様子は見えたが、しかし気が済んで、少し怒りが引いたのか、趙戒は落ち着きを取り

戻し、呼吸を整え始めた。

 大事な書物を投げ渡した自らの行動を後悔しているようにも思えたが、しかし趙戒はその感情も見せよ

うとはしなかった。

 むしろ決定的な物を突き付ける事が出来、大いに満足したようで、満面の笑みを浮かべている。

「その書物は冥府への土産とし、趙深様と奥方様に返してさしあげるといい。大参謀殿、大仰な名だ。貴

方は己が業を背負いながら、虚しく焼け死ねば良いでしょう」

 火の回りが速い。すでに趙戒ものんびりと話している時間は無くなっていた。書物を諦め、捨て台詞の

ような言葉を残し、彼は急いで部屋の奥へと消えて行く。煙が充満しており、最早先が見えないが、奥の

方に脱出口があるのだろう。

 蒼愁は炎の輪の中で、呆然と立ち尽くしている。疲労感に覆われ、暑さで額に汗が滲む。

 しかし彼は我を忘れる事は無かった。悩むのは今ではない。それに書物に記されているからどうだと言

うのか。そしてもしこれが事実だとして、それが一体どうだと言うのか。

「私は趙深の長子、趙起が孫、蒼愁。そして壬の大参謀。それは何も変わらない!」

 手にした書物を丁重に懐へとしまい。些事は捨て、趙戒を追うべく脱出策を考え始めた。

 こんな所で死ぬわけにはいかない。趙戒を逃がす訳にはいかないのだ。

「こうなれば、強引にでも」

 蒼愁は剣を抜き放った。

 彼の前には炎だけがある。




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