騒がしい。 秩序と静寂に包まれて居たはずの城内が、このように騒ぎ始めたのはいつだったか。退屈さが多少紛れ たのは良いが、果たしてこの変化は吉凶どちらなのだろう。 「・・・やってくれたのか、それとも」 楓仁は呟き、髭を撫でた。確信を持つべきかどうか、悩んでいるようにも見える。 彼は王城上層に在る一室に閉じ込められていた。造りは丁寧で住居としては申し分ないものであったが、 窓等外界との繋がりが持てる物が一切無く。おかげで時間の感覚がどんどん薄れ、情報などからも完全に 閉ざされている為、今冬眠から起きたばかりかのような、まるで何かに追い捨てられたかのような、おか しな感覚を味わっていた。 世界にぽつんと独りだけ居るようで、手がかりと言えば聴こえてくる音だけ。しかしその音も小さく、 何かを確信する為には今一つ足らない。 楓仁は捕えられてからずっとこの一室に監禁されていた。 おそらく貴人牢だろう。立場を重んじ、生きるには不便の無い場所に入れられているが。牢屋は牢屋、 その意味は何も変わらない。 他の兵は地下牢に居る。将兵の繋がりを閉ざし、精神を疲弊させる事が牢を分ける一つの目的であり。 その為か、貴人牢を将牢と呼び、地下牢を兵牢と呼ぶ者もいる。 貴人牢は広いがただそれだけの空間で、奇妙な寂しさを覚え、ともすれば思考が萎えそうになる。閉鎖 的でありながら広い空間でもあると言う事は、人が考えているよりも遥かに虚無感を抱かせるものだ。 対して、地下牢は狭く暗く。仲間が居るという安心感はあるものの、生きる事自体が苦痛になってくる。 どちらも人の精神を侵す為の一般的な手段であるが、入れられた将兵の扱いは様々だ。 この時代は碧嶺の法をほぼ受け継いでいる為に、食事や睡眠を侵害される事は少ないが。碧嶺以前は、 牢に入れば拷問で殺されるのが当たり前だったようである。 趙戒も国名に碧を使う事から考えても、無慈悲な扱いはしないと思うが、楓仁は少なからず不安であっ た。する事が無いだけに、考えなくても良い不安が次々に浮かんでくる。 「困ったものだ」 楓仁は手持ち無沙汰に立ち上がってみた。 「じたばたしても始まらないが・・・」 無駄とは知りつつ、暫く室内を歩いてみたが、どうにも落ち着かない。むしろ余計に心が逸っている気 がする。不用意に動くと言うのも考えものだ。 楓仁は結局部屋の真ん中にどっかと座り込み。精神を集中させ、眠るように目を瞑った。 状況が変化した事は確かである。ならばそれが良いにしろ悪いにしろ、必ず彼の許へ何かしらの報が入 るはず。彼が今何をしてもどうする事も出来ないのなら、下手に動くよりも、体力を温存させておいた方 が良い。 例え無数の思考が浮んできても、全て無視すれば良い事だ。 いっそ眠ってしまえ。楓仁は自らにそう言い聞かせていた。 こうして目を閉じてじっと座っていると、慌しさが増しているのが良く解る。 城に満ちる兵気というべきか、士気の総称とも言うべきものといえばいいのか、とにかくそう言うもの が変化していくのが、敏感に感じられるのである。 楓仁も戦場で育った武将、そういう感覚は誰よりも発達していた。 怒声が聴こえ、城内の足音が増え、その音量が少しずつ大きくなる。 騒々しいというよりは、もはや混沌の内にあると言ってもいい。あらゆる音が混じりあい、形容し難い 感覚となって楓仁の五感を刺激する。 そして聞きなれた黒竜の声、それを聴く事で、彼はようやく安堵出来た。 「やはり、やってくれたか!」 思わず膝をぱしりと叩き、まるで誰かを怒鳴りつけるかのような声が出た。 捕えられてよりどれだけの時間が経ったか解らないが、髭の具合と食事の回数を思えば、一日や二日で はない。これまでに何度か大きな動きはあったように感じたが、今日のこの時程確信が持てた事は無かった。 壬軍は勝ったのだ。少なくともこの城内にまで攻め寄せている。 「ならば趙戒は・・・」 勝敗が決した以上、気になるのは趙戒の生死である。 彼が生きている以上、おそらくこの大陸に平穏は訪れないし、何よりこの決戦の決着が着くまい。 趙戒が死ねばそれまでとして、もし生きているとすればどうするだろうか。 十中八九、楓仁達捕らえた将の許へ来るに違いない。特に紫雲緋、彼女を使って性懲りも無く賦族を動 かそうとするだろう。虎の力を失った今、趙戒には賦族しか縋れるものはあるまい。 或いは他に手があるのか。何か奥の手を秘めているのだろうか。 それとも、こうなってもまだ、自らの血と才に期待しているのだろうか。 楓仁が見た所、趙戒には趙深のような天才性は無い。才が無いとは思わないが、天才というのは文字通 り天から与えられた才能であり。何よりもその生き方と環境に、天才を形作る多くの要因があるように思 える。 血だけでは何にもならないのだ。 天才とは様々な血と様々な要因が重なり、偶発的に生れた存在に過ぎない。 確かに天才の血から天才が生れる可能性はあるが、それはあくまでも可能性に過ぎず、その天からの贈 物を受け取る確立は、万人皆同じであろう。 先祖の勇名を糧にし、自らを高く鍛え上げたのならまだしも。ただ先祖の残した遺産に縋り、趙深の一 部しか書かれていないような書物を趙深そのものと思い込み。そんな物を読んだだけで、自らを英雄と同 じだと思うとは、真に哀れ。 趙深の直系、そのような血筋に生れたのが趙戒の不幸だったのだろうか。 惜しいと言えば惜しい。悲しいと思えば悲しい。 楓仁は珍しく哲学的な思考に塗れていたが、それもやはりらしくないと言う事だろうか。答えを見出す 事も無く、走り来る足音にて思考は中断させられた。 「そんな些事は為す事を為し、全て終えて引退でもしてから考えよと、そう言う事か」 楓仁は、いつの間にか再び思考の中へ入り込んでいた事を苦笑しつつ、ゆるりと立ち上がった。 呼吸に乱れなく、身体には希望と覇気が満ちている。今なら千里も一息に駆けられるような気がした。
蒼愁は最上階にまで着いていた。 広く町並みを見下ろせる部屋で、王の私室、司令室のような風がある。おそらく歴代の城主、国王はこ こから城下を眺め、街造りに精を出していたのだろう。 一層を丸々刳(く)り貫いた大広間となっており、調度品も少なく、この城では珍しく実用的な作りに なっている。これもまた凱の名残を見る思いである。即ち、華美の中に実用を、と。 広間の中心には趙戒が居た。 ただ独り、こちらを向いて、睨むような嘲るような眼差しで、ただ蒼愁一点を見詰めている。 そこには敗北の嘆きもなく、ただ蒼愁への恨みがあるかのようで、何となく寂しさを感じる視線だった。 「着ましたか」 「・・・・・・」 蒼愁は黙って頷き、後は黙したまま立ち止まった。この中にも何が待ち受けているか解らない。出来れ ば趙戒に近付きたくはなかった。 しかしそれを平然と趙戒の方から破る。彼は一度目を閉じると、後は微笑を浮かべて歩き出したのだ。 二人の距離がみるみる埋まり、手の届きそうな距離にて彼は止まった。そして蒼愁の持つ細長い剣を見、 数歩下がった後、再び蒼愁と目線を合わせる。 「流石は、と言わせてもらいましょう。祖の名に恥じぬ働き、いや先祖の力を見せられたと、そう言い換 えるべきでしょうね」 蒼愁は何も言わず、指一つ動かさず、静かに趙戒を見返している。 進みはしないが、さりとて退きもしない。 「いざとなればだんまりですか。それも貴方の祖先と同じですね。やはり血は争えない」 「・・・・何が言いたいのですか」 「・・・・解りませんか。なるほど、趙深様も本人に告げる事は躊躇(ためら)ったとみられる」 趙戒の視線が嘲弄(ちょうろう)に変わった。 蒼愁の方は、そうされても全く変わらないように見えたが。そんな彼も、心中違和感を感じていた。 趙戒の言う事は何かおかしい。それは彼の言葉の一つ一つにいちいち棘があると言う事ではなく。根本 的に間違っているような気がしたからだ。 そう、彼は貴方の祖先、と言った。本来ならば、私達の祖先、というべきではないか。それではまるで 二人の祖がまったく別だと言っているように聞える。 確かに趙深の長子と次子、彼の血統は碧嶺の帝国崩壊の後、二つに分かれた。そこからそれぞれまった く違う境遇に生き、まったく違うだろう考えの下で八百年近い年月が流れたのである。 そう考えるなら、確かに二人はまったく別の祖を持つと言えなくはない。 しかし確かに流れた歴史は違えても、本は趙深という一人から出ている。趙戒が次子ではなく、趙深の 子孫を名乗っている以上、彼の言う祖先はおそらく趙深の事だろう。 だのに何故、趙戒は、貴方の祖先、などと言ったのだろう。 そもそも、何故彼は蒼愁に対し、このような憎しみに満ちた目を向けるのか。 二人はこれが初対面ではないか。確かに間接的には幾度も戦があったが、直接的に蒼愁と趙戒が関わっ た事は無い。例え敵味方として出会ったとはいえ、個人的に恨まれる謂(いわ)れは無い。 「趙戒殿、大人しく降伏されよ。最早碧は終わり。兵も居らず、貴方には何の力も無い。今降伏し、全て を悔いるのであれば、我が王も酷には扱いません」 すると趙戒は笑う。 「何がおかしいのです」 そこで問うてみれば、今度は一転して憤怒の形相に変わる。 情緒不安定な男だ。蒼愁は寒気を覚えた。 構わず趙戒は感情を噴出する。 「祖先同様、我等を馬鹿にするのかッ! 趙の血に敗北は無い! あってはならないのだ!!」 しかし自制心はなくとも自尊心は強いのだろう。或いは感情を吐き出してすっきりしたのか。彼は自分 の失態に気付き、落ち着く為に数呼吸置いた後、改めて口を開いた。 今怒鳴っても何にもならない。 蒼愁も静かに待つ。 「・・・・・私が何もせず、ただこのような場所に居たとお思いか。愚かな事です。私は待っていたのですよ、 じっと、ここでね」 「・・・・私を、ですか」 蒼愁が告げると、趙戒は呆れたようにその顔を見た。 「確かに。確かに貴方もだ、大参謀殿。しかし貴方だけではない」 趙戒は足下にあった樽を蹴飛ばす。樽は倒れ、中から滾々(こんこん)と液体が流れ始めた。粘りがあ りゆるやかだが、床に大して染む事も無く、確実に広がっていく。同時に、独特の臭いが立った。 それから趙戒は懐から小さな丸い物を二つ取り出し。 「これには火薬という物が詰ってます。まあ、ほんの少ししかありませんが。・・・もしこれが大量に作 れていば、賦族の悲願はすぐにでも叶ったでしょうに。あの時降伏さえしなければ・・・・・ッ!」 言うやいなや、彼は思い切りそれを床に叩き付けた。 その瞬間、耳を削ぎ落とすような轟音が響き、光が放たれ、視界を奪った。 暫く痛みで目を開けられなかったが。まぶたの先に迫るものを感じ、無理矢理開けてみると、何と言う 事だろう、光景が一転し、周囲が炎に包まれているではないか。 この勢いであれば、城中に広がるのも時間の問題と思える。まさかとは思うが、趙戒は城内にまで油を 仕込み、いざとなれば瞬時に炎で包まれるよう、細工をしていたのだろうか。 だとすれば、この男は芯から狂っている。 「名高き壬の王の事。おそらく楓仁殿や紫雲緋様を、兵達だけに任せてはおかないでしょうね」 「まさかッ!」 「貴方と壬王、二人が死ねば壬に勝利は無い。もはや我が国が勝利する事は叶いませんが、せめて引き分 けには出来るでしょう。碧も滅ぶが、壬も滅ぶ」 蒼愁は駆け出そうとしたが、すでに周囲は炎に囲まれ、道は見付からない。これもおそらく事前に用意 されていたのだろう。この部屋は怖ろしいくらいに火の回りが速い。 「貴方は狂っている!!」 蒼愁に出来たのは、虚しく叫ぶ事だけであった。 |