5-7.想いを糧に


 壬兵が防壁内へと浸入したのは、勿論今も閉ざされたままの門からではない。

 それは地上ですらなく。地中に穴を掘り、その穴から入ったのであった。

 司譜率いる軍勢の決死の攻撃は言わば囮であり、壬の真の狙いは穴を掘る事にこそあったのだ。

 穴攻め、地味で時間がかかる戦法ではあるが実用性は高く、守る側にとって最も危惧すべき戦法である。

 特に珍しい策では無い為、趙戒もそれは知っていたはずだったが。壬兵は通路を掘る事さえして見せた

のに、その延長である穴攻めまで思い至らなかったようである。

 それだけ司譜達老兵の特攻が凄まじかったのであり、趙戒や碧兵が至らなかったというよりは、偏に老

兵達の手柄と言えよう。

 彼らはその命をこの一瞬に燃やし尽くす事により、敵の目を上手く引き付けたのだ。

 考えてみれば、如何に少しばかり考え攻め方を工夫したとは言え、愚直にひたすら城を目指させ、あた

ら兵を死なせるなどとは考えられない事である。例え正攻法をとるしかないにせよ、もう少し壬は考えて

行動するはずだと、趙戒は危惧すべきであった。

 彼が勝ち誇り、愚かな特攻だと馬鹿にしていた間にも、壬兵はせっせと穴を掘り、地下道を完成させて

いたのである。

 その隊の指揮をしていたのは楚峨(ソガ)。元碧の七殺軍副将であり、大将である石迅(セキジン)敗

北後は多くの兵と共に投降し、命を助けられた恩を返す為、投降した将としての責任を果す為、壬軍に加

わっていた。

 彼の率いる兵達は虎出身であり、穴掘りなど細々とした事ならば、攻城経験の浅い壬兵達よりもよほど

長じている。中には専門家顔負けの腕を持つ者もおり、彼らのおかげで作業が随分進んだ。

 彼らの助力がなければ、そして賦の技術を加え改良された道具がなければ、おそらく倍近くの作業時間

がかかった事だろうと考えられる。

 壬が大勢の兵士を囮にしてまでこの作戦に踏み切ったのは、単に他に良策が無かったからというのもあ

るが。この戦法を充分に達成できるという見込みがあったからでもあった。

 壬の気風は合理性も重んじ、無駄というものを嫌う。これも国力の低い国柄の為であり、言ってみれば、

大陸一無意味に特攻させるような事をしない国家である。

 例え死を覚悟させても、それは必ず目的を為すと見込んだ上でのこと。だからこそ壬の黒竜は強いのだ

ろう。

 そしてその事を忘れていた趙戒は、その時点で敗北が決定していたと言える。

「でっけえ穴さえ掘りゃあ、もう壁も糞もねえぜ。趙戒、神妙にしやがれ!」

 楚峨自身が先頭に立ち、中央に集結している碧軍へと向う。東西北の三方から壬は浸入し、今では数千

という数になっているようだ。

 集結している碧軍の数には比べるべくも無いが、浮き足立った碧兵には数万の大軍に思えた事だろう。

 防壁上の守備兵もありえぬ事態に仰天し、火計の非道さに半ば趙戒を見限っていた事もあってか、目の

前の趙戒を見捨てて我先にと逃げ始めた。

 最早趙戒の威風も塵と消え、碧軍は混乱の極みに達している。

 率うるべき趙戒が居ない以上、集結している碧の決戦兵団も用を為さない。慌てふためき、遠く離れた

趙戒へ向い、指揮を指揮をと届かぬ声で嘆く始末。趙戒が消えて乱れていた上の敵襲である、最早隊長達

だけではどうしようもなかった。

「趙戒様は、趙戒様は何処へ」

「敵襲、敵襲」

「何処だ、敵は何処だ」

「北だ」

「南だ」

「いや、西だと言うぞ」

「いやいや、すでに我らは負けたらしい」

「ならば、逃げねばならぬ。もはや趙も碧もあったものか」

「待て、我らは戦わねばならぬ!」

「負け戦なぞ知った事かよ!」

「俺ぁ元々趙戒なんぞ気に食わなかったんだ」

「俺もだ」

「わしもだ。こんな所で死んでたまるか!」

「ま、待てッ!!」

 兵達は口々に無責任な事を口走り、迷った挙句四方へと逃げ去る兵、迷いながらも趙戒を探す兵、訳が

解らぬながら突撃していく兵と、泡食った騒ぎ。

 隊長や多少忠義心のある者の言葉など知った事ではない。虎にとって戦とは生還してこそ意味がある。

死んでしまえば褒美も貰えない。しかも負け戦などはただ働き同然ではないか。

 負けた以上、この都市が制圧される以上、領土も地位も全てを失う趙戒に、他人に払える物など一片も

あるはずはない。愛国心、いやそれ以前に自分たちの国だという概念すら持っていない碧兵に、今立ち止

まって戦えという方が酷である。

 彼らの頭からは、碧は趙戒の国家であり、自分達は報酬を約束された上で力を貸しているに過ぎず。自

らは今までと同様、単なる雇われ者である。という考えが取れていない。

 各虎毎に逃亡していくのも当然であった。

 そこへ楚峨率いる兵が突入したからたまらない。混乱は果てしなく伸び、広がり、最早敵も味方もあら

ず、怒号だけが市内に響き渡っていた。碧兵は軍から個々の虎へと戻り、壬軍と戦う者もいないでは無か

ったが、個々の兵としてならば壬軍に敵うはずがない。

 土煙が舞う中喚き叫びたて、あっと言う間に屍の山が築かれていった。

「何をしている、攻め立てよ。数ではこちらが勝っているのだ!!」

 趙戒が防壁上から逃げ降りる兵を一人でも引き止めようと、声を枯らして叫び、手を振り回して騒ぐが、

それを聞く者、気に留める者は一人とて居ない。

「馬鹿なッ! 戦えば勝てる。なのに何故逃げるか。貴様らには誇りが無いのか。碧の名を冠する兵とし

て、貴様らには誇りが無いのかッ!!?」

 それから暫く叫んだが、どうにもならない。趙戒は一言吐き捨てるように侮蔑の言葉を呟くと、諦めて

急いで王城へと向った。安全なのはあそこだけだろう。それに城内には僅かながら兵が残っている。

「私は負けない。負けるはずがない。趙の一族が敗れる事など、あってはならない。私は負けない。趙の

血が必ず私を勝たせるはず!」

 彼は縋りつくような、その想いに賭けた。


 蒼愁は王城の占拠を任された格好になった。

 都市内へ踏み入れた者の中で、指揮官は楚峨と彼の二将のみ。楚峨が都市中央に集められた敵を攻める

以上、必然的に彼は拠点の制圧に向う事になる。

 すでに門を開くべく兵も送っていた。小一時間とかからず防壁門は開き、敵の目を引き付ける為南側へ

集結させていた、王自ら率いる本隊が市内へ乗り込むだろう。

 その時点で壬の勝利は決定的なものとなる。

 蒼愁には背後を憂う気遣いも要らず、城内に居るだろう残存兵力の事のみを考えれば良い。

 そして彼には重大な使命がある。即ち囚われの将兵を助け出す事。

 大勢が決した以上、早々にそれを済まさねば、追い詰められた趙戒が何をするか解らない。彼が狂気に

取り付かれている事は、先の火計によって明白である。あれは軍を破るというよりは、敵兵を全滅させる

為の策であった。

 そのような策は、決して常人では行なえない。一時の激情に動かされたからこそ、つまりは狂っていた

からこそ出来る事だろう。

 趙戒の賦族への憧憬にも似た心を考えれば、最悪の事態は避けられるだろうとは思うが。かといってそ

の思いには何の保証もない。人はいざとなれば何をするか解らない。誰でも狂人になる可能性はあり、狂

ってしまえば平素の心などは意味を無くす。

 激情に呑まれた人間は、決して他者を気遣わない。善も悪もない。ただ己のみ。だからこそ何でも出来

る。世界で独りになった以上、何を慮(おもんばか)る必要があろうか。

「逃げる兵には構うな。邪魔をする兵にだけ心を配るのです。彼らにはこの城を護ろうとする心はない。

下手に刺激しないようにし、囚われている者達の救出をのみ優先させるのです」

 蒼愁の良く通る声が辺りに木霊する。

 これは自軍に言ってるのではない。むしろ敵軍へと言っている。無駄な抵抗をしなければ命は助けてや

ると、そう伝えているのである。

 趙戒に乗せられたとはいえ、彼らに対して憎しみが無い訳ではない。壬軍にもすでに多大な死傷者が出

ている以上、蒼愁とても個人的に彼らを恨む心はある。しかし恨み憎しみがあるから何をしてもいいと言

う事にはなるまい。

 それに恨みなどを考えている前に、彼らにはやらなければならない事があるのだ。

 常に前を見、未来を見据えれば、過去の恨みも稀薄(きはく)に出来る。人は死んでしまった者よりも、

今、そして未来に生きる人間の事を考えるべきだ。

 悲しいからどうだと言うのだ。辛いからどうだと言うのか。そんなものよりも大事な事はいくらでもあ

る。全てを許そうとは思わない、憎しみを捨てろとも言わない。しかし前を見よ、今生きているこの瞬間

を見よ、大切な事は他にいくらでもあるはずだ。

 自らの恨みを晴らしたとして、それで囚われた将兵が殺されてしまったら、果たしてそれは敵に殺され

たというのだろうか。自らが見殺しにした事と同義なのではないだろうか。

 少なくとも蒼愁はそう思う。囚われた将兵を助けたい、彼はその一心で臨んでいる。

 自分はどうだとか、納得がいくいかないとか、そのような個人の想いが、果たして誰の為になると言う

のだろう。

 どうしても我慢が出来ないのなら、やればいい。しかし、それは為すべき事を為してからであろう。

「進め!! あらゆる階層を虱潰しに探すのです」

 軍配を掲げ、蒼愁は城内への道をのみ示した。

 そして自身も精一杯に走り、その場へと急ぐ。馬が欲しかったが、敵味方入り乱れる中では、かえって

徒歩の方が良かったかもしれない。馬と言うのは臆病な動物であり、それ以前に人で埋まった道では、馬

を走らせようにも動けまい。

 痛む足に構わず階段を駆け上がり、荒ぐ息を抑えながら必死で駆けた。

 この一歩一歩の重みがどれほどのものか。この場に居る者でなければ想像もできまい。この一歩一歩、

自分の動作一片にまで、人の命がかかっているのだ。この重み、ともすれば泣き喚き、逃げたくもなる。

 飛び出してくる兵を避け、或いは殴り倒し、それでも蒼愁は必死に城門を潜って進んだ。

 城内に壬兵を止めようとする者は居なかった。敗北の声が飛び交い、逃げ惑う事に専念する碧兵の目に

は、壬兵の姿などは映らないのだろう。

 ただただ出口のみを目指し。未だ無傷に近い城から、まるで避難していくかのように、毬のように飛び

跳ねては視界の外へと消えていく。

 趙戒は何処に居るのだろう。彼が最後の頼みとしていただろう、城内の兵はあらかた逃げた。立ち止ま

り戦う者もいたが、壬兵に殺意が無いのを知っては、次々と逃げていく。虎が犬死にを嫌うのは、竜以上

に甚だしい。

 兵を屈する事は出来ても、趙戒にはやはり兵の心を得る事は出来ていなかったようだ。

 彼も趙深の血をひくのだと思うと、なにやら悲しくもなってきたが、同情は無用だろう。そんなものは

誰も救わない。どころか余計な怒りだけを生む。

 蒼愁は他を兵達に任し、自らは上階へ上階へと急いだ。

 潔く死を覚悟したとしても、この状況で尚何やら企むにしても。趙戒ならば火急の時でも、いや火急の

時だからこそ、必ず人より上を選ぶと思ったからだ。

 最上階、王の間にて蒼愁の来るのを待って居る。何故かそういう予感がした。  




BACKEXITNEXT