趙戒は兵を都市中央へと集めさせ、いつでも出撃できるよう準備を整えている。 兵数はおよそ二万。そのほとんどは最後まで極力疲労を抑え、温存していた兵団である。 壬はもう退かざるをえまい。その時が蒼愁を滅ぼす最後の機会となるだろう。 出来れば趙戒自身の手で決着を付けておきたい。そうでなければ彼の気が済まず。この機会を逃せば、 最早いつ機会が訪れるか解らない。もしかすれば永劫に訪れない可能性もあった。 だからこの一戦だけは自らが直々に兵を率いる。万全を期し、決して討ち洩らす事のないように。 問題は撤退時に蒼愁がどういう位置付けになるか、だったが。蒼愁が殿(しんがり)、つまり隊列の最 後尾に残り、味方を逃がす為に戦う兵団、の指揮をとる事は間違いないと睨んでいる。 楓仁、司譜という二将が居ない今、彼しかいないではないか。 王が全ての責任をとるべく殿を申し出る事も、考えないではなかったが。それを蒼愁が黙認できるはず はなく。兵士が王を見殺しにするような真似を決して許すまい。 念の為にすでに壬王が戦死した後の事も考えてあるだろうが、誰が王を見殺しに出来ると言うだろう。 王が死ぬのは常に一番最後か、一番最初である。 即ち、戦の終結か発端か、そのどちらかになる。稀に途上に死する事はあっても、それは皆が望んだ結 果ではあるまい。 となれば、九分九厘、蒼愁の首はとれる。 趙戒はそう計算していた。 「あの男さえ絶やせば、それで全てが終る。英雄の過ち、歴史に残された哀れな亡霊は消えるのだ。考え てみれば、趙深様もとんでもない事をされたもの。どれほど偉大な方であれ、人は決して過ちを犯さずに はいられないものなのか。 それとも本気でそれを至善と信じ、敢えて残されたのか。・・・・・いや、そんなはずはない。そんな 事はあってはならない」 趙戒は何かを捨てるかのように、頭を振った。 どちらにしてももう終わるのだ。壬もこれで最後であろう。そしてこれさえ済めば、過去を断ち切り、 真なる未来へと邁進する事が出来る。ここから本当の歴史が始まるのである。趙深、碧嶺の意を継げるの は、最早自分唯一人しかいない。 それが趙戒を生かしている誇りであり。それだけが賦国滅亡後でさえ、彼から希望を失わせなかった最 後のすがれるものであった。 誰が望もうと望まないと構わない。何故なら、これは私事ではない、天意である。天の道筋からは、何 者も逸れる事は許されない。楓仁も、紫雲緋も、白晴厳も、いずれそれを悟るだろう。 誰も天道に背く事は出来ないのだ。あの碧嶺でさえ、自らの理想を遂げる前に死したように。 人は天の采配に従うのみ。ならば全ては趙戒の前に平伏すであろう。 趙戒は想い、恍惚とした表情を浮かべた。 自らに与えられた(と彼だけが思い込んでいる)使命を思う度、心の奥底から溢れんばかりの幸福感が 満ち、その身を包む。この幸福感、満足感、これこそが天意の証であろう。でなければ、これほどの満足 感に人が浸れるはずがない。 しかしその崇高な使命を妨げるように、味方であるはずの兵士が満足に働かない。これは一体どういう 事だろう。 「所詮は虎、豺狼(さいろう)の徒に大義は理解できないか・・・」 そう思って一時は納得したが、どうにも納得できないモノが残る。 防壁上に居る守備兵、彼らが火計以来、めっきり命令を聞かなくなったのは何故か。 伝令に送った兵も戻らず、細かい状況は解らないが、確かに彼らは命令無視している。もしあの火計の 際にも呆けずに攻撃を加えていれば、壬に更に甚大な被害を及ぼせたはず。何故攻撃の手を緩め、その手 に握る賦族の武の粋たる強弩を使わなかったのか。 そして何故、彼らは今も動こうとはしないのだろう。 勝ったのだ。はや壬には戦う意志はあるまい。勝ったのである。ならば戦果を拡大すべく追撃を仕掛け、 止めを加えるは必定。それを何故に躊躇する。 豺狼の徒ならば、今こそ奮い立つ時であろうに。 「何故、奴らは勝利を示そうとしない」 怒りというよりも、趙戒には疑問だけが浮んでいた。 この絶好の機会に、一体何をしているのだろうか。彼らも勝利だけを求めて戦っていたのではないか。 ここで戦果を上げる為に、今まで命を張って戦ってきたのではないのか。何故、何故なのだ。 痺れながら小一時間も待ったが、相変わらず伝令が戻らない。あれから何度も送っているのだが、一人 として戻る者がいないのである。趙戒は次第に焦った。 防壁上から眺めなければ、壬の動きが正確に掴めない。このままでは無傷で逃がしてしまうではないか。 あの男を、みすみす逃してしまうではないか。 「愚かな兵士の為に、大義を為す機会が失われてしまうのか。何と言う事か、何と言う事か!!」 城の最上階に兵を送り情報を得ようとしたが、壬の姿は防壁が邪魔で良く見えず、防壁上の様子も流石 に遠くからでは良く解らない。 こうなれば自ら防壁上に上がり、意に従わぬ兵を斬るか、とも思ったが。流石に趙戒も彼らの忠誠心が 低い事は知っている。そんな事をすれば逆に恐慌をきたし、反乱を起さないとも限らない。何しろ戦時で 気が高ぶっているだけに、あまり乱暴な手段はとれなかった。 これが楓仁や漢嵩であれば、例え一刀の下に斬り捨てたとしても、誰も文句を言わなかっただろうが。 趙戒にはそのような威や信はなく。武は用いられず、人を支配するには冷酷な法と恐怖というような政略 に頼るしかなかった。 それに考えてみれば、趙戒にはほとんど武功らしい武功は無いのだ。名と言えば、元賦国の軍師、趙深 の子孫、この二つがあるが。確かに大きな功績は(一般に知られている中には)ないと思える。 策を考え、国を興したのは趙戒自身であり、確かに彼は碧国の建国王である。しかしその実態を具に考 えてみると、皆が持つ趙戒像は単なるまやかしであるととれなくもない。 そのような疑問は、誰も浮かべていないようではあるが。不思議と言えば不思議である。 「・・まさかこのような事で」 ともあれ、趙戒の苛立ちは募る。
将の心は伝染する。 当初、兵達は趙戒が機を待っているのだろうと考えていたのだが。彼の周りから慌しさを感じるように なるにつれ、徐々に不安が忍び寄ってきていた。 もしや何か大事が起こったのではないだろうか。この城塞に篭って居る限り、万に一つも危惧は無いと は思うが。そう思えるだけに趙戒が慌しい理由が見付からず、抑えきれぬ不安が募っていく。 皮肉にも、趙戒が兵達に植え付けた、この都市の防備は完全である、という自信が裏目に出てしまった のである。 兵にざわめきが生まれ、流石に憚って大声を出す者はいなかったが。今まで静けさに支配されていただ けに、少しの声でも良く通る。 趙戒もそれに気付き、自らの失態を恥じたのだが、起こってしまった事はどうしようもない。 しかも相変わらず防壁上からの知らせが来ないのだ。兵達どころか、自身を落ち着かせる余裕すらなか った。 「馬鹿な事だ。このような恥ずべき姿を兵士に晒すべきではない」 そう思って自らを叱咤し、心を抑えつけようとするのだが。そう思えば思うほど呼吸は荒くなり、鼓動 は強きを増した。 趙戒は自らの弱さを見せ付けられ、愕然(がくぜん)となる。 碧嶺の最も信頼篤き大軍師、冷静沈着、温厚にして威鋭く、全てを御し、全てに慕われたと言われる趙 深。その直系の子孫たる自分が、何と言う体たらくか。こんな所で先祖の勇名に傷を付けてはならない。 自らを叱り励まし、必死で考え、打開策を練ってみたが、考えれば考える程抜けられぬ泥沼に囚われて いった。 そして自らも迷いへと踏み入れ、突き進み、そのあげく。 「私自ら行くしかない」 何を血迷ったのか、防壁上へと自ら赴く事を決め。諌める伝令や近衛を振り切り、伝令用に用意されて いた馬に乗ると。 「戻る前に、兵を鎮めておけ」 そう命じて、一人一目散に駆け出してしまったのだ。 当然後に残された者達は右往左往し、その動揺は波紋のように全兵士へと及んでいく。 振り返りもせずに進む趙戒にはその光景が想像も出来ず、とにかくも急いだ。執念深い故に、時におそ るべき忍耐強さを示すが、本来は気が短くせっかちな男なのかもしれない。 防壁に着いた趙戒は馬を捨て、驚くべき速度で階段を駆け上がる。 「貴様ら、一体何をしている。我が命が聞けぬというか!!」 大喝する総大将を見、流石に防壁上の守備兵は居住まいを正し、けれどもしどろもどろに言い訳を始め た。どうやら今の今まで呆けていたらしい。或いは恐怖に怯え、他の事に目を向ける余裕が無かったのか。 逆心を持っていた訳ではなかった事に安心はしたものの、怒りが消える事はない。それに送ったはずの 伝令は何をしているのだろうか。不可解な事が増えれば不愉快さが増す。趙戒は散々に守備兵を罵倒し、 睨み付け、まるでその様は言葉で殴りつけているかのようであった。 一頻り怒鳴って落ち着いたのか、趙戒はようやく壬の事を思い出し。慌てて動静を探るべく、自ら前へ 出て地上を睨んだ。 すると今度は趙戒が呆ける番であった。 何しろ居るべきはずの場所に壬軍が居ないのである。どころか、いつの間にか防壁側まで近付いており、 軍容も煌びやかで臆した様子がない。逆にこちらが攻撃を仕掛けない事を、訝っている風である。 撤退すべきはずの壬軍、すでに全ての策が失われたはずの壬軍、それが一体何故このような所に居るの か。一体何をするつもりなのか。まさか全滅覚悟で門を壊しにでも来たと言うのだろうか。 まあ、それならそれで良い。望むように全滅させてやろう。そう思い、再び闘志を漲(みなぎ)らせた 趙戒が守備兵に命じようとした瞬間、正にその時であった。 突然、叫び声が聴こえ、城内に壬兵の姿が現れたのである。 彼らの着る、黒い甲冑が雄々しく陽光を照り返し、気高く進む。 趙戒の時は今や完全に止まり、呆けたように眺めながら、暫く言葉を発せないでいた。 |