5-5.墨守


 ひたすらに進む壬兵を、無数の刃が襲う。

 強弩、弓、手斧、投槍、石飛礫(いしつぶて)まで、ありとあらゆる物が放たれている。

 それらが宙を舞う度、大地を転げるように進む壬兵に血飛沫が生まれ、一人、又一人と倒れ伏していく。

しかし例え手をもがれ、足を砕かれようと、壬兵の意気が衰える事は無かった。

 そして先頭を突き進む司譜を見ては、頼もしそうに喝采を挙げる。

 仕舞いには碧兵の方が恐れ、泣きそうな面になりながら、まるで鬼でも嫌々追い立てるように、必死に

なって防壁に取り付く壬兵に火油などを落す破目になっていた。

 余裕が無く、命じられてと言うよりは、恐怖に堪りかねてやっているように思える。

 被害は壬の方が遥かに多く。確かに勝っているのだが、どうした事か勝っている方の碧兵が怯えている

のである。

 身体の震えのせいだろうか、命中も定まらぬようになり、壬兵の倒れる数がめっきりと減った。

 碧兵はまるで賦族にでも襲われているような気持になっているのかもしれない。

 歴戦の兵とは言え、それはつまり賦族との戦の数が多い、賦族から受けた恐怖の数が多い、という事で

ある。古参の兵の中には昔を思い出し、かえって奮う者も居たようだが。大部分の碧兵は戦意を半ば喪失

した格好になっているようだ。

 凱禅の軍隊がそうであったように、恐怖で縛られた兵は、より大きな恐怖の前では統制が弛む。

 忠誠心と愛国心の無さ、最後に縋りつけるモノの無さが、ここに来て大きな差となって現れている。

「攻めよ、攻めよ。今が潮ぞ!」

 敵の攻めが緩くなったのを肌で感じとったのだろう、司譜はここぞとばかり戦場に響かせる為、喉の嗄

れるのを構わず、体の奥底から叫び飛ばした。

 それを追うように、一斉に壬兵も猛り声を上げる。

 まるで声に引っ張られでもするかのように、壬兵の速度は増し、顔付きまで変わった。

 目は前のみを刺し、けっして外れる事は無く、誰が死しても、誰が倒れても、構わず突き進む。

 黒竜の黒竜足る所以が発揮されたと言えよう。楓仁程ではなくとも、その圧力は人に恐怖を植え付ける

に充分である。

 しかし流石に偉世の守りは堅い。碧兵の士気が落ちて尚、揺るぎもしない。これも元々趙戒が兵の士気

などに期待しておらず、兵よりも、防壁や防衛兵器などの心無き者に、より多くの力を注いだからに違い

ない。

 初めから虎上がりの兵士など、彼は味方とも思っていないのだろう。彼が信ずる兵士は、ただ賦族のみ。

 防壁まで辿り着き、梯子をかけて上ろうとする壬兵も少なくなかったのだが、それでも全て途上で叩き

落されてしまった。誰一人防壁上へは辿り着けていない。

 一日中攻めたが、結局戦果らしい戦果はあげられず。お互いに負傷者を出しただけで終わった。勿論、

壬側の被害の方が甚大である。

 夜闇が覆い、壬軍は一先ず引き上げた。

 疲れ果てた碧兵は、それを追撃する余力は無く、その場に倒れ伏すように脱力している。

 

 一夜明け、今度は一転して壬軍は静寂を保った。

 司譜が傷だらけのまま先頭に立ち、偉世を睨み付けているが、昨日のように軍を猛進させる事はなかった。

 その代わり、兵達は穴を掘り始めているようで、どうやら防壁までの侵入路を造っているようである。

碧兵に高所から狙われている為、完全防御とは言わないが、これでもある程度は弓矢などを防げるだろう。

 力押しは止め、城攻めの常道である土木作業を取り入れたようだ。

 時間はかかるものの、この方が確実で効果的でもある。本来城攻めというのは時間をかけてじっくりと

やるもの。攻城塔が無くなった今、この方がかえって時間を無駄にしないかもしれない。

 急がば回れ。回り道に見える方が、かえって近道である事は往々にしてある。

 しかし何度も言うとおり、壬には長時間包囲するだけの力は無く。昨日と一転した壬の行動に、碧兵達

は困惑を隠せない。また何か企んでいるのではないかと、当然ながら思ったのである。

 日中はそのようにして過ぎた。

 だが夜になると、碧兵の懸念は的中し、再び一転して壬兵は火の如く、大いに偉世を攻め立て始めたの

である。

 夜闇では遠くまで見通せない為、弓や弩の命中率、殺傷範囲は半減し、火灯りの届く防壁付近までは的

にする事が出来ない。

 しかも昼間の緊張が残っており、疲労が蓄積されているものだから、碧兵の動きは目に見えて衰えてい

た。壬軍の方はまだ余裕があるのか、その圧力は落ちる事無く、防壁上を占拠するまでは到らなかったが、

それでも防壁上へ上り、少しながら碧軍に被害を与える事が出来たようである。

 数時間戦った後、壬軍は再び陣地へ引いて行った。

 

 次の日も壬軍は昼間は通路作りに勤しみ。碧兵が散々攻撃したものの、掘られた通路から一向に姿を出

さない為、大した戦果を挙げる事は出来なかった。

 それどころか、通路が確実に防壁へと迫っている為に、碧兵の中には浮き足立つ者が出てきたようであ

る。こうして冷静に進んで来られる方が、火のように攻められるよりも、怖いものがあるのだろう。

 そして夜にはまたしても襲撃が行なわれるのだ。碧軍としてはたまったものではない。

 おそらく兵を半々にして、昼間の土木作業組と、夜間の襲撃組に分けているのだろうが。それにしても

壬兵の強靭な事、畏怖するに足る。兵の個々の力量差は戦が長引けば長引く程、はっきりと見えてくる。

 その上、ある程度は入れ替えているだろうが、奥に無傷で残してある兵力が壬にはまだ二万程はいる。

この事もまた、碧兵の精神をすり減らしていった。


 次の日も、次の日も、僅かな時間を除き、延々と同じ事が繰り返された。

 壬の勢いは衰えるどころか、通路が伸びるに従って夜の攻勢の苛烈さが増し、碧兵の疲労は更に募る。

 しかし通路を掘る過程で壬は嫌な物を発見していた。やはりと言うべきか、油の詰った樽などが無数に

埋められていたのである。おそらくは凱禅の残した計略であろう。

 今全て掘り起こすのは不可能に近い。無理に除こうとすれば火矢で炎上してしまう可能性があるし、時

間も無い。

 そこで壬は驚くべき豪胆さで、この計略を無視する事にした。使いたければ使えばいい、そのように開

き直ってしまったのである。

 決死の覚悟が決まっていた壬兵には、この忌わしい計略ですら、逆に力を与えた格好となる。壬は更に

苛烈さを増した。

 攻める側が退かない以上、言ってみれば壬が兵の潰し合いを挑んでいる以上、後は我慢比べであろう。

どちらが先に疲れに潰され、音をあげるのか。先に諦めた方が負けである。

 となれば、どうみても碧の方に分が悪い。

「わいてもわいても枯れる事が無い。まるで蛆か羽虫のような奴らよ」

 趙戒も報告を聞くにつれ、苛立ちを募らせている。楓仁の説得もしくじり、ならば碧の強さを見せてや

る、そうであれば楓仁も心を変えるだろう、と思っていた矢先に。これでは余計に楓仁や紫雲緋、白晴厳

の心に火をつけるだけではないか。

 何と言う無様な事であろう。

「こうなれば、あの手を使ってでも」

 趙戒の目が怪しく光る。

 紫雲緋、白晴厳に叱責され。最後の頼みと言えた楓仁にさえ罵倒された今、彼の心はどこか切れてしま

った感がある。最早何処へ飛ぶのか、一体何をしているのか、自分でも解らない状態なのだろう。

 或いは、彼はもう、狂気に縋るしかなかったのかもしれない。  


 突如それは起こった。

 逆巻く炎、まるで空を食い尽くすかのように遥か高く連鎖的に燃え上がり、一面を正に炎の海が包み込

んだ。嵐の波に呑まれるように、全てが炎に、空に巻き起こった炎海に沈んでいく。

 例の火計である。ついに趙戒が焦りから一線を踏み切り、かつての凱禅と同じように狂気に身を委ねた

のだろう。

 幸運な事に、堀のように造られた通路が炎の連鎖を妨げる役割を果したが、それも少しばかりの事でし

かなく。地上に顔を出して居た壬兵は直ちに炎と化し、通路に伏せて炎を避けた者も、酸素を一挙に奪わ

れて苦しみもがき、耐えられず顔を出した所を同じように炎に巻き込まれた。

 通路に兵が密集していたから、丸々一本分、全ての兵に炎が移った通路もあった。

 おそらく巧妙に準備されていた仕掛を、一度に全て使い尽くしたのだろう。  凄まじい轟音と共に真昼以上の明るさを発し、まるで太陽が空から降ってきたかのようで、直撃を免れた兵

の中にも、視力をやられた者が多数出ている。

 だが、それでも尚、壬軍は進軍を止めず。炎が静まるのを待って、再び攻勢を開始した。

 焼け落ちた屍を盾に、焼け残った矢を掴み、焦げた身体を酷使して矢を射ち。或いは未だ燃え盛る炎を

逆に壁として利用し敵の目を眩ませ、火達磨になりながらも炎を突っ切って突進する者も居た。

 覚悟していただけに、大きな恐慌が起こる事もなく。かえって壬兵を見ている碧兵の方が、目の前の怖

ろしい光景に恐怖を覚え、目を逸らした程である。

 彼らはこのような策がある事など、当たり前ながら、趙戒から知らされていなかったのだ。

 地獄の亡者のように焼き尽くされる壬兵に向って、それ以上攻撃を加えようとする者もいない。あまり

の轟音に倒れ伏し、頭を抱えて天に救いを求めている者の方が多かった。

 壬兵が放つ矢は虚しく防壁へと刺さり、碧兵まで届かせる力はないようである。

 梯子も八割方焼け落ち、残っている梯子も半焼を逃れられず、すでに人の体重を支える力はなくなって

いる。その内残っていた梯子も壊れ、壬軍は攻撃の手段を無くした。

 こうなって初めて各隊の隊長達が自己判断で撤退を命じ、命ある者は半死半生の姿で壬陣営へと戻り始

めた。総指揮を執っていた司譜はこの時点で行方不明となっており、おそらく炎に巻き込まれたのだろう

と判断されている。

 確かめようにも、この炎の痕では、とても探す事は出来ない。

 報告を聞いた王は身を震わせ、己の歯が砕ける程噛み締めていたが。決してその怒りを外へ示そうとは

せず、怒りに呑まれ、無謀な攻撃を命じる事もなかった。

 それから傷付いた兵達を収容させ、他に生存者を助けるべく救助隊を差し向けた後、軍の再編成へと取

り掛かったのである。

 この火計で実に一万以上の兵士が消え、代わりにこの大地に、彼らの血が永劫に焼き付けられる事とな

った。

 流れた血の水分が蒸発し、焦げた遺体や血の色だけが大地へ焼き付けられているという異様な眺めで。

翌日陽光にさらされた大地は、真に筆舌に表し難い光景であった。

 真っ赤に焼けた大地が赤々と鈍く光り輝き、まるで大地が無数の命を吸い込んだかのようであり。話に

聞く、延々と苦痛に血を流され、生前の罪に永遠に苦しめられるという冥府の最下層は、おそらくこのよ

うな場所であろうと、皆が誰となく言葉を洩らし合ったと言う。

 この一日は城攻めどころではなく、壬は負傷者の手当てなどで一日を費やした。 


 戦果を聞き、趙戒は狂喜した。

 火計は奥の手の一つであり、それを思うと多少悔いも浮んだが、まあ仕方ない事であろう。

 本来ならば楓仁を捕えた事で勝敗は決していたはずであるのに、何を血迷ったのか、彼の予定通りに降

伏を申し出なかった壬が悪いのだ。

 おかげで大量の仕掛を消費してしまった。真に遺憾であるが、それはそれとして、趙戒は勝利を喜んで

もいる。これで捕えている将達も彼の言う事を信じるようになるだろう。

 趙戒の力を知り、碧国にこの大陸を統べる力があると知らしめる事が出来たのだから、仕掛などは安い

ものと思わねばならない。

 趙深も言っている。常に先を見る事は大事だが、先を見る事に囚われて、今全てを失うような事をして

はならぬ、と。今と先を共に見据えてこそ、初めて栄光を掴む事が出来るのである。

 未来への投資と思えば、この程度は安いものと思わなければなるまい。

 趙戒は一人頷いた。

「凱禅という男は愚かな男でしたが。この火計と彼の用意周到さだけは、褒めてやらなければならないで

しょう」

 ともかくも勝ったのである。

 壬の士気も挫け、おそらく攻城兵器も全て燃え尽きただろうから、後は待つだけで良い。時が経てば兵

糧が尽きるだろうし、何ならこちらから出向いてもいい。楓仁の居ない今、そして城攻めをしていた敵将

も無事ではないだろう今、王や蒼愁が如何に力を出そうと、どうなるものでもないだろう。

 この機会に趙の子孫を語る男に報いを味あわせてもいい。いや、あの男だけは許しておく訳にはいかな

い。壬の撤退時に追撃をかけ、必ずや討ち取ってくれる。

 趙戒はこの戦を壬と碧の戦ではなく、むしろ趙戒と蒼愁の趙の二つの子孫の私戦であると考えている。

 そして壬が蒼愁を頭に据えた事を考えれば、勝手ながら壬も、いや蒼愁もそのつもりであると思ってい

たようだ。

「八百年に及ぶ愚かな歴史に終止符を。そして趙の正統なる子孫である私が、大陸の正統なる支配者であ

る賦族を復古させ、趙深様の遺志を継ぐのです。大聖真君は確かに偉大でした。しかし今更彼の古びた血

を復活させる訳にはいかない。今更神の血を甦らせてはならない。そしてそれこそが、碧嶺様本人の意志

でもある。故に、私がやらなければ」

 趙戒は何やら解らない事をぶつぶつと並べ立てた後、最後の詰めに向うべく、準備をし始めたのだった。  




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