5-12.覚めれば都に染む時雨


 蒼愁が目を付けた場所。そこは地下の最奥ではなく、また区画整理された通路の先でもない。意外にも

数箇所ある階段の一つ、しかも一番目立つだろう規模の大きい階段の、そのすぐ側であった。

 松明が煌々(こうこう)と灯り、一目で階段全体を見渡せる。

 そのすぐ横、丁度階段の横にちょっとした隙間があり、その奥に通路への入り口が在ったのだ。

 そこは周囲が明るいが故に見えない。光が照らせば照らすほど、逆に隠されてしまうのである。

 灯台下暗し。実に巧妙な造りと言えよう。

 何の変哲も無い隙間なのだが、人の目を狂わせるように細工されており、ちょっと目にしただけでは解

らない。それでいて視界には容易く入る。しかしその場所は見えない。

 見付けられるとすれば、注意深く探し、尚且つ初めから見当を付けて探して、ようやく解るような隙間

なのである。

 奥の扉も同様で、隙間の奥まで行って見なければ解らない。扉の色も付近の壁と同化しており、閉まっ

ている状態だと、壁の一部としか思えないだろう。

 見えるようで見えない。見ているはずなのに見えない。

 周到以上に周到に隠されたそれには、最早執念すら感じられる。誰が造ったかは知らないが、何かに憑

かれたかのように設計したのだろう。誰にも知られぬよう、知られぬようにと。

 これ以上の隠し方は無いと思える。古きから現在まで、何万何十万という人間が当たり前のように目に

していながら、誰一人として気付く者は無かったのだから、これは相当なものだ。

 おそらく目に出来るから、人は疑わなかったのだろう。誰も疑問が浮ばなければ、それを暴こうとはし

ない。

 他の階にある入り口も、おそらくは似たような造りになっているに違いない。間者がいくらこの城の図

面を取っても、隠し通路が解らかったはずだ。いや、むしろわざと間者に取らせていたのかもしれない。

そうする事で、隠し通路がより暴きにくくなるからだ。

 間者が一度調べた場所を、一々後から調べるような者は少ない。わざと調べさせる。それもまた、効果

的な手段と言えるだろう。勿論、絶対に見付からない自信があれば、の話であるが。

 ともかく、これだけ警戒の強い城が、不思議と絵図面などは詳細に取られているのが疑問だったが。そ

う考えれば謎は解けた。

 防壁が落ちれば城も落ちたと同然である以上、城の図面などは好きに取らせた方が、逆に脱出路の隠蔽

(いんぺい)に効果があるのかもしれない。

 しかしまったくもって陰気な手段を使うものである。

 人を小馬鹿にした方策に、蒼愁も少々呆れてしまった。

 だが見付かればそれまで。彼は一度楓仁の手勢まで知らせに行くと、その後自らも少数を率いて、改め

て隠し通路へと降りていった。

 この通路は更に下へと堀進められ、物音を出来るだけ消すように造られている。だから入り口からでは

何処まで趙戒が進んだか解らないが、今ならまだ追いつけるかも知れない。

「こうなった以上、とにかく急ぎます」

 蒼愁は手勢にそう命じると、趙戒に追跡が解るのも気にせず、松明を手にし、ひた走り始めた。

 今更隠密にしても仕方が無いと考えたからである。

 どうするにしろ、結局追われる方よりも急がなければ、永遠に追い付けないのだから。


 通路は続く。内部に明かりは無いが、単純で一直線に掘られた通路故、闇夜でも安心して進める造りに

なっているようだ。何処までも周到に考えられている。そしてこの脱出路を発見されない自信もあったの

だろう。

 しかしそれが今趙戒の追跡を助けてくれる。もしこれが迷路のように造られていたら、最早どうしよう

も無かった。

 設計者には凱禅と同様、詰めの甘さというのか、自信過剰のようなものを感じる。

 神経質なまでに警戒していながら、どこか他人を馬鹿にしている。だから最後の最後はいつも抜けてい

るのだろう。勿論、迷路などを造る予算が無かったとも考えられるのだが。

 まあどちらにしろ、ありがたい事には変わらない。

 暫く走り続けると、何やら前方から物音が聴こえ、徐々にその音が速く遠ざかって行くのが解った。

 趙戒だろうか。

「皆、警戒するように」

 蒼愁は剣を鞘ごと顔の前へ構え、手勢にも気を配るように命じた。よもやとは思うが、もしかすれば弩

を撃ってくる可能性がある。さして広くない通路とはいえ、直線的な軌道で飛ぶ弩矢ならば、万が一と言

う事もありえる。

「追いつけるかどうか・・・」

 急いでいるとはいえ、趙戒達は背後を気にしなければならない分、歩みが遅くなる。そこに追跡出来る

望みがあり、だからこそ趙戒の油断も手伝って、こうして接近する事が出来たのだが。  こちらも初めから走っている分、疲労が大きい。果たして追いつけるだろうか。

 外へ出られてしまえば、例え目と鼻の先にまで近づけたとしても、森林に紛れて逃げられてしまう可能

性がある。

 もう祈るしかない。追い付きさえすれば、後はどうにでもなる。ともかく追い付けるかどうか、それだ

けが肝要であった。だから祈りながら走り続けるしかないのである。


 足音が木霊する。

 趙戒は一瞬、恐怖した。そして戸惑いのまま一度振り返ると、後は無理矢理心を抑えつけるように黙っ

て先を急ぐ。

 気のせいだ、最初はそう思い込ませた。しかし足音はどんどん高く近付いてくる。やはり追われている

のだ、我々は。

「馬鹿な」

 趙戒は声を洩らさぬよう、嘆息した。

 この通路が解るはずは無い。何十年かそれとも百年を越えるのか、どれだけの年月かは知らないが。人

の寿命を越える年月を隠れ続けてきたこの通路が、何故今になって、わざわざ趙戒の代になって発見され

るのか。

 これではまるで、自分が今ここで発見される為に生れてきたようではないか。

 流石に趙戒はこれ以上焦りを隠せなかった。

 そして命ずる。

「後ろの二人、ここで待ち伏せなさい」

 紫雲緋の後ろに付いていた二人が黙って頷き、通路の両脇へと潜む。わざわざ付いて来させただけあっ

て、なかなかの手練である。追跡が少数であれば、何とか食い止められよう。

 例え返り討ちにされても、時間稼ぎにはなるはず。

 ともかくこの通路さえ出れば、この通路さえ出れば、後はどうにでもなるのだ。

 どれだけ犠牲を払っても、趙戒自身と紫雲緋は脱出しなければならない。

 栄光の未来の為に。


 趙戒の思惑も虚しく、剣戟の音が背後で弾け、すぐに消えた。

 どうやらしくじったらしい。しかも即座に斬り伏せられたと思える。

 追跡隊は明かりを用意していたのか。そうだろう、でなければこうも容易く片付けられまい。闇討ちが

出来れば良かったのだが、この通路には隠れる場所が無く、光に照らされれば全てが暴かれてしまう。

「前の二人、ここで待ち伏せなさい」

 それでも趙戒は命じた。追跡者もかなりの手練、無駄だろうとは思ったが、他に方法が無い。

 万が一の幸運に縋るしかないのだ。

 だがこれで紫雲緋の前後を固めていた兵は消える事になった。

 焦る趙戒は、紫雲緋の目に浮んだ光に気付かない。


 今度は少し持ったらしい。暫くの間戟音が鳴り響き、怒声が激しく上がった。

 趙戒は満足する。少なくともこれで数mは距離が空いたはず、それで充分であり、それ以上の効果など

初めから望んでいなかった。

 兵士がどうなろうと構わない。紫雲緋さえ手中にあれば、必ず賦族は動く。

 趙戒は今となっても子供のように信じ込んでいた。

 もし賦族にその気持があるのなら、すでに蜂起しているはずだとさえ気付かない。いや、自分から気付

かないようにしていたのかもしれない。自己暗示でもかけるように、その事だけに縋るしか、彼には他に

無かったのだから。

 彼が何度敗北を繰り返し、何度生き恥を晒しても(本人はそうは思っていないかもしれないが)生きて

いられるのも、そういう彼だけが思い込んでいる使命、大義があったからである。

 そうでなければ、流石の趙戒も、これだけ何度も大敗を繰り返しておいて、生きていられるはずがない。

彼にも一応潔癖なまでの賦族の精神が流れている。不思議と思われるかもしれないが、その点は純粋です

らある。

 真面目であり、賦族の法にも厳格であった。だからこそ、賦王は彼を見込み、紫雲緋も最後まで彼を諦

めてやれなかったのだ。

 その趙戒が今も尚生きようとしている。

 生存本能か彼なりの責任感なのかは解らない。それでも彼は彼の望みを成し遂げようとしている。決し

て諦めの色を見せない。諦めるという考えすらないかもしれない。

 躊躇も何も無く、彼はただ進むのみ。

 私欲ではない。あくまでも彼の信じる大義、夢、使命感の為せる業である。だからこそ惨く、醜悪に見

える事もある。

 趙戒は安堵したが、かといって速度を落す事はなかった。一秒でも早ければ早いほど、安全に逃亡出来

る可能性が増す。遮二無二なって急いだ。

 遥か先に見えていた薄い光が、徐々に強くなってくる。

 出口は近い。もう百mあるかないか。後数分もかからない。すぐそこ、すぐそこである。背後の足音は

まだ遠い。趙戒は勝ったのだ。やはり自分こそ天に望まれている。自分こそが正義なのだ。

 碧嶺、趙深の加護は彼の上にだけある。

「愚かな壬の民、偽りの兄弟、最後に勝つのは正統足る子孫である私と、正統の後継者足る賦族! そし

て私だけが趙深様の意志を継ぐ事が出来る。見なさい、あの光を。天が呼んでいる!!」

 背後への注意を忘れ、趙戒が一歩飛び出し、今正に眩い光へと手を触れようとした。

 だがその時、不意に背後から、しかもすぐ後ろからくぐもった声が聴こえ。

「ぐッ!!?」

 鋭い痛みが趙戒の背中を貫いた。

 鉄錆の臭いがする。

「貴方だけは私の手で!!」

「・・・・・・・愚かな・・・・あとも・少・・で・・」

 趙戒は全てを悟ったのか、抗いもせずその場に倒れ伏した。致命傷ではないが、痛みと疲労が重なり、

一度倒れれば、もう起き上がれないだろう。

 血液が流れ、苔むした地味な通路へと彩を添える。

 あと少し、あとたった一歩の所で、彼は一瞬その存在を忘れてしまった、唯一人の絶対なる味方である

はずの紫雲緋によって、その野望を阻まれたのである。

 不思議と悔しさも憎しみも浮ばなかったのは、どこか自分でこうなるだろう事を、すでに計算出来てい

たからかもしれない。趙戒は決して無能ではない。夢に侵されなければ、或いは正反対の生き方をしてい

ただろう。

 例えば、蒼愁のように。

 希望を捨て、現状を認める事により呪縛から解き放たれた趙戒は、傍で荒い息を吐く紫雲緋の事も、賦

族の将来も、あれだけ執念を燃やしていた全てを忘れ。ただ己の無力さのみを痛み、静かに自らの舌を噛

んだのであった。 

 生ぬるい痛みの中、趙戒はその生涯と同じく最後まで無責任なまま、自分だけの理由で死を選んだので

ある。

 そう、確かに厳格であった、真面目でもあった。だがしかし、彼は最後まで彼自身だけは省みる事が出

来なかったのだ。




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