5-3.信念に奮え


 趙戒は全てを見下すように、人が愚かしき者を見る時のあの嘲弄(ちょうろう)に満ちた目で、楓仁を見据えている。

 それでも不思議と腹が立たないのは、楓仁にどこか趙戒を哀れむ気持があるからだろうか。

 賦国の王や重臣達が何だかんだ言って彼の面倒見ていたのも、何故かは解らないが、趙戒にそういう哀

れさを感じる為かもしれない。

 趙戒、この男の姿は、ある種の人間にとって無性に哀れに映る。

 例えるなら、この男は拗ねた子供のような顔をしている。何をやったとしても、どうしても可哀相に思

えるのだ。

 だがそんな気持を抱かれているのだとは、趙戒本人は夢にも思わないだろう。そこが賦を苦しめ、彼自

身を貶(おとし)めている原因なのだが、彼は気付くまい。

 今もその身に帯びる自信の心を崩そうともせず言った。

「動けば命は無いと言ったはずですが」

「是非も無い」

 だが楓仁は今更脅されるのも笑止と言わんばかり、ゆっくりとだが力強く階段を上がり始める。

 命など戦場に来る前に、とうに捨てている。

「フッ、私が言うのが貴方だけの命だとでも」

「・・・・・それはどういう意味か」

 しかしその歩も止めざるを得なかった。

 不気味な程に、趙戒の声は良く響く。

 彼は一体誰の命の事を言っているのだろう。まさか捕らわれている白晴厳と紫雲緋の事ではあるまい。

となれば、共に捕らわれた兵達の命の事だろうか。確かに彼らの命も、完全に趙戒に掌握されている。

 楓仁の命がまさにそうであるように。趙戒の思い一つでどうにでも出来る場所に在る。

だがそれも、すでに覚悟している。

 一度止めはしたものの決意は変えず。再び趙戒の喉元へと踏む込むべく、ぐっと生唾を飲み込んだ。

 黒桜の脚ならば、一息に趙戒まで飛べる。例え自分の命は助からぬとしても、ここで趙戒の命を奪う事

が出来れば、おそらくこの戦は終わる。

 終わらせたい、今ここで。

 しかしその決意を察したのだろう。趙戒は気をはぐらかすかのように、また不意に口を開いた。

「貴方の察する通りの意味ですよ」

「兵が死ぬは本望」

 楓仁は馬共々身を屈め、重心を下げる。

「それでも貴方は動けない」

「戯言を! わしを弄るか、碧を騙るものよ」

「事実を申し上げているまでです」

 実際、楓仁は動けなくなっていた。

 あと一息で飛び立つ。飛び立てる。飛び立てば趙戒を仕留められるかもしれない。

 しかし動けない。今になって趙戒の発した無数の言葉が、彼の心を止めさせる。

 如何に戦場とはいえ、将兵が死ぬのは当然の結果だとはいえ。助かるだろう命を無為に散らせる事は、

将として、人として、行い難い。

 この大陸において、例え戦の最中にあろうとも、無意味に命を絶つ事は最も恥ずべき行為。将には兵に

勝利の為に戦死を強いる権威があるが、同時に犬死にさせぬ義務もあるのだ。

 あたら命を無駄にさせる事は、つまりは同胞殺しと同じである。敵と戦う、味方を守るという意義さえ

そこには無い。 

 楓仁は迷い、策に嵌った。一度迷えばもう飛び立てない。

 彼は敗北を認めた。ならば負けた以上、捕虜らしく振舞うが道理。

「黒き修羅も所詮は人の子か・・・」

 楓仁は吐息を吐き、手にした大槍を逆さにして大地へと突き立てた。

 趙戒の言葉は嘘ではあるまい。

 いつの時代も子供の残虐さを残した大人こそ、無慈悲で怖ろしい事を為すものだ。凱禅にも感じていた

ような、その無慈悲な残虐性をこの趙戒にも感じる。

 この男は脅すだけではなく、実際に実行する男だ。

「流石は楓竜将、この大陸の、いや大地全ての正統なる支配者たる賦族の血を受け継ぐお方。さあ、丁重

にお連れするように。壬兵にも気を使うのですよ。竜将のお心を無為にしてはなりません」

 碧兵は趙戒の言葉に従い。壬兵を武装解除させた後、乱暴するでもなく、静かに連れ去って行った。

 後に残された楓仁も黒桜より下され、厳重に見張られながら、趙戒の後を追うように城内へと運び入れ

られた。突き立てられた大槍には、誰も手を触れないよう、趙戒自身の口から厳命された。

 黒桜は他人に触れられる事を極度に嫌うのだが、ここは大人しくしてくれと楓仁が目で頼んだおかげか、

黙って厩舎の方へ連れられて行く。

 ここは大人しく従っておくしかない。そうして隙を窺うのだ。時を稼げば、いずれ好機は訪れよう。

 楓仁はその後は一言も発せず、捕虜となった将の礼儀として、大人しく敵将へと従う事にした。


 楓仁は上階にある一室に通され、今趙戒と差向いで睨みあっている。

 ここに到って彼が見苦しい真似はすまいと確信しているのか、共に来ていた碧兵も返されていた。正真

正銘二人きりである。

 おそらく元は凱禅の私室だったのだろう。華美な調度品が目立ち、決して不調和な眺めではなかったが、

どうにも鼻に付くというのか、無意味に派手な部分が多い。

 質素と品格を重んじる楓仁としては、凱禅の趣味はどうにも解らない。

 そしてこんな所に平気で住める趙戒という男の心も。

 大体が賦族解放を謳(うた)っているくせに、紫雲緋と白晴厳を捕えるとは何事だろうか。彼には彼の

想い、考えがあるのだろうが、全てが不自然である。趙戒は根底の所で、どこか外れているのだと思える。

 進むべき道は間違ってはいないとしても、その進み方と方向が根本的に間違っているのだろう。

 目的さえ遂げれば良い。そんな陳腐な言葉で済ませられると、彼は考えているのだろうか。結果も大事

であるが、それ以上に過程にも気を配らなければならない事を、彼は知ろうともしない。

 過程を大事にしてこそ、初めて良い結果が出るものだろうに。

 趙戒も凱禅と同じく、自分だけに都合の良いように、全てを履き違えているように思えた。

 自らの正当性を証明する為だろうか、その身に趙深から受け継ぐという蒼き衣をまとっているが。それ

も奇妙に浮いて見えた。

 楓仁の胸には様々な想いが去来している。自身も賦族の血をひく身であるからには、この男に無関心で

はいられない。

 だが今はそんな想いを持つべき時ではあるまい。彼はもっと現実的な話題に目を向ける事にした。

「わしをどうするつもりか。部下さえ助けてくれるのなら、この命、どうしようとも構わぬ。そして敗北

を認めよう。敵ながらわしの心を知りぬいた見事な策である。見事だと、言っておこう」

 しかし趙戒はそのような言葉にはまったく関心がないようで。嬉しいのか悲しいのか、彼独特の笑顔の

まま、楓仁を見詰め続けている。

 楓仁は言葉が通じないのではないかと、錯覚する思いであった。

 そうして暫く見られ続けた後、ようやく趙戒が口を開く。

「竜将、確かに貴方ならばああすると思いました。偵察など誰かにやらせれば良いものを、敢えて自らを

最大の危機へと向わせる。常に先陣を切り、常に進み続ける。流石は真の大陸の支配者、賦族の血をひく

お方」

「待て。先も聞いたが、それはどう言う意味か。賦族は元々大陸人に隷属する存在だった。人道に劣るが、

それは紛れも無い事実。真の支配者だの、正統な資格だの、そのような言葉は当て嵌まらぬ」

 すると趙戒は笑う。

「これは楓仁ともあろうお方が異な事を。考えても見る事です。賦族の強靭さ、そして団結力、全てに置

いて大陸人を凌駕している。それを持って、何処に隷属せねばならぬ理由があるとお思いでしょう」

「賦族は敗れたのだ。過去も、そして現在も」

「その通りです。忌々しい事ですが、それもまた事実。しかしその理由は単純に数の差に過ぎません。も

し双方の人口が同じであれば、どちらが支配者になると思われますか」

「それも愚問だ。残念ながら我々大陸人は、同等の条件であれば、賦族には敵うまい。だがそのような仮

定をしたところで、何も変りはせぬ。賦族は敗れたのだ」

 趙戒は楓仁が自らを大陸人だと称した事に対し、眉根をしかめ、初めて機嫌を損ねたように見えたが、

あくまでも落ち着きを失う事はなかった。

「そうです。つまり、この大陸に我らの祖先が訪れた時、いや、閉じ込められてしまった時。元々奴隷で

あり、この大陸まで逃亡してきた大陸人が、逃亡者を追い、そのせいで一緒に閉じ込められた僅かな賦族

を逆に隷属させ、今のように徹底的に貶めたのです」

「・・・・貴方は何を言っているのだ」

 楓仁は趙戒の言った意味が解らなかった。確かにこの地に大陸人の祖である始祖八家が訪れた時、北に

あった唯一の道は土砂崩れによって断たれ、それ以来この大陸は閉ざされた場所となってしまった。

 航海技術、造船技術が発達すれば解らないが。今のままでは外へ出る事は出来ない。

 その事に関しての伝説はまだ残っていたから、楓仁だけでなく、この大陸に住む者ならば誰でもその程

度は知っているはずだ。

 だからこそ始祖八家はこの地に永住を決意し、長い年月をかけて開拓してきたのだ。

 勿論、賦族は元々奴隷だったと伝えられている。

 だから楓仁にはまったく解らなかった。何処からそんな世迷言を思いつくまでに到ったのか。この男は

芯から狂ってしまったのだろうか。

「そんな馬鹿な事があるものか」

「そう思わされるのが真実というもの。ここにその証拠があります」

 楓仁の困惑の視線など意に介す様子も無く続け、趙戒は懐から大事そうに一冊の書物を取り出した。

「これこそ我が家に伝えられた一冊の本。趙深様の奥方様が残してくれた、我が方に残る、唯一の歴史の

遺産なのです」

 趙家に残された物ならば、間違いなく趙深の奥方の残した記録だろう。しかし、だからといって、そん

な荒唐無稽な言葉を信じていいものだろうか。一体その本には何が残されているのだろう。

 楓仁はその重要な部分を知りたかったが、残念ながら趙戒はその事には触れようとはしなかった。

「信じるか信じないかは貴方の勝手、私は真実を述べたに過ぎません。しかし貴方も賦族の血を継ぐ方な

らば、よくよく考えてみられる事です。そしてどちらにしろ、賦族が今のように不当に扱われる筋合は無

いはず。何故私がこのような秘事を貴方に打ち明けたのか、それは貴方が祖、紫雲竜より続く、正統な王

家の血を受け継ぐ方であられ。貴方こそ、紫雲緋様と手を取り合ってこの大陸を統べるべきお方だと確信

しているからです。

 貴方がお望みならば、賦と関係の深い壬とならば同盟を組んでもよろしい。さあ、今こそ共に手を取り、

真の歴史を取り戻しましょう。貴方がこの大陸を統べる、新しい碧嶺様となられるのです。それこそが我

が願い、そしてそうしてこそ初めて正統なる歴史を継ぐ事が出来るのです」

「そして貴様が新しき趙深様となる訳か」

 趙戒は笑っただけで、その問いには答えなかった。

 楓仁の頭は乱れに乱れている。これほど自分を崩した事など、今まで無かったのではないだろうか。

 聞けば聞くほど解らなくなってくる。趙戒という男は、一体何を言っているのだろう。

 真実が何処にあれ、それは過ぎ去った果てしなき過去でしかないのだ。もし賦族が本来は大陸人を隷属

していたとしても、恥ずべき行為でしかなく。そうであればこそ、大陸人に復讐されるのは当然ではない

だろうか。

 例え今人道に外れた扱いをされていようとも、それは賦族が受ける当前の報いだとすら思える。

 少なくとも、それを知れば、賦族は初めから解放など望まなかっただろう。彼らはあまりにも純粋で潔

癖である。当然の報いだと、半ば納得していたかもしれない。

 勿論、八百年前の過去の賦族は知らない。しかし楓仁の知る賦族ならば、ただ紫雲緋を生かす為だけに

全てを捨てたあの賦族ならば、武力蜂起などはしないだろう。

 今の賦族は、彼の知る賦族は、趙戒の思うような事は一切望んでいない。

 ならば、いや、初めから答えは決まっていた。

 断言してもいい。この男は正しく狂っている。

「趙の小僧! 貴様こそ先祖の勇名を無に帰す最も不肖な子孫。貴様の戯言に付き合ってはおれぬ!」

 趙戒の目に、初めて怒りと憎しみの色が浮んだ。




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