6-1.終幕への道標


 碧国滅亡より一月、この間にも様々な出来事があり、歴史は大いに変転を見せた。

 これからも大いに変転を見せていくのだろう。だがいつもそうであるように、それが起こる前までは、

常と同じ平穏が流れる。乱と乱の間には、必ず小康状態に似た、静寂があるものである。

 碧の滅亡により、戦乱は一応の終結を見た。

 元碧兵達も素直に労役に付き、賦族達は相変わらず静かに暮らしている。過ぎた事を振り返らない。悔

いた事は涙よりも態度で現す。それもまた、この大陸の美風であるが故に。

 一月の間に起きた中で一番大きな出来事といえば、前々から病状が思わしくなかった、前漢王、漢嵩(カ

ンスウ)の崩御がまず挙げられるだろう。

 以前から、気力で辛うじて生きているような状態であったのだが。碧国滅亡、趙戒(チョウカイ)の実

質上の存在の消去を聞いた後、安堵したのか、程無く眠るように亡くなったという。

 葬式は大々的に、そして厳かに執り行われ、国内外から様々な人物が参列した。

 そのほとんどの人物が、最低でも今から一年は喪に服すというのだから、ここからも漢嵩の声望の高さ

が伺える。彼の人生に一点の汚点も無い、とは言えないが。信頼を寄せるには充分な人柄であり、また多

くの信頼と希望に応えてきた事は、誰も否定出来まい。

 漢嵩もまた、偉大なる王の一人であった。

 他国民ならまだしも、流石に漢の民は彼の死を振り返らない訳にはいかず、その顔に拭いきれない陰を

落しているようだ。

 漢嵩は漢全ての民の父であり、精神的主柱であったのだろう。

 そして漢嵩の崩御は、現漢王、明節(ミョウセツ)と参謀長、央斉(オウサイ)という国を支える二人

の間を取り持っていた力まで、半ば消してしまった事になる。実際、これ以後二人の間に流れていた様々

な感情が、色んな所で表面化していく。

 流石の漢嵩も碧嶺(ヘキレイ)と同様、重臣全ての仲を繋げる為には、残された時間が余りにも短かっ

たと思える。惜しくも彼らは、その仕上げの段階を終える前に、亡くなってしまったのだ。

 しかし明節も央斉も、漢という国を想う気持は変わらず。その一点に関しては強く結ばれている。

 漢民達もその事をよく知っており、その為か大抵の者は安心しているようだ。漢という国がある限り、

間違ってもこの二人が破滅をもたらすような事をするはずがない、と。

 そしてそれもまた、楽観的に思えるとしても、紛う事なき事実であっただろう。

 他にも列挙すべき重要な事柄は多い。

 寝返りと共に多くの領土を碧から奪い、それから後も完全に項弦(コウゲン)と趙戒(チョウカイ)の

間を分断し続けた孟然(モウゼン)は、投降を受け入れた壬国の要請で、漢に仕える事となった。

 本来、壬王がそのまま臣下として受け入れるのが筋なのだが。壬国には与えるべき土地も宝も、国内に

はほとんど残って無かったのである。

 壬は戦死者の遺族に対する報償や、先の戦の論功行賞だけですでに手一杯だったのだ。

 幸い、漢でも孟然の功は大きく評価され、特別に将軍位まで与えられた。更にあの難攻不落の要塞とし

て名高い、望岱(ボウダイ)とその一帯を領土として与えられたようである。

 よほど明節に見込まれたらしい。

 将軍名は中央守護の意味も込め、更に元碧の将軍であった事を多少皮肉ったのか、天体の中心にそびえ

る北斗七星を冠し、北斗将軍とされた。

 これは途方もなく大きな褒賞であり、漢内外に幾許かの波紋を投げかけてしまい。それはあまりにも過
ぎるのではないかと、央斉自ら進言したそうであるが。それでも明節は異議を認めず、そのまま断行した。

 央斉も今は完全に明節の臣下である以上、王の決心が変わらぬのでは強く言えず、そのまま引き下がっ

たようだが。この二人の間柄に、また少しばかりの波紋が生れたように思える。

 壬にも、漢とは逆に好意的に受け入れられているが、似たような事が起こっている。

 漢との交渉の末、壬は元碧領の内、三分の一程度を受け取る事になり。その領土が丸々楓仁(フウジン)

に与えられ、更に建国以来異例である大将軍の位まで与えられたのだ。

 それだけでなく、彼はあの紫雲緋(シウンヒ)と婚約してしまったのである。

 これは楓仁に領土を与える為というよりは、むしろ紫雲緋に与える為だったのだと言えるだろう。

 いや、返したというべきか。壬は建国以来の恩を、こういう形で言わば倍返ししたのだ。利子を払った

のだとも言えるかもしれないが。その中には多く感謝の心が秘められている。

 紫雲緋も賦族、しかも依然賦族筆頭と呼べる地位に居る訳で、このままでは領土を与える事も、何かを

与えて報いようとする事も出来ない。

 そこで楓仁と婚姻を結ばせる事で、しかも楓仁を大将軍として、独立するにも似た大きな権限を与えて

しまう事により、間接的に紫雲緋に領土を譲渡したのだと考えられる。

 無論、両名の同意あっての事であり。少なくとも楓仁の方は以前から紫雲緋に対し、尊敬心以上のモノ

があったと、壬王と重臣達が知っていたからの提案であった。

 律儀な壬らしい手法であり、これならば誰が文句をつける事も出来ない。臣下である楓仁に、どれだけ

領土を与えようと、どれだけ高い地位を与えようと、それはその国の王と民だけが干渉出来る事だからで

ある。

 いくら不満があろうと、他国の人事にまで干渉する事は出来ない。それは非礼も甚だしい事であろう。

 そこで後は紫雲緋の心だけが問題だったのだが、彼女は周囲が驚くほどあっさりと受け入れてしまった。

紫雲緋の方も、楓仁と同じとまでは言わないが、それに近い感情があったのだろう。

 漢嵩の喪があけるまで、最低一年は式を挙げるのを待つ事になるだろうが。実質婚姻を結んだという事

で、すでに二人は与えられた領土へと移り住み、未だ戦禍の残る中、復興の為に勤しんでいる。

 それに伴い、壬は国内ほぼ全ての賦族を移住させ、更に漢や玄から認可を取った上で、人数制限はした

ものの、国外からの移住も認めた。

 めでたい事である。

 楓仁が治める地には偉世(イセイ)も含まれている。これは漢が司譜(シフ)の死に対して、この国な

りに慮った結果なのだろう。この地に封ぜられた司譜も喜ぶだろうし、彼の遺族も勿論喜んだ。

 これで彼の墓参りにも、誰に遠慮する事無く行けるのだから。


 楓仁の大将軍への任官によって、当然竜将軍の位が空く。

 竜将軍こそが壬の正規軍、黒竜を統べる者である以上、早急に相応しき者を任官させる必要がある。

 そこで満場一致の賛成の下、新しき竜将軍には次将軍、法越(ホウエツ)が推され。法越のたっての推

薦で、空位となった次将軍位には、なんとあの暦蒋(レキショウ)が任命された。

 普段は気が弱いが、戦場に出ればその勇猛さ、武力は楓仁に次ぐと言われる猛将。楓仁が修羅ならば、

彼は闘鬼であるとまで言われる男だ。

 おそらく武の柱であった楓仁の穴を埋める気持もあったのだろう。壬の黒竜の戦法は、全てが全てとは

言わないが、個人的武勇、つまりは絶対的な戦場での信頼感が必要不可欠であったからである。

 暦蒋は失神する程驚いたようだが、一度命じられたものを断る訳にはいかない。冷や汗を滝のように流

し、歯をがたがたと鳴らしながらも何とか礼を保ち、任官をありがたく頂戴したのであった。

 ちなみに楓仁が率いていた大隊長二名は副将に格上げされ、楓仁と共に新領土へ移っている。

 法越が例え推さなくても、結局暦将以外に適任者はいなかったのである。

 だから将軍になる事は、とても名誉であるに変りなくとも、そこまで慌てなくても良いだろうにと、法

越は珍しく大きな溜息をもらしたという。

 次将軍として、暦蒋にはまだまだ成長してもらわなければならないようだ。


 白晴厳(ハクセイゲン)は南西の賦族居住地へと戻され、以前通り賦族達を治める立場になった。流石

に紫雲緋と共に彼を置く事は憚られたので、楓仁としても、壬としても、彼を求める発言をする事は無か

ったようである。

 白晴厳もそれを当然としたから、何をか言う事も無く、ただただ助けてもらった謝辞だけを述べ、紫雲

緋の事を頼むと楓仁に篤く願い。静かに帰って行った。

 賦族達も今回大人しくしていた事で、僅かながら大陸人達からの信頼を勝ち得た。

 紫雲緋が囚われて尚、彼らは一つとして不穏の種を見せる事はなかった。それはどれだけ彼らの覚悟が

深いかを示しており、賦族の誇り高さを改めて見せる事にもなったのである。

 そう言う意味では、趙戒も幾許かは賦族の役に立ったとは言えよう。

 勿論、悪影響の方が多い事は、今更言うまでもないことではあったのだが。


 蒼愁(ソウシュウ)は全ての戦後処理を終えた後、大参謀の任を解かれ、再び北昇(ホクショウ)にて

壬の北方守護に専念している。

 例え趙深(チョウシン)の血を受け継ぐ者であれ、彼の仕事は変わらない。特別扱いもされない。蒼愁

はあくまでも蒼愁なのだ。

 ただ彼の功績が大きかった事は確かであり、評価と声望は大きく高まった。

 もう彼を半人前と言う者はいない。重役にあるに相応しい存在として、内外に認知されたのである。北

昇一帯の民も安堵し、壬の支配力も高まる事だろう。

 それに北昇一帯に住む民達は、何も漢という国自体に執着していた訳ではない。あくまでも彼らが求め

たのは漢嵩であり、漢嵩が崩御した今、国への執着心は離れつつある。

 時代は移り、変わったのだと、民達はしみじみと感じたのだろう。

 現漢王、明節は代々北昇の太守であった家系に生れているのだが、不思議と彼に対する執着は少ないよ

うである。

 それだけ漢嵩という存在が大きかったのであり、どれだけ力を得たとして、明節の家系も所詮は分家と

見られていた、という事だろうか。

 壬側が明宗家に篤い礼を見せている事もあり、民の間ではむしろ壬への評価が高い。

 明節の一族はどこか冷たい所があったのか、或いは分家としての複雑な心境があってか、宗家に対して

深い礼と温情を示していなかった(表面上は宗家を立てていたが)。

 一応の敬意をはらっていたものの、どこかその存在を無視していた節がある。

 そういう事もあって、確かに明節は治世者として申し分ない働きをし、その点での信頼はあったような

のだが。今一つ漢嵩に対するような、深い感情にはならなかったと見える。

 それに今も明節は、漢嵩の片腕で最も信頼されていた央斉と折り合いが悪い。北昇一帯の民はむしろ央

斉の方に信を置いているようで、これもまた明節個人に対する評価を下げている原因なのだろう。

 王としては申し分ない能力を持つ男だが、能力云々と好き嫌いとはまた別の話である。

 そういう事情があり、結果として北昇一帯の安定度が増す事となった。

 北昇候である壬王女、壬萩(ジンシュウ)も、司譜、蒼愁、司穂(シスイ)という主だった者達が居な

い中、見事に人心を治めていた。不安を溶かし、自ら城下へ進んで出て、その持ち前の明るさで民達を励

まし、慰撫して回っていたのである。

 司譜や蒼愁の影に隠れてしまっているような所があったが、元々彼女も才覚があって統治手腕は見事で

あり。むしろ補佐が居ない分その手腕が光り、民からの好意と信頼は弥増し(いやまし)、今では候とし

て心から慕われるようになっている。

 蒼愁も、どうだ、とばかりに胸を張る姫君を見て、冷や汗を流した程であったと言う。

 ただでさえ尻に敷かれているというのに、これ以上調子に乗らせてはいけないと、深い危機感を覚えた

からだろう。蒼愁の戦いは今尚終わらない。

 だがその彼も、勿論壬萩の評価を称えた。戦争という大きな不安を抑え、それを逆に繋がりを高める為

の力と変えたのだ。その功績はある意味蒼愁をも越える。

 これにより北昇一帯が、完全に壬の領土となったと言えるからだ。

 壬萩は見事に王からの期待に応え、候としての責務を果したのである。

 大きな柱であった司譜を失った事は大きいが。それでも何度と大きな戦を体験した事で、蒼愁の編成し

た虎竜も一人前の面構えになってき、文武共に安定している。

 大きな悲しみを越え、彼らは一回りも二回りも成長した。きっと司譜も冥府で喜んでいる事だろう。


 そして蒼愁が趙戒より受け取った書物であるが、壬王重臣との合議の末、趙深の残した歴史と共に、蒼

家へ一任する事が決められた。

 勿論国家として協力は惜しまないつもりだが、事が趙深と碧嶺の間柄に深く関わる問題であり、言って

みれば家庭の事情であるからには。すでに碧嶺の国家が完全に滅び去っている以上、全ては彼らの子孫に

任せようという事になったのだ。

 例えもし蒼愁の祖先が本当に碧嶺の子であれ、今の世は何も変わらない。

 例え遥か昔、賦族の方が大陸人を隷属させていたのだとしても、やはり何も変わらない。

 趙戒はその点で誤解をしていた。最早碧嶺も趙深も歴史の彼方、言ってみれば神話に近い存在なのだ。

それよりも更に遠い始祖八家の年代となれば、尚更だろう。

 どちらの孫にしてもその血の尊さが変わる事は無いし、また蒼家がそれでどうなる訳でもない。

 賦族もその大昔の事を恥と思いこそすれ、喜びなどしないだろう。出来れば永遠に忘れて欲しいと思い、

そんな事が知れ渡るくらいならば、どうか奴隷のままでいさせて下さいとまで言うかもしれない。

 蒼愁もまた蒼愁であり、賦族も賦族、結局今の世は何も変わらないのである。

 そしてそう気付く事によって、蒼愁は趙戒へ抱いていた違和感の正体に気が付く。

 即ち、趙戒は現実の話ではなく、常に御伽噺(おとぎばなし)をしていたのだ。だから確かに大きな問

題でありながら、どこか滑稽で、どこか現実感の無い話に感じたのだろう。

 ひょっとすれば、それが同時に、趙戒に対して感じた、あの大きな哀れみの正体なのかもしれない。

 蒼愁はこの書物も整理し、いずれ他の歴史書と同じく、公開する事を決めている。

 どちらが本当なのか。何が真の歴史なのか。それは後の歴史家が決める事である。少なくとも、今大陸

に住まう者達では、これに答えを出す事は出来ない。

 解らないモノは、やはり解らないモノだ。

 蒼愁は最後に一つだけ長い溜息をもらした。 




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