6-10.不善は悪に如くや如かずや


 壬劉、楓仁、蒼愁の三名は速やかに明節の居る天幕へと出頭した。

 供の者は連れず、ただ三名のみである。馬に乗ることだけは許されたが、真に厳しい処置であり、壬軍

だけでなく漢軍内にまで不満を述べる者が居るようだ。

 如何に大罪を犯したとしても、素直に投降した者に対し、しかも一国の王と将に対して、この処置は不

当とは云えないのか。漢王は性急過ぎ、強引過ぎはしないかと、漢兵達まで騒ぎだしたとしても、別段不

思議ではないと思える。

 しかし明節はこれを絶対命令とし、壬側に強制させた。

 壬の方が投降しているのだから、明節から命じられればそうせざるを得ない。それにここでもし、余計

な不満を掻き立てるような事をしてしまえば、全ての願いが水泡に帰してしまう事にもなりかねない。

 どれだけ屈辱的であれ、どれだけ不当な処置であれ、今は黙って従う方が良いだろう。大人しく従う事

こそが、捕虜の美徳でもある。

 その意見に各隊長達も最後には折れ、壬劉達もいっそ無防備に行ってやろうと短刀の類まで持たず、馬

も山馬ではなく小柄な馬を選び、鎧甲冑なども勿論付けず、平素のままの姿で漢軍内へと赴いた。

 これには流石の明節でさえ驚く。彼もよもやここまでしてくるとは思っていなかったのであろう。

 確かに降伏した者には、最低限の人権でも与えられれば良い方だが。それにしてもここまで徹底してこ

られると、勝利者から見ても彼らを清々しくさえ感じてしまう。

 現にこれを見た漢兵達の間には、やはり何かの間違いではないか、壬は何者かに嵌められたのではない

か、もしや碧の残党どもが仕組んだのではないか、などという憶測まで飛び交った。

 これにより、明節の断首強行という狙いが、一層困難になった事になる。

 兵達の好意を買われてしまえば、仮に自然な流れで斬首へ持ち込めたとしても、どうしても後々に不満

が残ってしまう。いや、ついには斬首を止めるよう進言してくる者さえ出るかもしれない。

 すでに明節の真意を勘ぐっている者もいるだろう事を考えれば、これは充分に憂慮すべき事だ。

 例え一兵卒からであっても、その進言を考慮せず不意にしてしまうような事をすれば、軍内にまで明節

との不和が生れてしまうだろう。軍あっての明節の策謀である。その軍の心が離れていくのは痛い。

 それにしても壬将のなんと毅然に満ちている事か。これではむしろ明節の方が責められているような気

さえする。

 あまりにも純粋な壬のやり方を知り、改めて三将を目の前に見て、明節の心の中にも迷いが芽生え始め

ていた。罪悪感と言い換えても良いだろう。それがちくりちくりと彼を刺すのである。

「果して、ここまでする意義があるのだろうか・・・・」

 よくよく考えてみれば、壬を圧して無理矢理大陸を統一した所で、すぐに歪みが出て瓦解してしまうの

は容易く想像出来る。あの趙深と壬牙でさえ、碧嶺亡き後には他の重臣達を抑える事が出来なかった。漢

嵩亡き今、自分にこの大陸を平穏に治め続ける事が出来るのだろうか。

 今更ながら漢嵩の死に気付く。そして自身のやっている事の虚しさへと辿り着く。

 夢はもう終わっていたのだと、明節は気付いてしまったのだろう。

 だが夢は覚めても、現実はいつもそこに残る。

 現実とは夢の現か残骸か。

「今更後には退けぬ」

 心中決意した。明節は二度腹を括った。しかしそんな事で晴れるようであれば、初めから迷いなど生れ

まい。一度迷えば、迷いは果てしなく。一度迷えば、終わり無く無限の迷いを連れてくる。

 そもそも一体自分は何がしたかったのだろう。漢嵩はもう居ないというのに、折角手に入れた平穏を、

何故自ら手放してしまうような望みを持ってしまったのか。何故、自分はこのような無謀な事をしている

のだろうか。これほど苦しんでまで、一体何を望んでいたのだろう。

 魔が差したとでもいうのか、この王たる自分が。漢嵩の信頼篤きこの明節が、間違いを犯したとでもい

うのだろうか。ありえない。あってはならない。漢嵩を継ぐ者が、間違いを犯して良いはずは無かった。  

「壬の三将よ、そなたらの罪は甚だ重し、最早弁解する余地も無い。その罪を身に帯びて、兵と国土の保

証を条件に、己が首を刎ねられよ! 我らも悪鬼羅刹ではない。そなたらさえ心を示せば、漢王の名の下

に、今回の事は水に流すべく考慮してもいい」

 自身への不快感に目覚めた時、しかし明節が口にした言葉は、用意していた台詞そのままであった。

 今は弱きになり、後悔している時ではないのだ。王たる者が一度決した以上、決してそれを翻す事は叶

わない。自身が滅ぶか、或いはその国ごと滅び去るまで。

 流水不帰、口外不抑、一度出たモノは決して元には戻らない。止める事も出来ない。

「こうなれば進むのみ。それ以外に我が意を叶える法は無し」

 どちらに行き着くにせよ、今となってはそれが最善の方法だと思えた。

 それを証拠に、見よ、口の奴が勝手に喋りおった。これは即ち天意であろう。



 壬の三将は変わらず毅然として座している。明節の極刑の宣告にさえ、眉を動かしもしない。彼らはた

だ黙って明節を見ていた。

 その潔い姿を見、血気盛んな者を集めたはずの天幕内の漢兵でさえ、ほとんど畏敬に近しいまでの眼差

しを彼らへ捧げている。潔さこそ軍人の最も尊ぶべき姿であるが故に。

 逆に明節の方が怖気付いているようにも見え、謁見の際にありうべからざる事だが、兵達が何やら小声

でざわめいている始末。明節の言葉だけが、完全にこの場で浮いていた。気の毒な程にその言葉には力が

無く、何やら道化めいてすら思える。

 まるで現実味という力がなく、本来なら三将を斬首すべく連れて行く役目の兵達にも、何ら動きらしき

ものは見えない。全てがうそ臭かった。

「何をしている! 我が命が利けぬというか!」

 明節の激昂に慌てて壬将の側へ寄るが、さりとて縄をかけるでもなく、ただただ申し訳無さそうに立っ

ているのみで、相変わらず漢兵は役目を果そうとしない。

 平素は景気の良い事を言えても、いざこの三将を前にすると気圧されてしまい、どうにも自分というも

のが保てないようであった。

 熱しやすい代わりに脆く、何ら頼りにならない士魂の持ち主であるらしい。

 小さいのである。魂が小さく儚いのであろう。すぐさま粉微塵に砕かれてしまう程に。

 だからこそ一瞬で燃え上がり、一瞬で灰となる。

「承知致した。この首と引換えに兵達の命が助かるのであれば、それは安いもの。よろこんで差し上げよ

う。さ、付いて参られよ」

 敗北側の方が業を煮やしたのか、代表して壬劉が宣言し、自らの意志で立って天幕外へ出て行く。それ

に楓、蒼の二将が続き、最後にまるで余分な者であるかのように、自信なく漢兵が続いた。本来率先して

いく漢兵が、怯えたように背後をのろのろと付いて行く様は、明節から見ても滑稽に思える。

 不快感だけが募った。

「何をしておる。さっさと準備せぬか!」

 明節がそれでも動こうとしない、天幕内に集めた漢兵達を叱り飛ばす。予定がまったく狂ってしまい、

彼としても不快以外の感情が無い。しかしここで三将の命を獲れるのであれば、それもまた良しとすべき

だろう。

 とにかく彼らの命さえ奪える。それさえ出来るなら、後の事は大目に見ようではないか。

 明節は自ら奮い立つように余計な気概を示し、兵を強引に引き連れ、壬劉らの後へと続かせた。

 勝利者は常に最後に動くものであるから、これは別に不自然な事ではない。だが先に立った三将がああ

いう風であったから、どうしても明節が付き従っているように見える事だけは、避けようがなかった。

 自身でも気付いているだけに、明節の額には不快の汗が浮ぶ。

 何故壬の将達はああも毅然としていられるのか。何故あれほどに清々しく、美々しく感じるのか。

 これもまた罪悪感という種から芽生えている感情だというのか。やはり自分は間違っているのか。

 心臓が絞られるかのように痛む。私は間違っている? 漢嵩様は冥府でどう思っておられるのだろう。

もしやこの痛みを通して、明節に思い止まるよう、伝えておられるのだろうか。

 答えるべき漢嵩も、央斉すら居ない。全ては自分の意志で決めるしかなかった。

 そしてもう決めたはずではないか。ならば何故こうも悩む。

 明節の感情が揺らぐ度、無数の決意が現れては消えていく。縋り付くように願ってみても、最後には皆

消えていくのである。拠り所を自身の心に作れない。これは想像していた以上に辛い事であった。

 広場へ着くと、すでに壬の三将は中央に作られた清潔な場所へ座らされ、今や遅しと明節を待って居る。

側には執行人が居り、仕損じぬよう手にした鈍く輝く刃を砥石で磨いていた。

 それを見ると急に生々しさが襲い、明節は少しく吐き気をもよおした。

 三将は目を瞑り、最早何の未練も異論も無いようである。その時に到るまで、いや死してさえ、その姿

が変わる事はないのだろう。

 三将も助かるのが最善の道だが、今はもう、兵達の命が助けられるのであれば、それ以上は望まない。

降伏を進言した蒼愁を恨む者も居らず、むしろ兵達を救えた事で、壬王も楓仁も満足している。

 王も将も最後には黙って死ぬものだ。だからこそ生きていられる間に、最善を尽くす。死が決せられ

た時、後悔しないで済むように。

「刑を執行し、我が軍の勝利を告げよ」

 命じる時になっても、明節は湧き上がる敗北感を抑えられなかった。

 しかしこれで壬は滅ぶ。彼の悲願は叶うのだ。人として壬の将に敗北しようとも。




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