6-7.堅白異同


 壬が感じた驚きをどう表せば良いのか。

 謀られた!、でも、油断した!、でもない。一言で言い表すのが難しく、いや、一つの感情ではなく、

無数の感情が去来していたと言うべきか。

 漢からの書状の内容は孟然から受け取ったのとほぼ同じ。しかし決定的に違う所がある。

 壬軍のやった事は明らかな侵略行為であり、これを我が国への宣戦布告と見なし、即刻盟約を破棄。孟

然からの抗議を無視し続けている以上、最早議論の余地もない。これより軍勢を遣わし、壬の侵略に対す

る正当な軍事行動に移らせていただく。

 つまり今からそちらの軍を叩き潰しに行く、という事である。孟然との決定的な差異とは、これが明ら

かな漢からの宣戦布告文である事だった。そこに歩み寄る余地は感じられない。あくまでも戦闘行為を行

なう腹であろう。

 しかもご丁寧に王の直筆であり、それを証明する印も押されていた。王、明節の言葉であるという、こ

れ以上の証明はない。

 遣された使者も一介の伝令兵などではない。暦とした漢の外交府を通して任命された、軍使ではない国

家からの使者で、役割が役割だけに使者自体は軍人ではあったが、なんと大隊長の一人であるようだ。

 その言動には品があり、粗野な男ではなく。多少倣岸には見えたものの、それも役割柄仕方ないと思

える。根っから真面目な男なのだろう。正に適任である。

 この使者は心の底から壬に腹を立てているようで、何度も見損なった見損なったと口にした所から考え

ても、漢王から壬へ援軍要請があった事はまったく知らないようであった。この調子では、ごくごく一部

の者以外、援軍要請の件は知らされていないのだろう。

 そしてここまで激越な文章を寄越すと言う事は、すでに漢の軍勢が向っていると見ていい。

 だが表向き漢国内に孟然討伐の件が知らされていないと言う事は、壬軍が望岱周辺に到着し、それから

初めて軍団を編成したのだろうか。そう思えばこんな所で待たされていた理由も解るが、そう上手く軍

を編成出来るものだろうか。

 理由も無しに軍備を拡張するなり、軍団を編成するなりすれば、いくらなんでも国民の方に気取られて

しまうだろうに。

 ただ初めから壬を嵌める事が目的であり、孟然の蜂起が擬態だと考えれば、そもそも孟然が不自然なま

でに軍備を整えていた段階から、その目論見は始まっていたと考えられる。

 もしもの時孟然を征伐する為にと、軍備を整える事は不自然ではない。孟然の不穏な動きには、二重の

理由があった訳だ。

 漢の軍備を整える為と、壬を誘き出す為に。

 勿論、孟然の行動が不自然である事に変りなく、慎重かつ丁寧な明節がやる事としては、あまりにもず

さんというのか、無理があるような気はする。漢の民と兵達は、この事に疑問を持っていないのだろうか。

 それとも多少の疑問などは自身に対する信頼と敬意で補えるはずだと、そこまで明節が計算しての行動

だったのだろうか。確かに現状は上手くいってるように思え、こうして壬軍はまんまと誘いこまれてしま

った訳だが、どうにも釈然としないものを感じる。 

 ともあれ、漢王に壬を滅ぼす考えがあるのは、間違いない。

 信じたくは無いが、全ての状況がそれを示している。それ以外に現状を証明する事は出来まい。

 しかし一体何の為に、何の目的でこのような事を画策したのか。漢王、明節も漢嵩に認められた男。名

声があり、今までさしたる悪評も無く、堅実丁寧に漢嵩の片腕として、後継者として、十二分に国を治め

てきた男。そんな男が今更何の為に壬を謀(たばか)る必要があるのだろう。

 賦国も消え、趙戒も消えた。まだまだ様々な問題が残っているものの、どれも戦をせねばならぬ程の理

由にはなるまい。誰もこれ以上の戦を望んでいないのだから。

 ましてや壬は漢が北守(ホクシュ)と呼ばれていた頃から協力し、壬がいなければ今の漢も無かったよ

うな、深い絆がある国ではないか。ありがたく思われこそすれ、恨まれる覚えは無い。

 確かに両国の間に揉め事が無かったわけではないが、何の為に同盟国を陥れる必要があるというのか。

 明節が解らない。ただこのまま彼の思惑通りにさせる訳にはいかない。

 今度は壬側も黙ってはいなかった。馬鹿馬鹿しいとは思いつつも今までの経緯を説明し、これは漢王か

ら頼まれた派兵である事。それに孟然が不穏な動きを示していたのではなかったか、孟然の事は如何する

のか。このまま捨て置くというのか。などと壬王自ら猛々しく使者へと問うた。

 すると使者は。

「確かに孟然殿に不審な動きあれども、かの者はとうに申し開きをし、自らの非を認めている。王は寛大

な御心にてそれをお許しになり、我らもほっと胸を撫で下ろしていた所。孟然がかくも過剰な程に防備を

固め、兵を集めたのも、全ては国の為。ひいては王の恩に報いる為。行き過ぎではあったが、過ちを認め

悔いている以上、その心を一体誰が責められようか。

 それに孟然殿の事は我が国の問題。例え建国以来の同盟国であるとはいえ、そちらに口出しされる覚え

はない。最早そのような戯言は結構。壬国には皆失望している! 前陛下が心から信頼されていたという

のに、それを今更裏切られるとは、何と言う、何と言う事か!」

 使者は言っていて怒りが蒸し返してきたらしい。その後はもう取り付く島もなくひたすらに喋り、怒鳴

り続け、最後には肩をいからせて出て行ってしまった。本来は礼儀正しい男なのだろうが、壬に対する一

片の敬意も感じられなかった。

 やはり正直な男なのだろう。

 だからこそ壬側にはどうしようもなかった。孟然の反旗の件もすでに解決している以上、何を言っても

信じてもらえまいし。使者の言うように他国の政治に介入する権限は無い。いくら同盟とはいえ、あくま

でも協力し合う間柄であり、それ以上の力はないし、あるべきではあるまい。

 漢に交渉する意図が無い以上、壬は腹を括るしかなかった。

 こうして壬軍は突如孟然と明節に敵地にて包囲されるという、絶望的な状況に陥ってしまったのである。

周辺の民が義兵として起ち上がらない事だけが、不幸中の幸いと云えたかどうか。


 正に虎と狼に挟まれているかの如き状況。孟然は未だ大人しく望岱に篭っているようだが、壬軍が動き

次第、或いは漢本軍が到着次第、すぐに動けるよう準備されているに違いない。

 これが計画的であるなら、壬軍がここまで来る間に充分に準備出来ただろうし。わざわざ望岱手前の砦

にて必死の防戦を見せた事さえ、或いは計略の一端ではなかったのか。

 壬が戦闘行為を仕掛けてきている事を明らかにし、民達に見せ付ける為に。

 だがそれでさえ周辺の民達に動きは見えない。もしかすれば壬が漢に侵略軍を発したなどとは、未だ信

じられない者が多いのかもしれない。望岱付近だけでなく、国内全体に見ても。

 案外、先程会った使者のような者の方が少ないのではないか。

 とはいえ、現実に軍勢が進んできている事に変りない。望岱ではなく、この壬軍へ向って今も粛々と軍

勢が進んでいる事だろう。呆けて余計な希望にすがっている時ではない。とにかく急ぎ本国へ帰還せねば。

 程なく壬本国へも現状が伝わり、外交府が必死に政治的解決を試みるだろう。そうなれば或いは大規模

な戦に発展する事を抑えられる可能性はある。しかし目前に迫る一戦だけは、どうしても回避できまい。

 何より、兵糧が乏しくなっている。待っていても飢えるだけである。

 壬王は早速主だった将を集め、軍議を開いた。

 敵総数は未だ不明なれど、孟然が一万全てを傾けてくる事は明らかで、漢軍も少なくとも二万は持って

くるだろう事を予測しなければならない。

 壬国への牽制として幾許かの軍勢が必要だから、さほどの大軍を用意出来ない事は、まず壬にとって好

材料である。しかし、だからこそ壬軍を誘い込み、兵糧を断たせたのだろう。兵糧の大部分は漢任せであ

った事、わざわざ王、楓仁、蒼愁を呼んだ事、全てが壬を滅ぼす為であった事が解る。

 付近には大きな街道が一つしかなく。確かに細々とした道なら幾重にもあるが、当然どこも砦等が配置

されているだろう。それに細い道と言う事は軍を分散せねばならず、結果として軍事力を衰えさせるだけ

となりかねない。

 やはり兵力を集中させたまま、この街道を突っ切り。何とか漢軍に一敗見えさせ、その隙を縫うように

突破するしかない。本国にさえ辿り着ければ、後はいくらでもやりようがあろう。

 背後に常に孟然の威を感じ続けなければならないのは苦痛だったが、漢軍とまだ距離がある今なら、急

げば孟然を引き離す事も可能かもしれない。

 現状では孟然の軍勢は一万、それに比べ壬の兵数は倍の二万である。望岱に篭れば互角以上に戦えるも

のの、野戦となれば壬に勝てるべくもない。悔しいだろうが、孟然はまだ暫くは望岱から動けないのだ。

 勿論あわくって撤退しようとすれば、その乱れを突かれる事になるだろう。慎重に、そして迅速に後退

させなければならない。

「隊列を保ち、粛々と後退するのだ」

 故に王はそう命じた。

 あくまでも撤退ではなく後退、しかもいつでも背後を迎え撃てる構えでの後退。なかなかに骨の折れる

仕事で、精神的な疲労も激しい。それに加え行軍速度も遅くなるというおまけ付きである。決して上手い

やり方ではなかったが、今の壬軍にはこれ以外に選択肢はなかった。

 しかし流石は壬の精鋭部隊、さほど速度が衰える事なく進み。ある程度望岱との距離が空いた後は陣形

を変え、背後を振り切るかのように一挙に速度を上げた。

 その時期になって、後方に飛ばしておいた間諜から、孟然が行軍を開始したとの報が入った。

 ここで反転し、孟然を叩くのが良いのではないか、との案も出たが。蒼愁の進言により、それは却下さ

れたようである。

 彼が言うに。

「必ず孟然の軍勢を撃退出来る補償は無く、何より兵糧がすでに乏しくなっております。となれば兵糧を

得る為、望岱をも落さねばなりません。しかし反転して孟然を討てたとしても、おそらく配下の兵達が望

岱へ逃げ、防壁門を閉ざして亀のように篭るでしょう。

 我が軍には望岱を落す時間も力も無く。背後からは漢本軍がやって来ます。これではまったく勝ち目が

ありません。

 そうである以上、反転して討つのなら、かの軍を殲滅する事が前提となります。ですがそれは不可能で

しょう。彼らは、虎という者は、悪戯に野に屍をさらすような真似は致しません。孟然もそのような事は

すでに考えているはずで、むしろ反転して迎え撃ってくれるのを待ち構えている可能性があります。

 それに彼としては、敢えて危険を冒さずとも、再び望岱へ篭る手もあるのです。

 軍を殲滅するには、まずその軍が一兵たりとも決して逃げる事がない、という条件が必要になりますが。

そのような状況に持ち込むのも、難しいでしょう。

 ならば前をのみ見、漢軍の陣形に穴を空ける事だけを考えた方が良いと思います」

 こう言われれば、反転策を主張した者も無理強いは出来ない。

 結局は迷わず正面突破する方が最善だと納得し、皆不退転の覚悟で進軍へ集中したのであった。

 しかし街道沿いに造られた砦の中には、一度撤退したはずの兵が戻っている所もあり、折角の覚悟も虚

しく、壬軍は予想外の時間を費やされた。




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