6-8.故国へ


 道は容易くない。

 しかし壬軍は懸命に進み、次々と砦などの障害物を落として行くしかなかった。多少の時間には目を瞑

るしかなく。腹を括ってなるべく死傷者が出ない事をだけ気にかけ、解る限り手薄な場所を選んで進む。

 手薄な場所を作ったのは、或いは敵側の策なのかもしれなかったが、ここまで来た以上は敢えてその策

に乗る事をも覚悟した。今更じたばたと細かい事を詮索していては、それだけ無用の時間が経ってしまう

からだ。

 戦略段階で負けているからには、何をするにも無理を重ねるしかなく、何処を見ても楽な道などはない。

真に如何ともし難い状況である。

 手薄とはいえ砦は砦、障害物は障害物。自然時間を取られ、孟然率いる軍勢との距離が詰まり、非常に

不味い事態である事は変わらない。

 漢軍が孟然と足並みを揃えるようにして進んでいる事を考えると、事前によほど綿密な計画を立ててい

たのだろう。こうして壬軍が半ばやけくそのように進撃する事も、或いは予想の内だったかもしれない。

 明節、孟然、この二人が敵者ならば、例え首尾よく逃げ出せたとしても、相当の被害を負う覚悟をして

おく必要がある。

 明節は後方支援を主とし、自らが軍勢を率いた経験は少ない。しかし将としての訓練は受けている。決

して家柄に甘んじるような人物ではない。その点からして他の貴族と違い、昔から気骨のある人物であっ

たようだ。

 そしてだからこそ漢嵩に信頼されたのだろう。

 確かに漢嵩や央斉には及ぶまい。だが舐めてかかるには油断ならぬ相手である。

 輸送や補給などの後方支援をやるとしても、よほどの状況把握能力が要る。更に補給物資が軍に届く為

には時間がかかり、その時間を考えながら、常に先を読み先を読んで命を下す必要もあった。兵糧や物資

が欠乏してから送っては遅く。常に先送りしなければならないという苦悩があるのだ。

 それが支援役の辛さであり、生半な神経と決断力では行い難い。人が思うよりも相当厳しい役目なのである。

 軍事的才能を持つ者は少ないが、こういう支援役の才能がある者も同じくらい少ない。どちらも稀有の

才能であると言えよう。それが良いか悪いかは別として。

 明節には少なくとも戦況を読み、全体を冷静に見渡せる力があると考えられる。

 孟然の方は言わずもがな、政治的、軍事的、どちらも見ても無能とは思えない。彼ならば充分に一軍の

将を任せられると思える。

 しかし壬にも利点が無い訳ではない。

 孟然軍は弱くはない。だがとても単軍では壬に勝てない事が解っているから、どうしても一日二日以上

に距離を縮める事が出来ないのである。

 あまり詰めすぎると、漢軍の応援が来る前に敗れ去る可能性があった。壬が波に乗れば、一日かからず

勝敗が決してしまう事も少なくない。確かにそれで壬軍を疲弊させる事は出来、後から来る漢軍は楽にな

るだろう。しかしそこまでして漢に孟然達が肩入れするとは思えない。

 死を賭して漢に尽くしたとして、孟然達にはさほどの利はなく。手持ちの軍勢が減少すれば、その分だ

け孟然の力が弱まり、後にどういう事になるかも解らなくなる。

 孟然は明節があくまでも壬を滅ぼす為の手駒としてのみ、自分を重用している事を知っている。彼とし

ては常に力を温存し、蓄え続けなければならない。壬の次は自分が標的にされる可能性も高いのだ。

 そういう意味でいえば、逆に孟然としては壬が滅んでくれない方がありがたいのかもしれない。

 様々な思惑があるだろうが、どちらにせよ壬軍にとってはありがたい事だ。明節も孟然があまり距離を

詰められない事を、きちんと計算しているだろうが。相手がそれ相応の気構えと準備をしているとしても、

利点はあくまでも利点である。利用しない手はない。

 故に速度への拘りも捨て、兵糧の問題にせっつかれてはいたものの、少しだけ壬軍はゆとりを取り戻し

たようだ。

 それに壬は建国以来貧しい国であった。飢える事にも粗食にも慣れている。

 王などはそれを言い、日頃から貧乏もしているものだと豪快に笑い、将兵の笑いを誘ったものだ。覚悟

を決めれば憂いも何もない。後は腹を空かして進むのみ。辛いのは辛いが悲観的になる必要はなかった。

 悲観したとて腹が膨れるはずもない。そう言う事はこの大陸中で虎と壬国が一番良く知っている。

 いざとなればその辺の雑草を食べれば良いし、大陸では冬でも草木が全て枯れ落ちるような事はないか

ら、そう言う意味でも何処か気楽でいられた。

 しかし気楽であっても決して弛みは無い。粛々と進み、将兵の目には並々ならぬ闘争心が芽生えている。

逆にこの飢えが彼らを引き締めたのかもしれない。以前の小さき国土を必死に賦族から護っていた、あの

当時の心に還って。

 各砦の守備兵も必死に防いだが、壬軍の士気を挫く事までは出来なかった。彼らが思う以上に、壬の将

兵は窮地に慣れていたのである。王その人ですらも。

 この辺が壬国が他国と違うところだろう。だからこそ強い、強くいられるのだと思える。

 大陸一とすら呼ばれる屈指の精鋭部隊、壬の黒竜と。蒼愁が育て上げ、碧国との戦で大いに成長した虎

竜。その力の源は常に心に在る。

 それに彼らにとっては、むしろ現状の方が、以前のどっちつかずの状態よりもより理解しやすく、また

意欲の燃える事態なのであろう。

 解りやすさもまた、力となる。



 漢軍と明日にでもぶつかるだろう距離にまで到着した。丁度望岱と漢の首都、至峯(シホウ)との中間

辺り、ここを越えれば壬領土まで後一歩という地である。

 漢軍は平野に展開し、総数は三万に及ぶと見られる。他に別働隊として一万を越える軍勢が壬方面を睨

んでいるようだ。

 おそらくこれは漢としても限界に近い兵数であり、或いは各地の守備隊から臨時に集めた部隊も含まれ

ているかもしれない。

 明節は本気で壬を潰そうとしている。

 碧軍との戦いに置いても、そのほとんどを壬が引き受けたため、例え玄での項弦(コウゲン)との戦い

によって疲弊させられたとしても、しっかりと明節は決戦兵団となる兵数を残せたようである。

 流石は明節というべきか、計算高いと罵るべきか。

 明節の支配力が強いのだろうか、兵の意識も統一され、乱れもなく。例え個々には幾許かの迷いがあろ

うとも、軍隊としてはまとまっている。見せかけだけという可能性もあるが、明節も勝機がなければ戦を

起こすまい

 この本軍と孟然の軍団とで壬軍を挟み、揉み潰してしまうつもりなのだろう。

 孟然が迫っている事を思えば、今すぐにでも突進したい所であったが、ここは距離を置いたまま一晩兵

を休ませる事を壬王は命じた。肝が据わっているというのか、度胸のある事である。

 夜襲を警戒したが、どうやら明節にはそのような考えはないようで、漢側もゆっくりと休息を取ったよ

うだ。壬軍の強行軍と飢えによる疲労を突くのかと思ったが。孟然の到着を待って、堂々と攻め潰すつも

りらしい。

 こちらも落ち着いているというのか、より確実な道を選んでいる。

 確かに夜襲というものは敵を追っ払うのには良いが、確実に将を捕えようと思うと、利があるかどうか

解らない。何せ夜なのだから、例えば影武者でも立てられれば区別がつかないのである。

 それに壬も夜襲を警戒しているはずで、そこへ仕掛けたとしても、初めから奇襲にはならない。

 勿論、壬が影武者のような手を取るとは思えない。しかし賦国も紫雲緋を生かす為に驚くべき事をやっ

た。それを思えば、壬もいざとなれば何をするか解らない。それならばより確実に滅ぼす道を選ぶ事が、

賢明といえば賢明なのだろう。

 もしここで壬王達を逃せば、後々非常に面倒な事になる。明節も強引な手を使った。ここで戦場という

場所を利用し、どさくさに紛れて将の首を取ってしまわねば、わざわざ望岱まで呼び寄せた意味が無くな

ると云うものだ。

 例え後で何が起ころうと、殺してしまえば生き返る事は無い。

 壬に勇将が多いとはいえ。王、楓仁、蒼愁を殺してしまえば、その力は半減以下になる。如何に屈強な

兵がいようと、この三者がいなければさほど脅威は感じられない。

 だからこその明節の策であり、強引な手を使う理由にも出来たのである。

 しかも兵数差は二倍、いやいざとなればもっと明節は兵を投入するだろう。何せ漢領なのだから、ある

程度の無理は出来る。付近から寄せ集めても良いし、義勇兵を募っても良い。王から乞われれば、如何に

懐疑的とはいえ、漢民の中でも血気盛んな輩は喜んで集まるだろう。

 勿論、壬本国からも援軍はやってくる。事ここに到った以上、壬もすでに軍勢の準備をしているだろう。

すでに出軍していてもおかしくない。だからこそ漢軍も一万の軍勢を防波堤のような役割として、別に配

置している。

 兵数は丁度その別働隊と同じくらいだろうか。壬本国も一万も出せれば相当な苦労を強いたと思わなけ

ればなるまい。国力も一挙に疲弊するだろう。それくらいが壬の限界である。

 それでもいずれは漢軍を突破して、こちらに来てくれると思える。同数程度ならば、壬が負ける事は考

えられないからだ。

 しかし間に合わない。おそらく援軍が到着する頃には勝敗は付いている。だから壬は援軍を当てに出来

ない。今ある二万と心細い兵糧で行くしかなかった。

「漢軍は短期決戦を望み、我らもそれを望む。しかし理由と状況には天と地の差がある。さて、如何すべ

きだろうかな」

 王が気負いも自嘲も無く発した言葉に、楓仁が応えた。

「決まっています。我らが為すべきは敵陣を抉じ開け、突破するのみ」

 それに蒼愁が同意しつつ言葉を添える。

「はい、それしかありません。我らに出来るのは進む事、それのみ。漢軍もそう睨んでいるでしょうが、

現実に孟然が後一日もすれば到着する事を考えると、選択肢は他にありません」

 再び王が問う。

「しかれば、それをどうすべきだろうか」

 蒼愁が引き続き応えた。声に澱みは無い。

「はい、戦うならば、総兵力を結集し、初手突撃するしかないでしょう。同じ大軍であれば、運動性はこ

ちらの方が上。それを活かし、敵軍が怯んだ隙に逃れるより方法は無いと思われます。漢も予想している

でしょうから、危険な方法になりますが」

 それを聞き、王が三度問う。

「しかし漢をその一攻で破れねば、我々に未来は無いな」

 応える蒼愁の声には変わらず澱みが無い。

「その通りです。なればこそ、死を賭して全力で突撃せねばなりませぬ。ただそれは戦うとすれば、です。

もし王にお許しいただけるのでしたら、私に考えが一つあります。これもとても危険な手ですが、少なく

とも死者の数は減りましょう」

 それだけを聞き、王は決した。死者が減る。理由はそれだけで充分である。

 そして王は命ず。

「よかろう。蒼参謀、全てを任せる」

「ははッ」

 楓仁も黙って頷いていた。戦わないのなら、彼がそれ以上口を出す必要は無いのだ。そして彼も戦いた

い訳ではない。戦わずに済むのであれば、やはりそれが一番良い方法なのである。




BACKEXITNEXT