1-10.発現


 亡くしたはずの右腕が痛む。

「後一押しよ、皆抜かるなよ」

「うるさい、そのような事は解っておるわ!」

「手柄を上げるのは我ぞ!」

 円乃兵が迫り来る。その目にはすでに恐怖は無く、貪欲な功名心だけが浮んでいた。立身出世、それだ

けが貧しき者が生きる道、彼らに選択肢は無い。

 最早義風の運命は風前の灯火。後は誰が一番早く彼を討ち取るのか、目的はそちらへと変っている。

 彼らに容赦あるまい。無慈悲なまでにその刀剣を義風に振り下ろすのだろう。

 右腕が熱い。

「このような者共の手にかかって・・・、私は死ぬのか」

 何が口惜しいと言えば、それが一番口惜しい。

 例え落ちぶれた武家、しかも追放されたに等しい境遇であるとは言え。義風には己は確固たる武士だと

言う自負がある。武士の死は戦場での華々しいもの以外にはあってはならない。確かにこれも戦死と言え

ば戦死であるが、如何にも情けないではないか。

 これでは落ち武者狩りで惨めに殺されるのと大差無いではないか。

 勝利と潔い死こそが美徳とされる武士の世に、これはあまりに無様であろう。

 しかも一族郎党の仇すら討てず、足軽程度に返り討ちにされるのだ。どう考えても面目が立つまい。死

んでいった者達にも顔向け出来ない。

「嫌だ! こんな所で死んでなるものか!」

 義風は身も毛もよだつ悪寒を振り払うように、精一杯に叫ぶ。

 そして念じた。力あれ、我に力あれ。鬼となったのならば、今こそその力あれ、と。

 羞恥心にも似た死を厭う感情が、彼の中で逆巻いていた。

 それに呼応するように右腕が痺れる。

「何でも良い! 私に力をくれ!! 鬼でも修羅でも荒神でも、いや、魑魅魍魎悪鬼羅刹でも良い。私に

誰か力を与えてくれ!! これが私の、人の力だと言うならば。私はその全てを否定する、私の全てを否

定するッ! 力を! 我に力をッ!!」

 その時であった。内に燃えるような、己とは違う覚えの無い意志を感じたのは。

 ちりちりと、心の奥で何かが燃えている。

「汝の願い成就せり、我が願い成就させり」

 突如右腕の感覚が裂けた。

 それ以外に説明しようが無い。そしてそこから何かが生えて来る。新たな何かが生えて来た。

 それは金色に輝く奇妙な腕。まるで雷光のように瞬く化生の腕。

「なんだあれはッ!!」

「この化物がッ! さては他家の差し金かッ!?」

 円乃兵達が足を止めてざわめく。しかし彼らもこんな時代を生き抜いて来た者達である。今更化物の一

人や二人見た所で、その欲望が消える事は無い。化物殺しの名声まで得られ、一石二鳥と言うもの。

 すぐに己を取り戻し、多少慎重になったようだが、そのまま一直線に義風へと突撃した。

「なんだこれはッ!!?」

 だがこの事態に一番驚いていたのは、他ならぬ義風本人だったろう。金色の奇妙な腕は人の手よりも遥

かに大きく力強く、その長さは容易く地面を掴める程であった。光が細く伸びたような指は八本、親指ら

しき物が二本生えている。指の先にはその指よりも太く強靭そうな爪が伸びていた。

 それを見て心に浮んだのは、ただ嫌悪感のみであった。醜く汚らわしい、正に妖魔の腕。

 あまりの事に、義風はその腕を投げ捨てるように振り払った。

 場を一陣の雷光が薙ぐ。

「馬鹿なッ!! 退け、退けいッ!!」

 雷光から運良く逃れ得た足軽頭の一人が一目散に逃げて行く。

 後に残ったのは、ありとあらゆる形に両断された多数の骸。義風の一振り、ただ一振りでその場に居た

ありとあらゆるモノが切り裂かれていたのである。八つの指からそれぞれ放たれた雷光の刃は、全ての物

を容易く両断し、焼け焦げた切断面からは煙が昇っている。

 義風は状況が理解出来ず、気の抜けた顔で己の変貌した右腕を眺めていた。

 右腕は目覚めを告げるようにぶるぶると蠢動し、その振動が伝わってくる度に、義風はその腕と自分と

が確かに繋がっている事を、まざまざと思い知らされたのだった。 


 義風の心は狼狽している。

 いや呆然自失している、そう言った方が良いか。

 ともかく自身の右腕を動かしながらも、訝しげにまじまじと眺めていた。一体これは何なのだろう。何

かの戯れか幻なのだろうか、と。

 しかし嘘でもまやかしでも無い。それは彼の意志によって動き、彼の無意識によって存在している。

「これが修羅王だと言うのか。我が右腕、これがあの荒神の言う力なのか・・・」

 それ以外に思い当たる節は無い。

 振り上げて空にかざす。まるで実体感も無いのだが、確かに彼の意志で動くようだ。

「私が人を捨てた証と言う事か。・・・・・それならば是非も無い、これならば確かに円乃を滅ぼせよう。

人如きが、この力に抗えるはずもない」

 無我夢中で振った一撃、たったの一振りでこれだけの事をやれるのだ。おそらく何千何万の兵が押し寄

せようとも、何ら問題では無いだろう。まるで天災を前にした時のように、ただただ人間は無残に屠られ

るのみである。これこそ正に鬼の力、人外の力。

 だが何故だろう。どうしても喜びが湧き上がってこない。嬉しいはずなのだ。あれだけ願っていた、求

めていた力を得た。いやそれ以上の力を得た。しかしまったく歓喜が呼び起されない。

 まるで沼の底のように冷え冷えとした静寂があるのみである。

 驚くほど心が冷たく、凍りついたように動かない。

「私は変ったと言う事か・・・」

 その時だった。一瞬強く右腕が蠢動したかと思うと、するするとまるで巣穴に入る蛇のように、禍々し

き右腕が義風の体内へと吸い込まれたのである。次いで肉体が震えだし、忘れていた激情が戻って来た。

 当然のようにあの痛みにも似た熱さも感じ始める。

「私は果たして人なのか、それとも鬼なのか、一体どっちなのだろう・・・」

 骸を前に義風は崩れ落ち、何故だか浮かび上がってきた無力感に押し潰され、独り静かに涙した。

 何に泣いたのか、何の為に泣いたのか、それは義風自身にも解らない。

 哀しくも無く、辛くも無く、痛くも無い。

 そこにはただ只管に涙だけがあった。

 誰よりも人間らしい涙だけが。

 

 一体どれくらいの時が流れただろうか。

 義風はふと朝日を感じ、視線を高く上げた。

 大きな太陽がこちらを差している。いつもと同じ眩しくも柔らかい光が自分を差している。

「光は平等に差すのだろうか・・・」

 差すに違いない。鬼であろうと、人であろうと、或いはそのどちらでも無かろうと。おそらく光はそこ

に在る物に、区別無く差すのだろう。その間を何かが阻まぬ限り。

 義風は立ち上がった。

 疲れは無い。眠気も無かった。

 骸の中で、彼一人だけが健やかな、何処か満たされたような気持になっている。何やら飢餓感が満たさ

れた時に似た気持が、彼の心に溢れていた。

「そして私は憎き円乃の血によってのみ満たされる・・・」

 今ようやく悟った。これは確かに呪いなのだろう。しかし自分にとっては正に祝福である。

 あの荒神を満足させるのは、正にそれなのだ。単純に言えば、大いなる皮肉、そしてそれから来る不幸、

最後に残る絶望と嘆き。そう言ったもの全て、その全てが少しずつ荒神を満足させていくのだろう。

 そしてそれをもたらすのは全て、義風一個の役目である。

 結局満たされるのは、あの荒神だけなのかも知れない。

 しかしそれでも良い。とにかく復讐は成し遂げられよう。

 例えあの世で皆がこの呪いを嘆くとしても、それだけは褒めてくれるだろう。よくやった、武士として

お前は良くやったのだ、と。人としてでは無く、武士としてよくやったのだと。

 勿論それは、もし彼の死して行く先が、一族郎党と同じ場所であるならば、の話ではあるが。

 だが今義風は、それさえ酷く虚しいモノに感じている。

 それも何故なのかは解らない。

 ただ独りだけ、おそらくこの世で独りだけ、彼は虚しかった。虚しさだけがある。

 ひょっとすれば、寂しかったのかも知れない。  

                               一章   了




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