1-3.夢、微かな平穏、全ては只管に潰える


 炎は途切れる事無く続いている。屋敷中に燃え移って居るのだから、当然の事かもしれない。

 煙が立ち込め、義風の視界を塞ぐ。

 無理に目をこじ開ける事を試みても、数秒経たず今度は涙で視界が覆われてしまう。為す術は無かった。

片手で目を覆いながら、廊下を見下ろすようにして必至に進むしかない。

 そしてその後を爺が必至に追っていた。老齢だけに単純に速度では義風に敵うはずも無いが、しかし不

思議と爺の方が速かった。場数を踏んでいるだけに、気構えと経験の差がそれを生むのだろう。

「若、もそっと身を屈めねばなりませぬ。煙は上へ上へと登ろうとするもの。人はそれに逆らうように進

まねば、煙に呑まれてしまいますぞ」

 義風は素直に爺に従った。

 こういう場合でも彼からは冷静さが失われてはいない。いや、怒り猛っているからこそ、尚更冷静にな

れたのかも知れない。人間怒りも度を越せば、逆に身震いするほど冷え切ってしまうものだ。

 義風は自らの志を遂げる為に、我知らず最善の道を選んでいるのだろう。

 爺もそれが解っているだけに、余計な事を言おうとはしなかった。変に意味の無い事を言おうものなら

ば、折角の義風の気構えを崩してしまいかねない。義風に冷静さはあるものの、平静さとは無縁である。

 根底にあるのが怒りの感情であるからには、どうしても崩れ易く暴走しやすい。

 それを安定させる為には、ほとんど頭を使わせずに単純に行動させ続ける事しか無いだろう。しかも途

切れる事無しに。もしふと我に還ってしまえば、義風は単なる暴風の如くになってしまう。

「若、庭から回りましょう。そちらの方が煙も薄い故、おそらく春宗めもそちらを通るはず」

 義風は爺を振り向きもせずに方向を変えた。

 走っている内に次第に感を掴んで来たらしい。その速力は、ともすれば爺が離されてしまう程になって

いた。その上、庭に出れば煙も薄く、義風を遮る物は無い。

「流石は義風様・・・」

 爺はそれを見ながら若君の成長に目を見張る思いであり、だからこそ心底惜しいと思った。この若君で

あれば、例えこのような最小の集落に居て尚、一国程は切り取れる器量があるかも知れない。

 父義実には無い、田舎の野生育ち故の強靭さと生命力に満ち満ちている義風であれば。

 それを証明するかのように、凡人なら絶望し、恥も外聞も気にする事無く逃げるのが常であろう現状に

おいてさえ、その心根も武士として真に立派である。

 心体ここまで立派な人間が一体この世にどれ程居ると言うのか。

 そのくせ若君は誰よりも高貴な血に名を連ねる方である。故有って今はそれを名乗る事も許されていな

いが、このご時勢いずれはそれも過去の枷となろう。

 それどころかこの戦乱を生き抜きさえすれば、高貴な血統の正統を継げる事さえ出来るかも知れぬ。

 今の貴族などは乱世にあれば揃いも揃って無力である。その中にあって、おそらくは唯一他の武家に匹

敵する、或いは凌駕する人物となれば、古今無二の存在では無かろうか。

 その価値くらいはいくら貴族達でも解る事だろう。

「しかしその気概故に、ここで死なねばならぬ・・」

 口惜しいが、それもまた事実であった。

 血走りの音と、人々の絶叫が聴こえる。その中には間違えるべくもない、当主義実の声もあった。

 間違いなく劣勢であろう。無礼者、無頼漢、武士の恥さらしと罵る声に、彼の悲痛さが強く込められて

いる。その悲痛さは同時に敵側の優勢を如実に示していた。

 元々数十倍もの兵力差である。しかも婚礼の日に襲われたのだ。これで優勢に戦えるのであれば、義実

はとうにこの国の主、いや天下を取る事さえ出来ているだろう。

 それ程に絶望的なのだ。

「若、初陣でござる。祖先の勇名に恥じぬ働きをなされい」

「うむ、必ず仕留めてみせる」

 義実は門を後ろにして戦っているはずである。このまま突撃すれば、春宗の背後を取る形となる。そし

てもし春宗の首を取れれば、或いは敵兵は引くかも知れず、また逆に仇を取ろうと奮うかも知れない。

 爺は前者に賭けた。もし義風が生き残れるとすれば、それしか無かったからである。

 そして二人は修羅場へと一息に飛び込んだ。


「義風!?」

 義実が叫ぶ。

 彼の目論見ではすでに義風は凪雲と共に落ち延びているはずであった。それがこんな所に現れるとは一

体どういう事だろうか。

 しかしそんな彼の疑問と不安を吹き飛ばし、正に暴風の如く義風は太刀を振う。

 丁度義実の真反対から現れた為に、春宗の軍勢を前後から挟撃する形となった。当然、春宗勢の混乱も

大きくなる。背後から援軍が現れたと思ったのであろう。敵の拠点であるからには、兵を備えて居てもお

かしくは無い。

 しかも義実が春宗の予測を越えて迅速に行動した為に、未だ門を破れず、外に居る軍勢を引き入れられ

ないでいた。つまりここに居るのは数十人程度の小勢でしか無い。そこを前後から付かれてしまえば、流

石に恐怖からは免れまい。

「義風、初陣である。奮え!」

 瞬時に義実は状況を察し、自らの狼狽を打ち消した。

 彼も高貴な存在とは言え、平穏な日々を送って来た訳では無い。そのくらいの事は幸か不幸か容易く出

来るようになっている。貴族にしては滅法打たれ強く、精神も鍛えられていた。

 それに良く考えれば外の方が敵兵が多いのである。返って義風がここに来たのは好都合かも知れない。

「あれを見よ。あれこそ宝刀凪雲!あれを取れば恩賞は思いのままぞ!!」

 だが事態は義実と爺の思惑を大きく外れた。

 春宗が兵が混乱する前に、大声でそう下知したのである。

 春宗の軍勢も今で言う軍隊と言うよりは、夜盗の群と言った方が相応しい。それ故に欲望も人の倍はあ

った。しかも凪雲は見るだけで奮えが来る程の宝刀である。これを手にしたい、我が物にしたい。そう思

わない者は無かった。

 結局、狼狽よりも欲望が勝ったのである。

「あれは俺の物だ!」

「いや、恩賞はわしの物!」

「ほざけ、手前らとっとと道開けろい!!」

 春宗の軍勢は津波のように義風へと押し寄せた。最早義実達など目もくれない。勿論義実達はそれを止

めようとしたが、時すでに遅かった。

 それに義風を助けるには、距離があり過ぎ、春宗も居る。忽ち義実達も乱戦に呑まれてしまった。

 前後から挟撃。それは正に起死回生の手となるはずであった。しかし敵は他ならぬ凪雲が目当て、そう

なれば義風は自殺しに来たようなものだった。

 疲兵ばかりとは言え、流石に二人相手に数十人も一度に襲いかかられては、鬼神か修羅でも無ければと

てもの事勝ち目があるはずは無い。

「若、お逃げ下さい!!」

 慌てて爺が間に入るが、忽ち何本もの槍と刀で突き立てられ、一瞬にして哀れ無残な残骸となってしま

った。しかしそのおかげで幸いにも僅かな時間を稼ぐ事が出来た。

「爺、先に行って待っておれ!」

 義風はその爺の骸を踏み台にして、なんと身軽に雑兵の群を飛び越え、そのまま春宗へと凪雲を突き出

した。恐るべき跳躍力である。

「春宗、よくも謀ったな!」

「ぬ、化物かッ!!」

 春宗は義風の跳躍に度肝を抜かれたものの、流石は円乃に春宗ありと呼ばれた剛の者、難無く義風の太

刀を避ける。

 義風は着地して尚体勢を崩さず、無我夢中で何度も突きを繰り返すが、それも軽々と捌かれてしまった。

将来的にはどうなるか解らないが、少なくとも今の義風では手も足も出ない。

 そうこうしてる内に我に返った春宗勢が再び津波のように迫り来る。

「義風、ここは引くのだ!」

 春宗勢を義実達が犠牲を払いながら、何とか食い止める。が、この戦力差ではいずれ包囲殲滅されてし

まうだろう。勿論義風を助ける事も出来ない。

「フハハ、貴様もここまでよ!!」

 気合と共に振われた春宗の槍が、義風の右腕を凪雲と共に斬り上げる。右腕は虚空を虚しく切り裂き、

凪雲が小気味良い音を立てて地面に深々と突き刺さった。

「義風ッ!!!!」

 義実の叫びも虚しく、無力化した義実は胸を槍で串刺しにされ、そのまま門へと投げ付けられた。

 そしてその凄まじい勢いで、激音と共に門が開き、そこから雪崩打って春宗勢が襲い来た。忽ち義実と

その一党も討ち取られてしまう。終わってみれば呆気ない最後だった。

 その後も小さな集落に一晩中炎と怒声が荒れ狂い。全ては無残に引き裂かれたそうだ。

 家屋も家畜も残さず焼かれ、住民は残らず惨殺されたと言う。

 義実の治める集落は、一夜にして灰となった。




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