それは誰知る事も無く、そこに現れた。 呼んだには違いないのだが、まるで呼ばれて出てきたと言う感じでは無い。初めからそこにそっと、い つからそっと居たような、そんな不可思議な雰囲気を感じる ゆらりとした影だろうか。陽炎のように浮んでいるが、果たしてその存在は本当は何処に居るのかが解 らない。そんな像が、言わば宙に映っている。 「ワレを呼び出せし者はそなたか。望みは何ぞ」 影は春日に問う。 「義風様を、義風様を再び現世へ呼び戻し下さいませ」 それを聞き、影は笑った。 「容易い事。しかしそれにはそなたの魂をいただこう。役の者とはそう言う約定を交わしたはず」 「ええ、ええ、解っております。この命、いくらでもお持ち下さい」 影は再び哂う。 「命だと。ワレが望むのは、そのような下らぬ物では無い。ワレが望むのはそなたの魂ぞ、穢れ少なきそ なたの魂。永遠にワレの元に侍り、ワレとまぐわり続けるのだ。それでもそなたはその若者を呼び戻した いと望むか? 望むのは容易いが、叶えるのは容易くはないぞ」 それを聞き、春日の顔が変わった。魂と言う事は、魂と言う事は、未来永劫この影と共にあると言う事 ではないか。この世の生を諦めるだけでは無い。決して逃れられぬ、久遠の常闇に陥る事である。 と言う事は、最早二度と義風と逢う事も無く、結ばれる事も無い。 この世で再び出会う事も、来世で出会う事も出来ない事は、今の春日にとっても死の宣告に等しい事。 例え執念に心が支配されていようとも、これは簡単には決める事が出来なかった。 「ふふふ、迷うか。そうであろう、迷う者こそが人である。ならば良い事を一つ教えてやろうか。ワレと まぐわうと言ったが、それは遊び言葉。役との約定ではワレに捕らわれるのみである。それに望めばそな たの望んだ結果が、果たしてどうなって行くのか、それを見せる事も出来よう。そなたにとっても、これ は悪い約定では無いはずぞ」 「では、義風様とお話が出来るのですね!」 影は哂う。 「否。姿、声を見せるだけ。そなたも解っているはず、最早その若者とは出会う事は無いと。そして結ば れる事も無いと。未来永劫共に居るのはワレとそなたと、そしてそなたと志を同じくした者のみである。 それでも姿と声が見れれば、そなたの慰めにはなろう」 春日は暫く考えていたようだったが、どの道今更止める事などは出来なかっただろう。 この影を呼び出せる機会も、これが最初で最後である。この機会を逃し、生きたとしても。いずれ彼女 は別の誰かに嫁がされ、ただただ運命に、春匡の望む運命に流されるのみ。義風の姿も、名前すらも二度 と耳にする事は無い。 それならば、例え姿と声だけでも義風を感じたい。せめてそれだけでも見て居たい。死して一生結ばれ ぬくらいなら、その姿を見る事が出来るだけでも果報者では無いだろうか。そうすれば義風は再び現世に 甦る事が出来るのだ。 振り返って思えば、彼女は周囲を取り巻く怨念に毒されていたのかも知れない。そもそもそうでなけれ ば、この邪法を思い出す事も、用いる事も無かったと思われる。 つまりはこの場に来た時点で、春日の運命は決まってしまったのだろう。 「解りました。この魂、永劫に捕らわれましょう。それで義風様を救えるのならば、春日は、春日はそれ だけで満足でございます。我が兄と父が犯した過ち、それを思えば、もう義風様に顔向けなど出来ないの です。悩む事は無かったのです・・・・悩む時はすでに無かったのですね・・」 春日は諦めたように全てを受け入れ、影との約定を受け入れたのであった。 それは彼女と、そして義風までをも、救われぬ奈落へ陥れる事であったのだが・・。勿論彼女がそれに 気付く事などは無かった。 物事の真理、そして最善の道などは、過ちを犯した後にしか気付けないモノなのだろうか。 「よかろう。役の娘よ、古の約定に基き、汝の願を叶えよう。そして汝は常闇が終わるまで、その時が来 るまで、未来永劫ワレと共に居るのだ。さあ、我が元へ、己が足で自らを運び入れるが良い」 「・・・・・はい・・」 春日は朧となり、名も失われし古の荒神の元へとその魂を捧げたのであった。 そこは永遠の闇、決して開いてはならぬ場所。冥府よりも更に深く、死すらも羨む場所。人の世、神の 世さえも関われぬ場所である。 春日は影と溶けた。
自らを見詰める眼がある。 夜闇を夕日で切り裂いたような、不思議な色をした眼だ。 「何か用か? ここは何処だ?」 身体は貼り付けられたように動かす事が出来ず、真っ暗で音も匂いも感じない。先ほどまではあれほど 炎と敵意を全身に浴びていたように思うのに、今はもう何も無いのである。 問うた声も、また虚しい。 眼はじっとこちらを眺め、そして哂った。 滲み出すような、声無き哂い。しかし不思議と劈(つんざ)くような声に聴こえたような気がする。 「若者よ、そなたは運が良い。運が良いぞ、若者よ」 「運が良いだと、それはどう言う意味か?」 眼はその存在に違わず、不明瞭な事を言う。この暗闇に覆われた自分に、その自分の何処に幸運が見つ けられると言うのか。嘲笑にも思え、身震いする程の怒りを感じる。そうだ、誰であろうと哂われる事を 許してはならないはずなのだ。 少なくとも、そう教えられたように思う。 「そなたは甦るのよ。再び現世に呼び戻され、そして父親の仇、郎党の仇を討てる。これ以上運の良い者 が何処にいよう」 眼は楽しそうだ。何がそんなに楽しいのだろう。 「貴様は誰ぞ! 我は義風!! 違い無くば、その名を示せ!」 「これはこれは剛毅な若者ぞ。ワレに向いそのような言葉を吐くとは、これは面白い、面白い若者ぞ。な らば告げよう、しかしワレの名は失われて久しい。失われし荒神と言えばよろしかろうか」 「失われし荒神だと!?」 荒神、その名の通り荒ぶる神、人に仇なす荒御魂を持つ神のはず。その古き神が一体この人の身である 自分に何の用があると言うのか。 「そう、失われた名、ワレですら思い出せぬ永劫の昔、天地に響いた名であった」 「その荒神が私に何の用だ?」 「ふふ、そなたに力を貸そうと言うのだ」 「なんだと、神が人に力を貸して、それで一体何を得ると言うのか。それもこの死せる私に」 荒神であるか、冥府の亡霊であるかは知らないが、この眼と話すうちに徐々に記憶に甦って来た事があ る。自分は裏切られ、そして殺されたのだと。そして護るべき家宝の神剣までも奪われたのだと。 すると猛る怒りは弥増し、義風の身体を震わし始めた。血が滾るかの如く、怒りが全身を駆け巡る。 「何を得る、何を得ると問うか。ならば答えてやろう、ワレはそれで愉しみを得るのよ。永劫の愉しみ、 或いは一時の愉しみであるかも知れぬ。だがどちらでも良い、ワレは愉悦が欲しい、ワレは愉悦を求めよ う。怠惰な生に必要なのは、ただそれのみであろう。永劫の時を生きるのは退屈なのだ」 「愉しみ? 何の楽しみと言うか」 「簡単な事ぞ。ワレはそなたに力を与える。そなたはその力で復讐を成し遂げるのだ。その中で血が流れ よう、嘆きにも支配されよう。それがワレの愉しみ。今では動けぬワレの代わりに、ワレの為し難き事を そなたがやるのだ」 「力? 何の力か」 「鬼ぞ、鬼の力。それも最も猛々しく、最も精強で、そして最もオゾマシイ修羅の力。命果てるまで闘い 続け、命失いしとも闘いしか残らぬ者の力。これは祝福ぞ、失われし神の祝福ぞ。さあ、受け取るのだ」 「そのような禍々しき力を、受け入れろと言うか」 「そうだ、受け取るのだ。そして受け入れるが良い、己が怒りを受け入れるが良いぞ。そなたの荒御魂に 相応しい忌わしき力で、その力に相応しい災いを復讐に用いるが良い。さあ、受けよ、受けよ、最も禍々 しく最も強き力を受け入れるのだ」 そして全ては弾けた。 震える身は抑えを聞かず、ただただ、失われたはずの片腕だけが熱かった。 「そなたは片神、修羅を宿せし片神の人となるのだ!」 義風は現世へと呼び戻された。 |