1-7.雨は只管に心を濡らす


 ひたひたと雨音が足音を覆う。

 一族郎党の嘆きの涙だと、そう思える程に雨量が多く、粒も大きい。

 まるで雨粒に頬を叩かれているようにも感じる。これで風が更に吹き荒べば、耐えられぬ痛みに晒され

る事になるかも知れない。

 義風にはそれが、自分を復讐へと駆り立てているようにも思えた。速く進め、早く仇を討ってくれと、

そう急かしているように思えたのだ。そしてこの雨が自分を護ってくれているようにも感じた。

 勿論、それは彼の錯覚に過ぎないだろう。

 しかし彼にとっては、それは事実でしかなかった。それに、この雨が僥倖(ぎょうこう)であるのも紛

れも無い事実でもある。

「どちらにしても、早うこの衣服をどうにかせねば。この雨が私を隠してくれている間に、早く着れる物

を探さねばなるまい」

 雨のおかげで多少なりとも血痕が洗い流されているが、それでも目立つ事には変わり無い。紅の血痕は

誰の目にも鮮やかに、不気味に映る事だろう。

 義風は更にその歩速を上げた。獣のように身を低く、時には四つ足で走りながら。

 野盗の嗅覚も侮ってはいけない。奴らはどんなに些細な獲物であれ、決して逃す事は無いのだ。彼らも

生活がかかっているだけに、或いはその手から逃れようとする者よりも必死なのだから。

 それ程に誰もが貧しい。一部の力持つ者達を除いては、今日食べれるかどうか解らぬ程に貧しいのが、

今の世を生きる人々の常である。

 そのまま駆けに駆けていると、何やら鼻先に漂って来た。

「む、この匂いは・・・」

 何処からか香ばしい匂いが飢えた鼻をくすぐる。そう言えば、最後に飲み食いしてから、一体どれ程の

時が経っているのだろう。腹が薄っぺらく張り付きそうな程に飢えている。

 それを思うだけで、キリキリと痛みすら覚える程に。

 それでも目一杯走れるのが不思議で、不意に自らの身体が変わってしまった事を強く思えた。

「鬼も腹が減るのだな」

 しかしそう思うと少し笑え、それよりもほんの少しだが心は楽になる。

 思えば鬼が良家の姫を攫い、酒や食い物を奪っただの。鬼を酒に酔わせて、その間に斬り殺しただの。

今はほとんど思い出せないが、そう言う話を腐る程聞かされた気がする。

 そんな嘘か本当だか解らない話を聞く度に、義風はそれでは人間と同じでは無いかと、不思議に思った

ものだ。

 一体鬼と人とにどれ程の差があるのだろうと。

 今の自分を見るがいい。鬼となっても角も牙も生えていないでは無いか。

 せいぜい彼も野盗の一味と見られるだけだろう。その程度の無様な姿である。

 これでは乞食の方がまだ鬼らしいのでは無いだろうか。刀すら持ってないあの姿、何でも貪り食うその

姿、その方がまだ鬼らしい。自らの力のみで、例え誇らしく羨む事は無くても、他に頼らず生きるその姿

は紛れも無く鬼ではないか。

 それに比べて今の自分はどうだろう。鬼にも成りきれず、人とも言えず、まるで狸か狐が化けてでもい

るかのようだ。こんな事では復讐など遂げられまい。

「そうか、今の私はせいぜい盗人程度か」

 そして今から自分がやろうとしている事を思い出し、義風は今度こそ心からの笑いを漏らした。

 周囲を気にしている為に、声は小さくくぐもり、自嘲の意味合いも強かったが。それは正真正銘の心か

らの笑い声であった。あの惨殺から初めて見せる笑い声であったのだ。

 まずは盗人、そして強盗、次いで人斬り、最後は鬼と。そのように順番に成って行くしか無いのかも知

れない。我ながら面倒な人間に生まれてしまったようである。

 おそらくまだ何処か怖れているのだろう。自分が鬼に修羅に成る事を。人を捨て去る事を・・・。


 義風は獣避けの柵をひらりと乗り越え、人の居ないのを確認しながら慎重に探索し始めた。

 別に村人と争う必要は無い、出会う必要すら無い。ただ衣服を、そして出来れば食べ物を得れれば良い

のだ。だから隠密に密やかに行動した方が良い。

 食べ物の方は例え見付けられなくても、森に行けば、贅沢を言わなければ何か喰える物があるだろう。

しかし人間の服は人間しか持ってはいない。衣服の方を優先せねばなるまい。

 義風は今思い付いたかのように、身に付けていた着物を脱ぎ、褌(ふんどし)一つの姿になった。考え

てみれば、こんな物を後生大事に着ているから危険なのではないか。今まで常のように着ていたが、元々

すぐに脱ぎ捨ててしまえば良かった。

 この着物にも愛着以上の意味は無いのだから。

 義風には良家の子息と言う気持はまったく無い。子供の頃は褌一つで平気で走り回っていたから、爺な

どに毎日のように怒鳴られていたものだ。

 今更褌姿を晒す事など、恥とも思わない。

 それに最早自分は人間ですら無いのだ。人の着物を着た鬼などいるはずがない。鬼には鬼の着物がある

だろうし、そこまで拘らなくても、別にさして必要でも無いだろう。

 服を気にするのは、あくまで人間の発想である。

「私はどちらにしても紛い物だろうがな・・」

 片神、つまりは神に類しながら、その全てが神で無い者。本来ならば人の世にも神の世にも、どちらに

も属せない者。紛い物だと言うのなら、今の義風以上の紛い者はおるまい。

 義風は頭でそのような愚か事を考えながら、獣のように頭を低くして走った。晴れていれば着物を干し

てあったかも知れないが、この雨ではどこぞの家に忍び入るしかない。だから今具合の良さそうな一軒の

家を目指している。

 多少ではあるが、他よりも大きな家屋である。少しは裕福な家を襲わねば、盗る物自体無いだろう。不

本意だが、この刀で力ずくに奪うしかあるまい。

 そうして業を積めば、或いは自分は本当の鬼へと変われるのではないだろうか。今人の姿をしているの

は、まだ自分に鬼として修羅道を生きる覚悟が出来ていないからかも知れない。

 だから人を超える力も持たず、哀れな鬼の成り損ないとして、人からあぶれて惨めに存在している。そ

う考えれば、多少納得出来ないでもないのがまた情けなかった。

「私はまだ甘い。これでは復讐など遂げられるものか」

 そう思うと無性に今の自分が腹立たしくなって来た。最早鬼である自分であるのに、今更それに躊躇す

るとは何事だろう。それこそ武士の面目が立たないではないか。

 武士とは純粋であり、そしてまた潔くなくてはならぬ。

 義風は鬼、鬼と言いつつ、未だ自分が人の作った武士道などを気にしている自分に気付かない。その矛

盾を正当だと感じている。人間とはまったく不思議な生き物である。

「人を捨てる。そして復讐を遂げる。全てを奪い、全てに報いを」

 義風は今までの無様な姿を捨て、その場に雄々しく立ち上がると、父の刀をすらりと抜き放ち、その鞘

を投げ捨てた。からからと鞘の転がる寂しい音がする。

 もうこの刀は収めまい、そう彼は誓ったのだ。そして自らの心も抜き見の刀のように生きると。

 しかし爺の刀はそのまま鞘に収めておく事にした。これを抜くのは春宗めに馳走する時であろう。春匡

には凪雲を喰らわせてくれる。

 自分に生を与えてくれた父の刀であるから、始めるにはこの刀が一番良いだろう。

「考えて見れば、私の村から一歩こちらへ踏み入れば、そこはもう円乃の領土。円乃に従う民草などに、

私が遠慮してやる筋合も無い。こやつらも同罪、手始めに皆斬り殺してくれよう。そして奪えば良いのだ。

私は人では無い、片神の修羅王なのだから」

 思考が脳髄を走る度、自らの心が刺々しく、荒々しくなっていくのを感じた。まるでそう思い込む事で、

自らを正当化するかのように。

 だが純粋に彼の心に恨みと憎しみは在る。再び抑え切れぬ憤怒の炎が燃え上がれば、おそらくこの心全

てを滅ぼし尽くすまでは、決して消える事は無いだろう。

 そんな猛々しい心に反応するように、右腕にじくじくと熱さが加わるのを感じる。斬りおとされた腕が

甦るかのように、その熱さが腕を形作るような、そんな不思議な感覚を覚えた。

 どうせ殺生するのなら、坊主でも殺すのが一番なのだろうが。今は贅沢は言うまい。まずはここの村人

から我が復讐の礎となってもらおう。どす黒いまでの鬼と化す為に。

 どの道円乃に関わった者は殺すのだ。それならば早い方が良いに違いない。今ならば、義風も姿だけは

人のままなのだから。鬼に喰われる恐怖を知らずに済むだろう。  




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