1-8.殺


 まるで家人の如く、当たり前のように義風は戸を開いた。

 普段はガタガタと震え声を立てる戸が、何故か音も無くその時は開いたのである。

 家人も暫し気付かなかった。外から薄明かりが差すのを見ても、どうせ子供が外を焦がれて開けたのだ

ろうと、別段気にもしなかったようである。

 彼はその時、子供は女房と共に彼女の実家へと行っている事を忘れていた。

 男は今炉辺にて草鞋(わらじ)を編んでいる。自らが使うのではない、商売用の草鞋である。

 小さな田畑を耕し、獣を狩る程度ではとてもの事やっていけない。円乃の税は重く、収穫のほとんどは

取られてしまう。それでもまだ田畑があるだけましだった。少なくともここに定住出来、貧しいながらも

当たり前に生きていける。これ以上の贅沢はこの時代には無かった。

 しかしそうとは言っても蓄えは微小で、秋の収穫だけではすぐに底を尽いてしまう。

 だから皆草鞋編みのような内職をやって飢えを忍んでいる。

 幸も不幸も乱世、戦国の世である。草鞋や衣服もほぼ無限に需要があった。毛皮などの加工品も飛ぶよ

うに売れる。矢筒、矢羽、褌、木材、何でも売れた。

 勿論軍隊へ、である。

 それは皮肉な事に戦争があるおかげで食えているとも言えよう。しかし税が重かろうと、兵役があろう

と、それでも飢えずに済むのだ。これほど結構な事は無いだろう。

 例え自分の作った物で誰かが殺されようと、自分達の主が何処で何をしようと、その下知に従って何を

したかなどと、そんな事は関係無い。全ては生きる為である。何が悪い事があろうか。

 自分の命さえどうなるか解らないのだ。わざわざ人様の事まで考えてやる理由も余裕も無い。

「さて、これだけ売れれば暫くは生きて行けるだろう」

 男は顔を上げた。そして疲れを解そうと身体を揉む。もうすぐ女房子供も帰ってくるだろう。おそらく

大根の一つか二つは貰ってくるに違いない。今夜は御馳走だ。

 しかしその時異様なモノが、不意に気を抜いた男の目に映った。

 薄暗い中にもぎらりと輝く抜き身の刀。そしてそれを持つ長身の男。しかも褌一つの姿に片腕が無い。

 知らぬ顔である。その見た事も無い顔が、何事かを喚く様にこちらを睨んでいた。

 落ち武者だろうか。この間、近くの村を襲ったとか何とか言う話しを聞いた。幸いすでに人数は足りて

いたらしく、こんな農民の男まで徴兵される事は無かったのだが。

 しかしこんな褌姿の落ち武者などは見た事が無い。

 では強盗の方だろうか。いや、落ち武者狩りならば、こんなとこに来る訳が無い。こんな戦場でも無い

貧しい村に来て、一体何を盗む物があると言うのだろう。

 戦地に戦の終わった後に赴けば、そこかしこにお宝は転がっている。そんな時に、わざわざ貧乏農家を

襲う意味が無いだろう。

 それにここは紛れもない円乃の領地である。

 領地を騒がそうものならすぐさま円乃兵に追われ、捕まれば即刻斬首される。強盗などは元来計算高い

ものと相場が決まっている。わざわざ敢えて円乃に目を付けられようとする馬鹿も居まい。

 ならばこの大男は一体・・・。

「おい、あん・・・・」

 だが男が言えたのはそこまでで、疑問を解決する事は出来なかった。

 有無を言わさず大男に首を斬られたのだ。手元が狂ったのか、不恰好にあごまで切り裂き、その後も何

度か失敗して傷だらけの無様な首となったのだが、ともかく男は首を跳ねられた。

「・・・・・・・!!」

 大男は家人が死んだのが解らなかったのだろうか。そのまま荒れ狂うように辺りを斬り散らかし、散々

に家内を荒らした。

 おそらく叫びたかったのだろう。だが強張った口は開かず、あまりに強く閉めるものだから、唇から血

が滲んでいた。

 その後もまだ興奮が収まりきらないのか、家中を走り回り、やっと何事か晴れたのか、殺した男から衣

服を剥ぎ取り、そのまま戸口から何処へとも付かず飛び出て行ったのだった。

 入りこんだ雨で家内はしとどに濡れすぼっている。 

 

 恐怖を覚えていた。

 情けなく思いながらも、義風は恐怖と身に映る罪悪感で、あの場から逃げ出すしかなかったのである。

 あれだけ決意し、村人を皆殺しにするとまで奮起したものの。やはり無抵抗の人間を斬ると言うのは為

し難いものがあるのか。そして自らが強盗に落ちぶれたと言う屈辱感もあった。殿様気分は持ってはいな

いが、それでも彼には士魂があるのだ。

 その士魂が今の自分をどうしても許せない。

 だがその思いとは逆に、自らの身体は惨殺を喜ぶかのようにあの苦痛が消えている。右腕の耐え用の無

い熱さも感じ無い。

 驚くほど安定していた。まるであの惨劇の前の自分がそこに居るかのような気分である。右腕が無い事

を思わなければ、あの惨劇は夢であったかと思い込んでしまったかも知れない。

 父の亡骸から譲り受けた刀が、今は鮮血に塗れ、降り頻る雨にも洗われる事が無い。

 まるで刀自身が血を流しているかのように、滴り落ちる血が止まらないのだ。

「はあ・・・、ふう・・・、はあ・・・、ふう・・・」

 何処まで駆けただろう。今頃はあの死体は見付かり、村は大騒ぎになっているのだろうか。

 そして円乃はこの騒ぎをどう思うのだろう。

 取るに足らないと置き捨てるのか、それとも沽券にかけて犯人を探そうとするのか。

 おそらく後者に違いない。

 ならば何故自分は逃げているのか。円乃が相手となれば迎え撃ち、手始めにその兵共を討ち取らねばな

らない。奴らの首だけが、一族郎党を慰める手段なのだから。

「・・・・・・」

 義風は立ち止まり、掻き毟るように握り締めた衣服を見詰めた。

 それから黙って血痕の付いた衣服を着る。これでは自らが犯人だと言っているようなものである。最早

逃れ様も無い。普通の強盗ならこんな物はさっさと捨てて遠くへ逃げるなりするだろう。

 そもそも血塗れの衣服しか無かったから、あの村に入ろうと思ったのでは無かったか。

 否、自分は強盗では無い。そうだ、私は強盗では無いのだ。

 あの男も円乃に付く民であり、我が仇、何を悔む事があろう。当然の報いである。それに鬼が人の物を

奪い殺す事の、一体何処がおかしいと言うのか。

 義風は心底馬鹿馬鹿しいと思いながらも、自分を自分で納得させようと必死になるしかなかった。

 それこそが武士にあるまじき事ではないかと思いながら。

 武士? 自分は最早人間ですら無いのに?

 義風はもう何が何なのかが解らなくなって来ていた。自分が何で、自分が大事だと思っている事は、一

体何が大事で何の為に拘っているのだろう。人を捨てる事にした以上、今更人としての体面を気にしても

仕方が無いだろうに。

 無数の想いが胸奥を去来する。こんな辛く愚かしい想いに悩まされるとは、一体どう言う事なのだろう。

あの荒神とやらが与えてくれたのは、実はこんな馬鹿馬鹿しい悩みだけではないのか。

 治癒力だけが増しても、例え疲れ難くなっていても、そんなモノがどれだけ役に立つと言うのだろう。

修羅の、しかも王などと、その程度の力では笑われるだけではないか。

 義風は自分の全てが惨めでならなかった。今の自分とは果たして何なのか。

 別に高尚な哲学でも無い。心を奮わせる詩的なモノでも無い。

 単純な意味で、今の義風とは何であろう。

 足場となるモノが何も無い自分は、驚くほど儚く無意味な存在に思えた。

 一体これからどうすれば良いのだろうか。

「違う! 私は鬼だ! 一族郎党の仇をとるべく、修羅の王と成ったのだ!!」

 義風は今度は今来た方角をくるりと振り返り、来た時と同じように一心不乱に駆け始めた。

 ともかく円乃に縁のある者を、殺して殺して殺しまくるしかない。それしか今の自分を立てる術などあ

るまい。その為に今の自分は甦ったのだから。

 殺し続ければ、いずれ終わりも見えてくるだろう。それは仇を取るただ一つの道でもある。




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