2-3.鉄(くろがね)の心刀


 

 予想外だった、いやよくよく考えればその方が当然なのかも知れない。

 義風を尋ねて来たのはあの商人では無く、若い女であったのだ。朱の着物に身を包み、行儀も正しく、

一見して武家の娘と言った風である。勿論、彼女に見覚えは無い。

 娘は何も言わずに酒と食事を運ばせ、義風の為に酌をしてくれている。

 優雅な仕草といい、ひょっとすれば芸妓の類ではないだろうか。用心深い商人の事、まずは義風の人と

なりを確かめに寄越したのかも知れない。それには男の扱いに手馴れた芸妓達が一番良いのだろう。或い

はこの女を餌にして、何か取引をしようと言うのか。

 義風はほとんど女に接した事が無いので、扱い方も解らず、先程からむっつりと酒を飲んでいた。女と

目を合わそうともしない。まるで目を合わせば、途端に喰われてしまうとでも思っているかのようだ。

 人間にとって、異性程興味深く、また怖ろしい存在は他に無いと思える。

 何故ならば、何を考えているのか、どう言った生き物なのか、まるで解らないからだ。まして相手が自

分よりもその道に長けた者だとすれば尚更であろう。いつ騙されるか、いつ翻弄されてしまうのか、そし

てどう相手すれば良いのか、まるで解らない。

 正直怖い。

 剣での戦いや、敵者を前にした時とはまた別種の恐怖が義風を襲う。

 初めての恐怖だけに、どうしても持て余してしまう。どうして良いかがやはり解らない。

 只管に酒を飲み、優雅な仕草で女が酌をする。小一時間ばかりもそうしていただろうか、しびれを切ら

したのか、義風と言う人間を見終えたのか、女がぽつりと声を漏らした。

「強うございますね」

 艶な声である。

 酒に強いと言っているのだろうか。確かに義風はまるで酔った風には見えない。多少顔に赤みが差して

いるとは言え、態度は毅然としており、だらしなく寝そべったり、大口を開けて騒いだりもしない。

 ただ酒を飲み、また酒を飲む。意識してそうしている訳では無い。単純に飲む以外にどうして良いか解

らなかったからだが、女の方はどうやらそんな義風を良い方にとってくれたらしい。

 気のせいか笑顔が増えて来たように思える。

「・・・・・・・・」

 義風は変らず、女の声も無視するかのように飲み続ける。

 それも返答の仕方が解らなかったからだが、女の方は同じように良い方にとってくれたようだ。それか

らは両者一言も話さず、更に一刻程して、女は来た時と同じように、まるで役者が舞台からはけるように、

すっといつの間にか消えていた。

 義風は酒が無くなるまで気付かず、気付いてからも手酌で飲み続た。


 次の晩も女は来た。

 そしてその次の晩も、その次の晩も。

 義風はただ同じように、黙って酒を飲み続けた。

 それでも何となく少しだけ楽しくなって来た気もする。ただ黙って酒を飲む。それだけが妙に楽しいの

は、義風がそうする事に慣れて来たからなのかも知れない。

 当初の堅苦しさは消え、自然にまるで一個の絵のように飲む。

 女もいつも同じように酌をし続けた。

 そんな時間が続き、幾度目の晩だろうか。そろそろここを立った方が良いな、などと義風が思い始めた

頃。いつもの女の変わりに一人の男が現れた。

 きっちりと髷(まげ)を結い、義風と同じく旅の野武士と言った風であったが、その目を見れば、あの

商人である事は瞭然であった。

 男は膝を突き、まず深く平伏した。

「・・・・・・・」

 義風は女が来た時と同じように、ただ黙って男を見詰めている。これも単純にどうして良いか解らない

からだ。

 しかしそのままでは流石に悪いと思い、試しに一つ頷いて見せる。これがどうも成功したらしい、男は

微笑みを浮べ、顔を上げた。

 この目、やはりあの時会った行商人に違いない。

「折り入って、御相談がございます」

 行商人は言う。義風は再び頷いてやった。

 どうも黙ってる方が良いようだ。田舎者が喋ると碌な事にならない。義風はそんな事を考えていた。

 そして男は喋り始めた。


 簡単に言うならば、義風は男と手を結んだ。

 何を言うよりも、手を結ぶ、その言い方が相応しいだろう。男は主家こそ明かさなかったが、なんでも

間諜の一人であるらしい。命に従い、最近急速に勢力を伸ばしつつある円乃家を調べに来たと言う事だ。

 勿論、それを単純に信じて良いかは解らない。

 しかし円乃に良い感情を持っていない事は確かであり、出来れば早々に滅びて欲しいと思っている事は

確かであるように感じた。

 男がどの勢力に属しているかは解らないが、誰であれ成り上がりを好む者はいないし。それによって自

勢力が侵されるかも知れぬと思えば、不快にしか思うまい。

 例え戦国とは言っても、いや戦国だからこそ脈々と受け継がれて来た家格と言うモノにしがみ付く者達

も居る。考えれば、元々この地も円乃の物であった訳では無く、実力で盗った物である。それを是とする

者も居れば、当然恨みを持つ者も居るだろう。

 ともかく男がその恨みを持つ者の一人である事には、どうやら疑い無いようであった。

 それにもし男がどうであれ、あまり義風には関係ない。例え騙され利用されたとしても、今の義風から

すれば、ただの人間などは塵のように儚く、枯れ草のように脆い存在。

 修羅の腕、あの力の前には全ては無力であり。騙されたとなれば、男を殺す良い訳が出来、余計な悩み

を持たずに済む。それはそれで簡単になって良い。

 何よりも重要な事は、この男が関所手形を用意してくれると言う事だ。これで易々と円乃領を通過する

事が出来るのだ。手形が無ければ困難な道のりと言う事は、裏を返せば手形さえあれば容易い道のりと言

う事でもある。

「なるようになればいい」

 義風は手形を受け取り、宿を出た。

 そしてそのまま関所へと向う。どの道これ以上滞在する事は出来ない。それならばさっさと行った方が

いいだろう。時刻は遅いが、堂々と行けばかえって怪しまれないかも知れない。

 雨が降っていた。

 線のように長細い雨だ。

 笠と蓑に当たる度、まるで身体が切り裂かれるかのような錯覚に陥る。それほどに細く研ぎ澄まされ、

目で追えない程に速く降る雨だった。

 薄暗い月差しは、何やら心地よく感じる。

 人で無い身には、月明かりこそ相応しい。

「・・・・無粋な」

 ふと気付くと、どうやら義風は付けられているようだった。ひたひた、ひたひたと雨音に似た足音が聴

こえる。今の義風の聴力をもってすれば、人間の忍術などは無意味なモノである。

 おそらく男の手下なのだろう。本当に義風が取引通りに動くのか、或いは裏切りはしないか、それを見

張らせる為と思われる。

 捨て置いた。

 気付かぬ振りをして、放って置けばいい。余計な面倒は御免だ。

 義風は冷え冷えとした思いを抱えている。それは鬼と化して以来、どうやら少しずつ強まっているよう

に思える。それは彼の身体能力においても同じである。耳も目も、日々進化しているような気がする。

 実際しているのだろう。

 それに反して、心はずっと冷え、今では氷でも懐に入れているのでは無いかとすら感じる程だ。

 修羅を受け入れたあの時から、それは加速度的に増し、義風を別の義風にさせて行く。変ると言うのは、

鬼と化すと言う事は、人を捨てると言うのは、そう言う事なのかも知れない。

 ともかく歩く。いつもの歩調で。

 関所も無事越えた。馬鹿馬鹿しい程簡単に越える事が出来た。

 よほど質の良い手形を貰ったらしい。見た番兵の態度が瞬変したのには、流石に驚きもした。

 しかし何がどうだろうと、そんな事は良い。

 雨の気持のまま、義風は関所を越えた。

 暗い静かな道のりは、とても心地の良いモノである。 




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