2-5.鬼が来たりて


 忍に案内された先は、中級程度の良くある宿であった。

 すでに話を通してあったらしく、忍はささと消えてしまったが、宿の者に名を伝えると鄭重に奥まで通

してくれた。

 やけに床が軋む。

 もしかすれば、押し入りや盗賊避けの工夫なのかも知れない。この御時世、何処の店でも安穏とばかり

暮らしては居られない。その街を治める勢力が如何に強くとも、どうしてもこう言った犯罪は無くならな

いし、宿無しが多いだけに尚更である。

 金が在る所は憎悪されるような、そんな時代だ。いや、妬みと楽を求める心から安易に犯罪に走る者は、

いつでも何処でも居るものなのかも知れない。悲しい話だが、必ずその世界に合わない者、またはそう言

い訳して生きて行く輩は居るものなのだ。

 結局は皆、余計な不幸を招くのみであろうに。

 とは言え、皆貧しくその日暮らしな事を考えれば、こう言った商人達はある意味憎悪に近い感情を抱か

れるのも当然とも言え。そう言う点もあって、店主の警戒心が強くなって行くのだろう。乱世での商いこ

そ、正に命懸けである。

 同族同士で警戒し合うとは、人間とはなんと哀れな生き物だろうか。

「用がござりましたら、呼んで下さいまし。御膳の支度もすぐにさせてもらいます」

 案内してくれた女中に心付けを渡すと、そんな風に愛想良く笑った。

 ある程度義風に胡散臭さを嗅ぎとっているだろうに、そんな様子は微塵も見せない。こんな女中程度で

すら底が知れないのが、こういう稼業人の怖さと言うものか。

 知らぬ存ぜぬ、災いからは身一つででもささと逃げよ。それが彼女らの信条のようなモノなのだろう。

 しかし気前の良い客ならば、大抵の人間が愛想良く接してくれる。まるで旧知の如く、あれこれと世話

を焼いてくれるのが不思議だが。それだけが身上であると言えば、身上であるのかも知れない。

 商人魂とでも呼ぶべきモノだろうか。払っただけの分は働いてくれるのだ。

 ともかく女中達、女達の心は取っておくように。手を組んだ間諜はそう言っていた。心付けを用意して

おいてくれたのも、実はこの間諜である。

「酒を頼む」

「はいよ。お先にお持ちします」

 女中は足早に去った。それにしても良く動くものだ。手も足も驚くくらい機敏で、ひょっとすればその

辺の忍ならば勝ってしまうのでは無いかと言う素早さである。

「なるほど、確かに頼りになるものだ」

 義風は間諜に初めて感謝した。

 もし自分だけであれば、心付けなどと言う物は想像も出来ず、確実に粗略に扱われていただろう。人の

往来も盛んなだけに、悪くすれば宿すら取れなかったかも知れない。

 まあ、それならそれで野宿すれば良いだけであるが、流石は世に長けた忍だと思ったのである。

「それではごゆるりと」

 普通ならここで酌などしてくれるか、或いはその為の女でも呼んでくれるものだが。何か良い含められ

ていたのか、女中は笑顔だけ残してまた先と同じように機敏に去って行った。

 とは言え、勿論そんな事は義風には解らない。 

 道中疲れているだろうからと、気を利かせて一人にしてくれたのだろうと思っていた。

 義風はどことなく人を避けるような雰囲気を出している。多少目端の利く者ならば、何かしら察しても

おかしくは無い。むしろ気付かない方が鈍感であろう。

 そうして一人で気楽に寝転び、手酌で飲んで居ると。暫くして再び床の軋む音が聴こえてきた。

「開いてるよ」

 先ほどの女中とは音が違ったような気がしたが、別の女中だろうと大して気にも止めず、それだけを言

ってやった。ようするに余計な手順を踏まず、さっさと飯を置いて、さっさと返れと言う事である。

 人影が映り、するすると障子戸が開き、再び閉まった。

「ん?」

 相変わらず人の気配がするのでそちらを向くと。

「・・・・・・お前は、確か」

 そう、以前会った。あの武家風の女がそこに居た。


 以前と同じように女が酌をしてくれている。

 もう手慣れたもので、一言も喋らなくても、絶妙の間で注いでくれている。義風もこういった風情に多

少は慣れ、前よりも緊張を解いていた。

 しかしこの女は一体どう言う者なのだろう。あの間諜に関わっている事は確かであるが。その辺に居る

ような町娘でも娼妓でも無く、生まれ持った気品と言うべきか、育ちの良さを感じる。

 明らかに武家か高家の娘であり、そのくせ酌なども上手い所を見れば、男の側に居る事も慣れているの

だろう。ひょっとすれば、没落武家の娘か何かだろうか。

 貧しくなれば、誇りも何も無い。かつての姫君が身売りするような話も少なくは無かった。最早姫君が

攫われる時代では無く、自ら売るような時代なのだ。

 そう考えれば、武家女が間諜の手先になっていてもおかしくはあるまい。

 女は何も言わず、静かに酌を続ける。

 何か魂胆でもあるのだろうか。或いはあの間諜からの差し入れだろうか。この女をやるから、その分働

け。女で篭絡する手段は古今ありふれたものである。

 さて、ならばどうしよう。

 いやいや、どうしようもない。

 何も解らないのだから、どうしようもない。察しが付いても、あくまでも察しである。それだけでは何

の判断材料にもならない。ならない以上、どうする事も出来ない。

 安易に餌に飛び付けば、後で必ず大きな災厄が訪れるであろうし。武士ともあろう者が、こんな安易な

罠に嵌る訳にはいくまい。

 据え膳食わねば男の恥と言う言葉がある。しかし武士は食わねど高楊枝である。

 だから前と同じく黙って飲む事にした。

 もし何か用があるならば、あちらから言うであろうし。例え放って置いても、それはそれでなるように

なるモノだ。

 何となくそうなるものです、人間とはそう言うモノだと、昔爺に聞いた事がある。

「・・・・・・・・」

 杯を傾け、何度も何度も飲み干した。視線は前方の畳に固定されており、横に居る女に一瞥もくれない。

 ようするに我慢比べだと義風は思っている。主導権を握りたいのならば、先に相手に手を出させた方が

良い。沈黙に耐えられない方が負けなのだ。

 それに義風は鬼、人間の女などに興味は無い。興味は無いはずだ。

 女は微笑する。

 義風は見もしない。

 そうしてめしも平らげ、後は酒のみとなった。一体どれ程飲んだのだろう。まったく酔わないのは、お

そらく鬼に近付いている身体のせいだろうが。並の人間ならばとうにぶっ倒れているに違いない。

 血が酒に変る程に、五臓六腑へと飲み潰した。

「何も仰らないのですね」

 女がとうとうそんな事を口にする。哀願するような、問い詰めるかのような口調に、義風は少し心を揺

さぶられるのを感じた。自分は何か間違ったのだろうか。

「私共は貴方を見くびっていたのかも知れません」

 困惑を深める義風を他所に、女はいきなり彼の前に座り直し、ゆっくりと平伏する。

 義風は何も言わない。手酌に変えて飲み続けた。

「私は梓葉、アズハと申します。お察しかと思いますが、さる武家の娘として生まれました。今は亡きお

家でございますけれど」

 そして女はもう一度頭を下げる。

「今までの御無礼お許し下さい。そしてどうか、どうかお力をお貸し下さいませ。私を哀れとお思いでし

たら、どうかお力をお貸し下さい」

 察するに円乃に潰された武家の娘なのだろう。お家の、親族郎党の仇討ちと思えば、こんな境遇でも何

処か誇りを忘れないで済むのか。いや、生きる為に無理矢理でも何か目的を作っただけなのだろうか。

 他ならぬ、義風と同じように。

 まあいずれにせよ、義風にはどうでも良い事である。彼も円乃を滅ぼす意志に変り無く、その点で目的

を同じくしている限り、手を結んでいる方が良い。

「元よりそのつもりである」

 だから義風は今更とばかりにそう言ってやった。

「ありがとうございます。この恩は必ず、必ずお返し致しますゆえ」

 暫く頭を下げていたが、梓葉と名乗った女はいつの間にか静かに室内を出ていた。ようするに彼女達は

義風に屈する事を選んだのだろう。

 梓葉か金で篭絡すれば良いと考えていたのが、先程忍に一敗喰らわせた事で、義風に対する評価を俄か

に変えたに違いない。そして今の義風の態度によって、その評価を受け入れる事にしたようだ。

 とにかくこれで単なる同盟者では無く、より近く濃い同胞として迎えられた事になる。

 預かり知らぬ所で待遇が変り、妙な気もしたが、彼にとっても悪い話ではなかった。

 何しろ対等の関係ほど、面倒なモノは無いのだから。




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