穴牢の付近は流石に警備が堅く、それだけに囚人の価値が知れる。 何をやったのかは解らないが、円乃家にとって相当損害を与えるか、または脅威を覚えさせるような事 を犯したのだろう。それだけに義風にとって小気味良くもあり、余計に店主を助けたい気持が湧く。 番兵の影を縫うように忍び、誰にも悟られぬように進んだ。今の義風ならば、本職の忍びでさえ、おそ らく敵うまい。それだけの能力があるのだから、番兵などは物の数に入らない。 「下手人はどうしておる?」 「静かに転がってるらしい。あれだけ打たれれば、はや立ち上がる力などあるまいよ」 「ならば明日には口を割りそうだな」 「いやいや、それが商人にしておくには勿体無いほどの肝っ玉よ。死んでも割らないかもしれん」 「こんな所で命を捨てるなど馬鹿な事よ」 「まったく。まあ、我らは務めを果たすのみ」 「うむうむ。早く交代が来ぬものか」 割合柔らかい口調から察するに、出身は悪く無いのだろうが。どうにも忠誠心と勤労意欲に欠ける者達 である。存外家柄などが良い者ほど、必死さ懸命さに欠けるモノなのかもしれない。なにしろ、彼らは空 腹や支配から、平民よりはより遠い場所に居るのだから。 それにこんな時代だからこそ、家柄血筋などが尊ばれる事もある。義風の父、義実はそこを突かれて騙 し討ちにあったのだが、確かに騙せるだけの根拠はあったと言う事だ。 それ故に、円乃は汚いと思う、心から憤怒の炎が吹き上がる。鬼となり冷え冷えとした心を持ちながら、 円乃を考える時、義風の心に炎が生まれる。 それは彼の心にある、潔癖さから来ているだけに。この番兵達のような輩を見ると、尚更炎がちらつか ないでもない。 だが今の状況では、嫌悪すべきはずの彼らの怠け心がありがたい。嫌悪と利害の狭間に陥り、義風は複 雑な気持を味わう事になってしまったけれども、結局は利点のみを考え、苛立ちを抑えた。 今は店主を救出する事のみ、考えればいい。自分の感情などは余計なモノである。 「・・・・・・・」 黙したままするすると番兵達の背後を駆ける。音一つどころか、気配の欠片も無いその動きに、注意散 漫(さんまん)な番兵達が気付けるはずも無かった。拍子抜けするくらい、容易く警備を突破する。 穴に入る瞬間、その瞬間のみは流石に腸が焦げ付くような緊張感を味わったが、実際は危なげなくその 場を通過出来た。どうやら見た目程の警備では無いらしい。ただ人を配備するだけでは、満足に働かない 事は多いようだ。 ありがたいが、やはり何処か嫌悪感を覚える。 嫌悪感を振り払い、そのままなるべく暗がりを張り付くように移動すると、やがて完全に灯りが消え、 物が擦れる音と小さな呻き声だけが、辛うじて聴こえるような漆黒の世界に踏み入れた。 こんな所に居ては、信心深く無くても、例え物の怪の類を信じていなくとも、人間の心は耐えられまい。 神経が衰弱して、気の弱い者なら下手をすれば死に至りかねない。或いは狂うか。人間は自らの心で、自 らを殺す事の出来る生き物である。 しかし当然義風には関係の無い事だ。 彼には昼間同然とまではいかないまでも、月明かりの下くらいには見通せる。 しっかりと木組みで封鎖された頑丈な牢が見えた。こんな所に拷問後に入れられれば、最早抜け出す気 力も失せるだろう。蟻(あり)が巨石に向うようなものだ。 その中心辺りだろうか、奥に闇が篭り細部までは確認出来なかったが、人が転がってるらしい姿が見え る。店主だろう、着物は汚れ擦り切れ、暗闇でも惨たらしく見える。 息は細く、時折呻き声と共に身動ぎする程度で、まったく生命力と言うモノを感じない。 まるで付近の闇に生命を吸い取られているかのようだ。まるで冥府に居るような気持にさせられる。 「・・・・店主、店主よ」 義風はか細い声で、店主に呼びかけてみた。
「・・・・あ、貴方は・・・え、円・・・」 苦しげな吐息と共に吐き出された言葉。切れ切れで聞きとり難く、義風でもこれだけを聞き分けるのが 精一杯であったが。おそらく貴方は円乃の兵ではないのか、と、そう問いたいのだろう。 瀕死とすら言える状態であっても、いや死を身近に見、神経が張り詰めているからこそ、相手の言葉や 動作に含まれる微妙な気配に鋭くなっているのか。義風が並ならぬ者だと察したようだ。 しかし惨い。間近で見るとよりその思いが深くなる。 口を割ろうが割るまいが、この店主を殺す気かもしれない。先程の番兵にも諦めが見える所からすると、 すでに口を割らせる事を、つまりは生かしておく事を止めたとも考えられる。 早く助け出してやらなければ。 「店主、私は円乃に仇なす者だ。私は夜目が利く、返答は首を振れば解る。無理に口を開かなくていい」 店主がゆっくりと頷いた。それだけでもかなりの苦痛だろうが、喋るよりはましだろう。 「私はそなたを助けに参った。外の番兵を見ても何とか抜け出せると思う。辛いだろうが、身を起し、私 に背負われてくれないか」 しかし店主は濃い瞳をゆっくりとこちらへ向けると、同じように静かにゆっくりと、だがはっきりと首 を横に動かした。 そして精一杯の力を使い、まるで命を削るように一言一言話し始める。 要約すれば以下のようになる。 「私は逃げも隠れも致しません。こうなる事も覚悟しておりました。私も今は一介の商人をやっておりま すが、円乃に主家を滅ぼされるまでは武士でありました。武士たる者、例え命が掻き消えてしまおうと、 逃げる訳には参りませぬ。それに、私が居なくなれば、罪は家族と奉公人にまで及ぶでしょう。それだけ は防がねばなりません。ここで私が大人しく死ねば、店は潰されても皆の命だけは残るでしょう。私はせ めてそれだけを財産としたいと思います」 うっかりしていたが、そうなのだ。ここで店主だけを助けても意味が無い。どころか、無用に円乃を怒 らせ、警戒させる事になる。そうなれば、一体どれだけの被害がこの街で起きるだろうか。 見知らぬ数多の人にまで迷惑をかけかねない。そんな事を望むのは、悪鬼羅刹に魂を喰われた者ぐらい だろう。まともな人間がやる事では無かった。 「私は・・・なんと浅はかな事を・・・」 義風は全身から今までの使命感と正義感がごっそりと抜け落ちていくのを感じていた。 正に余計なお世話であり、下手に親切心から出ているだけに、これ以上に始末に悪い事は無いだろう。 目先の事に囚われていたのは、他ならぬ自分の方だったのだ。 自分の理屈のみで動く。これでは他人を笑えまい。 しかし一つだけ救いがあったとすれば、それは店主が偽りの無い感謝を述べてくれた事である。どんな 理由があれ、例え余計なお節介だとしても、自分の為にこんな所まで来てくれた。拷問の後で気落ちして いるだけに、こんなにありがたい事は無かったのだろう。 自分の事をそれだけ考えてくれた人が居る。それだけでも、自分がこの世に生まれてきた意味はあった。 そう言って、店主は痛みに耐えながら、しっかりと頭を下げてくれた。 「・・・・・店主、決して忘れぬ」 義風は熱いものが込み上げてくる衝動に耐え、静かに牢を出、来た時と同じように影になって番所から 去った。その間にはすでに心は澄み渡る程に冷えきっていたが、店主に抱いた尊さは決して忘れる事は無 いだろう。それはしっかりと彼の心に刻み込まれた。 結局刀の恩返し(押し付けだが)は出来なかったのだが、それでも後悔は無かった。どうせ円乃に没収 される刀なのだ、と言う想いと、あの店主の形見としていただきたい、と言う想いが、義風の感情を上手 くまとめてくれたのだろう。 ただ、自分には何も出来ないと言う無力感ははっきりと残り、義風は逃げるように、一度とて番所を振 り返る事無く、自らの泊まる宿へと疾走した。 この世に生まれてきた意味、店主の言ったその言葉が、不思議と重く義風の肩にのしかかる。 |