4-3.洗馬の雄


 美砂坂藤次郎、長ったらしい名前だから、鉄面鬼とも家中で呼ばれているらしい。

 おそらく表情の変わらない鉄の鬼面という意味だろう。喜怒哀楽に乏しい男で、こうして自宅に一人で

居る時ですら、彼は小難しい顔をして手元を睨んでいる。

 飯を食うときもそう、読書をする時もそう、刀の手入れをする時もそう。

 そんな風であるから、家族の者もあまり寄り付こうとしない。嫌われているというよりは、やはり恐れ

られているのだろう。戦国の世に家族も血縁も大して意味の無い事でもあろうし、彼の合理性を思えば、

家庭を顧みない事もまた自然と思える。

 ようするに人情には興味が無いのだ。生まれ付きそうであるのか、後天的にそうなったのかは知らない

が、彼に都合の良い人情論などは通用しまい。だからこそ、こうして権勢高く生きていられるのだろう。

 無論、あまり情が無さ過ぎても、滅ぶ事は多いのだが。

 ともあれ、義風と円乃に彼の事情は関係ない。戦に使えそうかどうか、それだけが解れば良い。

 鬼の身体能力で楽々と街へ忍び込み、噂なり何なりで一刻ばかり探ってみた所。利害関係を重視するの

は本当らしく、謀反相手として都合が良い事が確認できた。

 次に屋敷内へ忍び込み、下男などの世間話を密かに聞きつつ、夜を待った。

 人の話の中だけならば、十二分に利用価値のある男である。鉄面鬼の名の通り、情も何も無く、洗馬に

大人しく服しているように見せている事すら、そちらの方が都合が良いからやっているに過ぎない、とい

う噂だ。

 洗馬当主を傀儡(かいらい)にしておいた方が、自ら矢面に立つよりも、それは楽な事だろう。

 しかしそれだけで叛意があるとは言えない。

 部下や同僚、例え上司でさえ冷静に処理出来る男だとしても、これが主家となるとまた違ってくるもの。

 主家、先祖代々仕えてきた主、これだけは幾許かの情を人に投げ与える。太平楽で弛みきってしまえば、

また話は別になるが。この乱世では逆に結びつきを強める事もある。

 如何に野望のある男であっても、初めからお家を乗っ取ろうとはしない。まずは徐々に内部に入り込み、

自分を外さねば何も出来ぬという状態に持っていってから、初めて乗っ取りという言葉が思い浮かぶものだ。

 その乗っ取りもいささか穏便な都合で、戦ではなく、婚姻など政略で持ってして乗っ取る事が多い。

 独り立ちするよりも、初めは大樹の陰に隠れておる方が、色々と行動がしやすいからである。荒事に出

るのは、よほど自分の地盤が固まった時だけだろう。

 無理をすれば、成功しない。

 美砂坂が謀反を望んでいるかと言えば疑問である。確かに彼は恐れられてはいるが、心服されてはいな

い。ようするに地盤が固まっていない。

 洗馬当主は暴君ではなく。家臣達は勢力争いに終始しつつも、叛意までは抱いていないだろう。

 それに美砂坂くらい聡明な男であれば、如何に他家に取り入ろうとも、いずれ邪魔になれば殺されるだ

ろう事を知っている。よほど信頼させるか、好条件を出さねば、決して云とは言うまい。

 新参者、裏切り者はいつの世でも嫌われる。それをして尚、得であると思わせる事は、なかなかに難し

い。力が要る。しかしそのような大きな力を、わざわざ裏切り者、新参者に与える馬鹿は居まい。

 義風は説得する難しさを悟った。

 心配していた通り、利に聡いだけの男ではなく、冷静に見極められる力を持った男らしい。噂を仕入れ

る度に錐のような鋭さを感じさせられる。

 とはいえ、主命は主命、不可能だろうが可能だろうが、一度受ければ果さねばならぬ。

 主命は絶対である。

 義風は美砂坂の私室へ浸入すると、彼の背中へ、ひらりと舞い降りた。



「どなたざ」

 美砂坂は冷静に問う。殺気のあるなしくらいは当たり前に解るらしい。

「拙者、桐生春風と申す者。本日は主円乃春末様の名代として参った」

「・・・・さようざ。悪いが、わしは忙しい。手短にしてもらおう」

 春末が期待していたような、名の効果は無かったようだ。

 彼としては誰であろうと代りは代り、本人で無い以上、下郎だろうと将軍だろうと変りはしないのかも

しれない。実利こそ全て、自身に満ちた声に、そういう印象を感じる。

 義風はある意味素直な美砂坂に対し、少しくおかしみを覚え、唇を歪ませた。

「ならばこちらを読んでいただこう。拙者の役目はこれを渡す事。全ては読めば解りましょう。明日、同

じ刻限にまた参らせていただく故、伝える事があれば、その時に」

 義風は密書を置き、それだけを言うと、再び天井裏へと跳び上がった。

 美砂坂のような男にはあれこれ言わず、簡潔に用件だけを述べるのが望ましいと思ったからだが。当然、

そのまま帰ったりはしない。

 子供の使いでもあるまいし、無為に帰る忍が何処に居るだろう。

 去った後も、美砂坂は平然としたまま作業を続けている。命令書でも書いているのだろうか。筆を動か

しているのは解るが、丁度背が邪魔になって、上からでは文面が読めない。

 鬼とはいえ、流石に人の肉体を通して、その下の物を見る事は出来ない。今の義風ではせいぜい馬鹿力

がある程度であり、神通力だの妖術などは使えないのである。

 いつぞやは雷光の腕を発現させたが、あれも半ば無意識でやった事。やろうと思えば出来るかもしれな

いが、さりとてここでそんなモノを出しても仕方が無い。

 義風は取り合えず待った。

 書き終えれば、何かしら動きがあるだろう。

 人のやり方でやろうとすると、真に手間のかかるものだ。

 

 夜も深け、ようやく書き物を終えた美砂坂が、まるで塵でも払うかのように密書を手に取った。

 その表情は変わらず、まったく興味が無いようにも見える。しかしその心中はいかがばかりか、じっと

密書を見詰め、何事か考えるように振舞うその様からは、何一つ窺い知れない。

「読めば良かろう」

「何奴!」

 義風の声に美砂坂が反応する。その表情は一変し、細長く半分閉ざされていた目も大きく開き、疑えぬ

恐怖が宿っている事が解った。

 義風の気配は、例え稀代の忍であっても感付けまい。鋭利な美砂坂といえども、所詮は一人の人間。鬼

の前では赤子にも及ばぬ。

「見ろと言うておるのだ」

 今義風は、いつぞやの荒神を思い出し、気配を閉じたまま声だけを美砂坂の耳へ入れている。

 余人が居たとしても、決して聴こえない声。そんな芸当も鬼には簡単な事だ。無論、妖術や幻術の類で

はない。間者など忍ぶ者から見覚えた芸だった。いずれ役に立とうと思い、人知れず彼は学んでいたので

ある。

 美砂坂もこれには取り乱したものの、流石は家中の柱と言われる人物。すぐに平静を取り戻し、義風に

敵意の無いのを感じたのか、いつの間にやら平素の表情へ還っている。

「どなたざ」

「どなたもこなたもない」

「フン、化生の者でも出たと騒ぐと思うか。お前も忍か何かであろう。こうも容易く浸入されるとは、洗

馬も落ちたものだが、・・・・・わしには通じぬぞ」

 美砂坂は不快に口を歪める。

 絶対な信頼を置いていただろう洗馬の警備、一人が忍び入った事でも問題であるのに、これが二人とな

ればもう安楽としていられない。

 誰も忍び込めないからこそ、洗馬は固く結んでいられた。これが容易く入れるとなれば、今も何処で誰

が密謀を企てているか解ったものではない。

 美砂坂が平静を失したのは、むしろそういう動揺からなのだろう。

 義風は揺さぶるべく、圧力をかけるように、自身の持つ異様な気配を美砂坂へと発した。

「読め、何も言わずに読めば良い」

「読まぬ」

「何故」

「見れば疑われよう。こんなものは見ずに皆に見せるのが一番よ! さすれば警備していた者も処罰でき

よう。一石二鳥とはこの事なり」

 言葉ははっきりとしているが、流石に動揺を隠しきれないようで。美砂坂の体が震えている。おそらく

自分では気付いていないだろうが、それがはっきりと解った。

「愚かなり」

「なんだと、忍風情が何を言う!」

 もう一押しと圧力を強めると、容易く美砂坂の鉄面が崩れる。威厳までは失っていないが、こうも他者

の言動に動かされている姿を見ていると、滑稽でならない。

 義風は喜びを覚えてきた。鬼が何故人に関わるかが、少しだけ解ってきたのだろう。

「どうしようと、どの道疑われよう。書を読もうが読むまいが、忍にも口があろう、言葉があろう。それ

にその密書が本物であると、どう証明できるか。本物は他にあり、それから逃れる為の偽書。或いはそう

いう密書を持ち出してきた事が、汝の政争の一環であると、疑わぬ者が居ないとでもいうか。

 愚かなり、愚かなり。汝一人だけが知る忍の存在など、一体誰が信ずるというのか。皆洗馬の警備は絶

対であると、そう信じておるようだぞ。さあ、どうするどうする」

「痴れ者めッ!!」

 美砂坂は頭が回るだけに、こうして疑問や不満を突きつけられると、勝手に頭の方が悪いように悪いよ

うにいくらでも考えてしまう。頭が回るからこそ、疑心暗鬼にかかるということも、良くある事である。

 これが赤子かうつけであれば、初めから悩んだりしまい。

「ならばわしにどうせよと言うのだ!」

「簡単な事、読んでしまえ。そしてその密書さえ燃やしてしまえば、後は誰も知らぬ。読めば良い、気に

なるのだろ。読めば良い、読んだ所で誰も解りはせぬ。読んでからの方が、対処も浮びやすかろうに」

「ううむ・・・・・」

 美砂坂は悩む。

 義風はしかし後は関わらず、さっさと屋敷を抜け出した。

 密書などは読まずそのまま燃やしてしまうのが、おそらく一番良い手なのだが。今の美砂坂ならば必ず

や目を通す。役目は半分果たした。後はまた明日に来て、止めを刺せばいい。

 人の手では困難であれ、鬼の手を使えば、何と容易い事であろう。

 義風は何やら解ったような気がしていた。  




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