4-4.伏鬼


 一夜明け、日が昇ると共に、義風は再び美砂坂邸へ忍び込んだ。

 無論、約束の刻限まで、藤次郎を見張る為である。

 美砂坂は相当悩んだらしい。寝付けなかったのか、或いは寝ていないのか。その表情からは苛立ちだけ

が察せられ、まぶたは重く、瞳は暗く、誰かに疑いを持つ者特有の目をしている。

 まずまず成功と言ったところか。もしここで開き直られてしまうか、或いは冷静に還られてしまえば、

昨夜の労苦を不意にされる所であった。

 例えそうなったとしても、また同じように術中に落としてしまえば良い事であるが。一度で効いてくれ

るに越した事は無い。喜悦の情を得られるとしても、何度も似たような事はしたくない。人間も鬼も、生

来ものぐさに出来ているのだろう。

 室内に密書が無い所を見ると、昨晩義風が去った後、灯りの炎で燃やしたに違いない。その程度の落ち

着きは残っていたのか、はたまた義風が暗示したまま動いただけなのか。

 どちらにしても、こちらにとって上手く運んでいるらしい事は確かだ。

 義風は天井裏にて、ほくそ笑んだ。ここまで上手く運ぶと、彼としても喜びが湧く。

 そして他愛無い事で一喜一憂する自分の姿が、まるで人間であるかのようで、少しだけ安心する。自分

はまだ人間でいられるのだと。

 ただ、その想いとは裏腹に。人間に拘る事を、今はどうでも良く感じ始めている自分も居るように感じ

ていたのだが。

 美砂坂は髪を整え、髭を剃り、衣服を整えている。細々とした事も自身でやっているようだ。おそらく

刺客などを恐れ、普段から人を遠ざけているのだろう。いくら恐れられているとはいえ、こうも訪れる者

が居ないというのは、この時代でも異常かもしれない。

 この用心深さに対しては、いささか驚きを感じた。こうまで徹底していると、何やら神聖めいたものす

ら感じる。

 この一連の作業が、今日も美砂坂藤次郎でいる為の、儀式のようなものにすら思えるのである。

 昨夜見た臆病で取り留めも無い姿、あちらが本来の藤次郎であり、この儀式を終えることで、初めて美

砂坂という重臣の名を背負うのではないか。

 彼はそう思えるまでに執拗に、まるで今の自身の動揺を隠そうとでもするかの如く、見ている方が嫌悪

感を覚えるくらい、身なりに拘っていた。どこがどう違うのか知らないが、彼の中の違和感が消えるまで

は、決して満足出来ないのだろう。

 これこそ美砂坂藤次郎である、そう自分で思えない限り。

 足音が聴こえた。

 足音は室外の丁度中央に止まり、静かにしゃがむと、そのままゆっくりと障子を開いて膳を差し入れる。

それが終われば、また何事も無かったかのように立ち上がり、静かな足取りで去って行った。

 これもまた美砂坂家でのいつもの景色なのだろう。

 藤次郎本人はと言えば、良い匂いのする膳に見向きもせず、先程と変わらず熱心に身なりを整えていた。

 この男は案外不器用な男なのかもしれない。こうして一つの事に集中していなければ、何も出来ない男

なのではないかとすら思える。そこには集中という言葉ではなく、執着という言葉が似合う。

 真を穿てば、家中一の切れ者も、たかだが人間の一人であると、そう云う事だろうか。卑小であり、愚

かしく、そして哀れみを誘う独りの人間であるのだと。

「藤次郎、藤次郎」

 頃合を見計らい、わざと後一歩で儀式が完成するだろう時に声をかけた。

 哀れみも鬼からすれば楽しみの一つに過ぎない。今の義風の目には滑稽(こっけい)としか映らず、更

に心を震わせてやろう、その心を剥がし生身の人間として、愚かしい小心さを暴いてやろう、という悪戯

心にも似たおかしみだけが在る。

 勿論、義風自身は今の己の変化に気付いていない。

 心が冷え、冷え冷えと冷え切った後、次に湧いてきたのは人を見下している故の、人でなきが故に感じ

る、異様な喜悦の心であった事に。

 確かにその時、鬼が居た。



「ひがッ!」

 美砂坂は跳び上がり、崩れたままの姿勢で落ち着き無く四方を見回す。

 唇は妙な形に折れ曲がり、真に見苦しい。鉄面鬼も形無しである。

 完成直前、後一歩、それこそが一番脆い時間であるとはいえ、こうも効果的であれば、仕掛けた義風自

身も少々興醒(きょうざ)めしてしまう。

 虚を突かれた美砂坂は昨夜と同様、まるで溺れているように見えるくらい、滑稽に慌てていた。

 興も醒めるが。しかしそんな姿に満足していない訳でも無かった。興醒めしても喜びは在る。自分の行な

った行為に対する反応には、充分に満足し。そういう意味では喜悦の情も湧いている。

 別段美砂坂が儀式を終えようとそうでなかろうと、鬼にとってはどうでも良い話。自己満足では魔除け

にはならない。それでも敢えて突いたのは、偏にその事から生れる喜悦を味わうが為である。

 一度見つけた喜びの心は、義風の心を飢えさせる。鬼の喜び、これは人である者にとっては、逃れられ

ぬ程大きな喜びであった。

 義風は好んで鬼に近付こうとしている。自覚のないまま鬼を真似ている。鬼を求めている。果たして知ら

なければ良かったのか、知った方が良かったのか。

 知ってしまった以上、変化する事から逃れられない。鬼が侵食を再開し。体の中で修羅が喜びの声を上げ、

失った右腕が歓喜に震え出す。

 しかし義風自身はそれに気付かない。或いは信じたくないが故に、気付かない振りをする。

 修羅と同様、常世で荒神も哂っているだろうか。

 子を成し罪悪感の増した義風の心、鬼の温床となるにこれ以上相応しい場所はなかろう。内に宿ってい

る修羅にとっても、心地よいに違いない。

 単に今それが伝染し、義風の心に影響しているだけだと思いたい。しかし確実に義風は喜悦を覚えてい

た。しかも自らその喜悦を望み始めている。つまりは鬼を望み始めている。

 人である拘りが薄れた時、荒神の目論見にまた、一歩近付く。

 荒神は誰も知らぬ場所で哂っている。

「読んだな、藤次郎」

「お前は・・・・」

 美砂坂は目に拭えぬ恐怖を浮かべている。一度浮んだそれは、もはや終生消える事はあるまい。云わば

鬼の刻印、鬼の玩具に落ちた証であった。

 それを見付け、義風はにんまりと闇に笑みを浮かべる。

「読んだな、藤次郎」

「・・・だから、どうだというのだ」

 美砂坂の狼狽振りも板についてきたものだ。多少面白みは抜けたが、操る喜びにさほどの差はない。

「決めたな」

「決めた?」

「そうだ、決めたのだろうよ」

「な、何の事だ」

 浮き上がる汗は何の為か。恐怖で浮ぶ汗、狼狽に沈む汗、何故人はこのように汗をかく。

 鬼を喜ばせる為に汗をかくのか。そうと思えるほどに、今の美砂坂は滑稽である。しかしこうも滑稽で

あると、流石に飽きもする。鬼もまたより多くの喜悦を望んでいるのだ。永遠にもっと多く、もっと強く

と、餓鬼のように。

 しかし義風も主命だけは忘れていなかった。遊ぶ為にわざわざこのような場所に来た訳ではない。

 鬼である事に飽きれば、今度は人の心が帰ってくる。喜悦に満ちた闇も、今は何処か気持悪い。心地よ

い気持ちもあるが、強くなった人の心が、闇への嫌悪を強くしていく。

 そうなれば益々人の心は強くなり、今まで当然のように浴びていた喜悦でさえも、怖ろしく思えてくる。

 義風は安定しない。いっそ鬼になってしまえば、楽であろうに。

「それが汝が定め、汝は春末に降るのだ」

「な、何を!」

「抗えはせぬ」

「お、お前は何ものなのだ・・・?」

「我か、我は円乃に巣食う鬼。覚えておけ、我が居る事を。しかと覚えておけ」

「お・・・・」

 嫌悪感が高まり、義風はそれ以上関わらず屋敷を出た。

 気持ちが悪い。自分は何をやっていたのだろう。これではまるで話しに聞く鬼そのものではないか。昔

語りに聞く鬼そのものではないか。

 いや、確かに自分は鬼であり、それを疑う心は無い。だがしかし、だがしかし人でもある。人でいたい。

 義風は鬼に溺れる自分に気付き、おそらくは美砂坂が味わったのと似た恐怖を覚えていた。鬼に侵食さ

れる恐怖を・・・・。

 一体いつからだ。いつから闇をこがれ、乞うようになっていたのか。

 仇を討つにはあくまでも人間であらねばならぬ。そうでなければ何の為の仇討ちか。鬼が人の仇を討つ、

そのような事がある訳が無い。鬼が討つのは鬼の仇だけであろう。

 それとも鬼でも人の仇を討てるのか。鬼にも人の情が残るというのだろうか。

 いや、人が残らねば人の情は残らぬはず。このまま鬼となる訳にはいかぬ。一族郎党が冥府で待って居

るのだ。彼らを救うには円乃を根絶やしにし、彼奴らの首を掲げ、伝来の宝刀、凪雲(ナギグモ)を奪い

返さねばならない。

 そうして初めて一族の墓を封じる事が出来、彼らの御魂が浮ばれよう。

「仇を討つ為、修羅に、鬼に取り込まれる訳にはゆかぬ。あくまでもわしは人である。そう、人であらね

ばならぬ」

 義風は全ての雑念を鎮め流すべく、付近の川へと身を沈めた。

 鬼の侵食から逃れる為には、そうでもする外、方法が無かったのである。

 清らかな水の流れは、邪念を祓ってくれるだろう。




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